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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#67 早稲田・高田馬場界隈 〜学生街と神田川周辺の景観〜 (新宿区・文京区)

 2017年9月30日、神楽坂上から早稲田エリアへと到達していた私は、戸山公園の箱根山地区へと足を踏み入れいていました。戸山公園のある一帯は、藩政期の大名屋敷から旧陸軍施設へと変遷し、現在の公園や文教施設、住宅地域となっているものです。戸山公園は明治通りを挟んで2つのエリアに分かれる比較的広大な公園で、東側の「箱根山地区」と呼ばれる区画には、その名のとおり、「箱根山」と呼ばれる高まりが存在しています。尾張徳川家の下屋敷にあった池泉回遊式庭園につくられていた築山が現在に残っているものです。明治以降「箱根山」と呼ばれるようになった築山は、標高44.6メートルで、東京23区内で最も高い場所にあたるのだそうです。



戸山公園
(新宿区戸山三丁目、2017.9.30撮影)
戸山公園

戸山公園・花の広場
(新宿区戸山三丁目、2017.9.30撮影)
戸山公園・箱根山

戸山公園・箱根山
(新宿区戸山二丁目、2017.9.30撮影)
戸山公園

戸山公園・箱根山付近の林
(新宿区戸山二丁目、2017.9.30撮影)
早稲田大学付近

早稲田大学付近の景観
(新宿区西早稲田一丁目、2017.9.30撮影)
大隈記念講堂

早稲田大学・大隈記念講堂
(新宿区戸塚町一丁目、2017.9.30撮影)

 豊かな枝を伸ばす林に囲まれた箱根山周辺は、都心近傍にあって貴重な緑地として、多くの人々を惹きつける存在であるようです。ソメイヨシノの木も多く見受けられまして、ここが春には地域における花見の名所となることも容易に想像できました。本稿を執筆するにあたりしばしば引用している明治期の地勢図を確認しますと、この早稲田界隈は東京市街地の外縁にあたる場所で会ったようで、陸軍戸山学校(現在の戸山公園など)を挟んで、そこから北西は水田が徐々に広がるようになる地域であったようです。台地下を穏やかに流れる神田上水と、その両側の低地に開かれた水田と農村、そしてそれらが台地の際に繁茂した斜面林に抱かれる、そんな風景が展開していたことが推察されます。現在は軍用地として飛地のように開発されなかった一部を除いてあまねく市街地かが進んでいて、往時を偲ぶ事物は戸山公園の「箱根山」などごく一部に限られる状況となっています。

 再び馬場下町交差点へ戻り、早稲田大学早稲田キャンパス方面へと歩を進めました。学生向けの物件を斡旋する不動産会社や書店なども集積する一帯は、学生街としての雰囲気を濃厚に感じさせます。早稲田大学のキャンパス内には多数の建物が林立し、私学の雄としての同学の伝統を垣間見ました。大隈記念講堂の北に隣接し、大隈庭園が一般に開放されていました。江戸時代には彦根藩井伊家や高松藩松平家の下屋敷があり、その庭園を大隈重信が改造したものであるといいます。今日、東京にある庭園は大名屋敷のものが前身であることが少なくなくて、武士の町を起源とするこの都市の成り立ちを如実に示しているようにも思われます。



大隈庭園の風景
(新宿区戸塚町一丁目、2017.9.30撮影)
大隈庭園

大隈庭園とキャンパスの建物
(新宿区戸塚町一丁目、2017.9.30撮影)
神田川

神田川
(文京区関口一丁目/関口二丁目、2017.9.30撮影)
胸突坂

胸突坂
(文京区目白台一丁目/関口二丁目、2017.9.30撮影)
水神神社

水神神社
(文京区目白台一丁目、2017.9.30撮影)
胸突坂から見下ろす

胸突坂から見下ろす
(文京区目白台一丁目、2017.9.30撮影)

 新目白通りを越えて、三面側溝で固められた神田川を渡り、関口芭蕉庵へと上る石段へと進みます。この坂は「胸突坂」と呼ばれます。まさに胸をつかなかれば上ることができないほどの急坂とのニュアンスが含まれた坂に沿って、水神神社が祀られていることから、この坂は「水神坂」とも称されたようです。西側には肥後細川庭園の美しい風景が隣り合っていまして、この一帯は台地と低地の境目に発達していた斜面林の姿を今にとどめているように感じられます。清らかな神田上水の流れの反対側には早稲田田んぼが広がり、さらにその遠景には富士山を見通すことのできるこの場所は、江戸の人々にとって身近な行楽の地でありました。

 豊橋で神田川を南側へ越え、都電荒川線・早稲田駅停留場の前を過ぎ、やはり徳川御三卿・清水家の下屋敷跡にあった大名庭園を礎とする庭園が整えられた甘泉園公園へ。「甘泉園」の名は、この場所に湧き出していた水が甘く、お茶に適していると評判であったことに因むといいます。公園に隣接し、水稲荷神社も建立されています。台地と低地の境目は、関東地方では「はけ」と呼ばれ、台地に浸透した水が湧き出すことから、「はけ」には湧水が多いという特徴があります。そのため、林が生育しやすいという特質も併せ持ちます。この早稲田の地に大名の下屋敷が多く、さらにそれぞれに池泉回遊式の庭園が整備された背景には、城下郊外にあって豊かな自然環境に恵まれていたことと、地形的に豊富な湧き水を得ることができたことがあるいは関係していたのかもしれません。甘泉園公園の南、西早稲田三丁目1番から14番に至る、早稲田通り北側に接した長方形の土地が、高田馬場跡で、1636(寛永13)年に旗本たちの馬術の練習場として開かれたものでした。

肥後細川庭園

肥後細川庭園
(文京区目白台一丁目、2017.9.30撮影)
肥後細川庭園

肥後細川庭園
(文京区目白台一丁目、2017.9.30撮影)
都電荒川線・早稲田停留場

都電荒川線・早稲田停留場
(新宿区西早稲田一丁目、2017.9.30撮影)
甘泉園公園

甘泉園公園
(新宿区西早稲田三丁目、2017.9.30撮影)
高田馬場跡

高田馬場跡付近の町並み
(新宿区西早稲田三丁目、2017.9.30撮影)
JR高田馬場駅へ向かう

JR高田馬場駅へと向かう早稲田通りの景観
(新宿区西早稲田三丁目、2017.9.30撮影)

 陽が徐々に傾き始めたため、早稲田通りを西へ、JR高田馬場駅へと急ぎました。駅に近づくにつれて商店街の密度も増して、繁華な市街地としての高田馬場の趨勢を実感しました。神楽坂上界隈から高野馬場へと逍遙した今回の散策は、藩政期以降人々の生活に近接した農村地域として、また人々が遊興に興じた土地から、市街化が進んだ住宅地や学生街へと変貌を遂げてきた地域の歴史をつぶさに跡づける行程になったのではと思います。


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