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Another phases of “YOKOHAMA”
〜もうひとつの都市・横浜〜

2004年2月11日、地下鉄みなとみらい線開業に沸く横浜を訪れました。みなとみらい、山下公園、元町、中華街・・・と歩いていく中で、現在の美しい近代的な都市景観の行間に、異国への玄関口としてただ真っ直ぐに邁進していた、輝かしい時代の横浜を随所に確認することができたような気がします。さあ、もう1つの横浜を探しに出かけてみましょう。


横浜港方向

ランドマークタワー・スカイガーデンからの展望
(2004.2.11撮影)
みなとみらい遠望

大桟橋からみた「みなとみらい地区」
(2004.2.11撮影)


訪問者カウンタ
ページ設置:2004年2月16日

みなとみらい地区から赤レンガパークへ

ただ大きな箱がたくさんあり、それら大きな箱以上の存在感を示す空き地がまた広く展開する場所。みなとみらい線みなとみらい駅の北側の出口から地上に出て、地図に「いちょう通」と記載された街路周辺の眺望を見ての率直な感想でした。なるべく横浜での時間をとろうと思い、太田発の特急りょうもう号の始発(午前5時50分発)に乗ってきたため、時間がまだ午前9時前であったこと、そして何よりこの日が祝日であったことも念頭に置かなければなりませんが、超高層の建物群がある割には、都市的な「凄み」のようなものを感じない街区でありました。新高島駅が設置されている高島地区とともに、新都心としての基盤整備が進められていくことと思いますが、その未来は果たして明るいものとなるでしょうか。

ところで、この高島です。東急東横線横浜駅以南の廃止によってその役割を終えた高島町駅を含むエリアの町名です。現在のみなとみらい地区はもちろんのこと、JR横浜駅のある付近、住居表示でみますと北幸、南幸、岡野、平沼などの地域はもともと海であった場所で、奥深く湾入する干潟であったことから、「袖ヶ浦」と呼ばれた景勝地であったそうです。この干潟を、神奈川の町から、横浜へと跨ぐように鉄道用地を完成させたのが、実業家の高島嘉右衛門で、高島町にその名を残しています。日本で最初の鉄道(新橋〜横浜)を敷設するにあたり、神奈川から関内までのルートは袖ヶ浦の湾岸(野毛浦海岸と呼ばれました)は丘陵が迫る狭い砂浜で、鉄路を通すほどの余裕が無かったことから、神奈川から海上をショートカットする構想が持ち上がりました。神奈川から戸部付近まで、袖ヶ浦の湾に蓋をするような形で鉄道用地が埋め立てられ、1872(明治5)年に、新橋(現在の汐留付近)〜横浜(現在の桜木町駅)の鉄道が開通しました。現在のみなとみらいの高層ビルの林立する状態からは、往時のようすを想像することは全くできませんが、桜木町駅のすぐ西側に迫る野毛山の丘陵の緑がそういった横浜の原風景を物語っているのかもしれませんね。ランドマークタワーのスカイガーデンからは、横浜の町を文字通り一望できます。港町を基礎として成長した横浜、東京大都市圏の拡大と共に宅地化が進行したベッドタウンとしての横浜、その両方を俯瞰することができるのは興味深いところです。

臨港パークから見たランドマークタワー

臨港パークから見たランドマークタワー
(西区みなとみらい一丁目、2004.2.11撮影)
汽車道

汽車道
(2004.2.11撮影)
汽車道から野毛山方向を望む

汽車道から野毛山方向を望む
(2004.2.11撮影)
ナビオス横浜のたもと

錨のモニュメント
(中区新港二丁目、2004.2.11撮影)

桜木町駅前から、ランドマークタワーのたもとに佇む日本丸のマストの先端を見ながら、赤レンガパーク方向へ汽車道を進みます。このルートは、新港埠頭の物資輸送のために敷設された臨港鉄道の遺構を保存しながら、遊歩道として再整備を図ったものです。現在は山下埠頭臨港鉄道のルートを利用して2002年春に設置された散策ルート「開港の道」の一部ともなっていて、みなとみらいから山下公園へと至るベイエリアを穏やかに移動することができるようになっています。みなとみらいやその背後の町並み、港周辺の海や港湾施設等を総合的に眺めることができる汽車道は、まさに絶好の横浜の町並み眺望スポットの1つといえるかもしれません。帝蚕倉庫の古びた佇まいや、運河にもやってある屋形船のようなはしけたちの様子なども、昔ながらの横浜を投影する姿なのでしょうか。汽車道には、3つのトラス橋が往時のままかけられていまして、周辺の景観に一定のエッセンスを与えています。桜木町駅に近いほうから、順に港一号橋梁、港二号橋梁、港三号橋梁と呼ばれています。一号橋梁及び二号橋梁(トラス橋部分)は同形で、1909(明治42)年に鉄道院によって架設され、2連の30フィート鈑桁橋と100フィートのトラス橋とが組み合わされたもので、架設の2年前にアメリカン・ブリッジ・カンパニーが製造したものなのだそうです。一方の三号橋梁はといいますとちょっと変わった来歴を持つ橋のようで、旧大岡川橋梁の一部を移設したものなのですが、この大岡橋梁自体が、北海道の夕張川橋梁(1906(明治39)年架設)と総武鉄道江戸川橋梁(1907(明治40)年架設)を移設して架設されたものなのです。それらのうちの夕張川橋梁であった部分が一部短くされた上、汽車道の港三号橋梁として保存されているというわけです。凱旋門のような特徴的なアーチを形づくるナビオス横浜のたもとには、錨をモチーフに下モニュメントがあり、港町の風情に花を添えています。また、錨が見据える先には、赤レンガ倉庫を中心とした公園が整備されています。

赤レンガ倉庫とランドマークタワー

赤レンガ倉庫とランドマークタワー
(中区新港一丁目、2004.2.11撮影)
正面の橋は新港橋

古めかしい岸壁の見える風景
(中区新港一丁目、2004.2.11撮影)

赤レンガ倉庫は、1899(明治32)年に新港埠頭が着工された時、その付属設備として建築されたものを萌芽としていまして、1911(明治44)年に二号倉庫が、また1913年(大正2年)には一号倉庫が完成しています。関東大震災による被害を受けながらも、昭和初期まで横浜税関の施設として使用され、生糸貿易の中心的な役割を果たしてきたのでした。1号館は、関東大震災で崩壊した影響で、もともと同じ規模であった2号館よりも小さいものとなりました。その一角に、「since1911 renewaled 2002」(文字は正確ではありません・・・)という文字だけが書かれたモニュメントが設置されていました。港町横浜の第一線を生き抜き、21世紀を迎え、新たな役割を与えられた赤レンガの建物の歴史を、そのモニュメントはシンプルながらも巧みに表現しています。おしゃれなデザインをした避雷針の乗った赤レンガ倉庫の彼方に、現代の横浜のシンボル、ランドマークタワーが屹立していました。


開港の道

赤レンガ倉庫の前を後にし、新港橋を渡って、大桟橋へ向かいます。ここから大桟橋の横を過ぎ、山下公園までの部分の「開港の道」は、山下埠頭臨港鉄道の路線跡を再生したものであることは、先に述べました。この路線は、1986(昭和61)年に廃線となった後も、山下公園を横切る姿が印象的でしたが、その歴史は意外に新しいもので、開業は1965(昭和40)年なのだそうです。2000(平成12)年に高架橋部分の大部分は撤去されましたが、赤レンガパークから山下公園入口までの区間は、みなとみらいから大桟橋までをゆったりと散策できるプロムナードとして生まれ変わったというわけですね。私が歩いたこの日も、ベイエリアを散策する多くの人々が繰り出していました。

程なくして、「クイーン」の愛称で親しまれている、横浜税関のたおやかな建物が目に入ってきます。グリーンのドームを頂く瀟洒な塔が春のうららかな空にたいへん映えて、海の穏やかなブルーにやわらかな印象を与えているかのようです。1934(昭和9)年に建築された税関の建物は、港・横浜のシンボルとして、この港を見守ってきました。最近まで歴史的建造物の大部分を残したままで増築工事が進められていまして、この程竣工したニュースをテレビで見ていましたので、実物を目の前にしますと、感慨もひとしおです。となりには、「キング」の愛称で呼ばれる神奈川県庁本庁舎の高塔が並んでいまして、港横浜のムードをいっそう盛り上げています。1928(昭和3)年建築の県庁本庁舎は、女性的な容貌の税関建物とは対照的に、どこか無骨な、堂々とした印象の建物です。クラシックな雰囲気を持ちつつも、和風のテイストを意識したというそのスタイルは、後のいわゆる「帝冠様式」の先駆けとなったものです。なお、今回は散策をすることができませんでしたが、付近には「ジャック」の愛称で知られる高塔を持つ開港記念会館も威容を見せています。これら「キング」「クイーン」「ジャック」は、横浜港に帰還した船員や旅客などにとって、最初に横浜に帰ってきたことを意識させる横浜のシンボルであり、横浜にかかわりのある多くの人たちにとっての憧憬の対象でありました。

「開港の道」

「開港の道」
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
横浜税関、「クイーン」の塔

横浜税関、「クイーン」の塔
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
税関と「キング」の塔(神奈川県庁)

税関と「キング」の塔(神奈川県庁)
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
「象の鼻」と大桟橋を望む

「象の鼻」と大桟橋を望む
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)

そして、それらの横浜を背負ってきた建造物の見据える先に、近年大幅にリニューアルされた大桟橋が突き出しています。このあたりから、プロムナードは高さを増して、眺望が開けるようになります。大桟橋へと降りることができる階段の手前、大きく変貌を遂げている横浜のベイエリアにあって、どこか雑然とした港湾風景が広がります。艀が海面にたむろし、磨耗の進んだ岸壁が剥き出しになっています。どこか一昔前の古びた波止場のようなその風景に目が止まりまして、こうして観光エリアとして生まれ変わる前の、純粋に交易のための港としてこのあたりが機能していた頃の風景が今に残されているとしたら、こんな感じなのではないだろうか、というイマジネーションが膨らみました。自宅に帰り、ネット等で調べてみますと、果たしてこの界隈が横浜開港当初の波止場があった所だということが分かったのです。そして、大桟橋のたもとからこの艀泊まりに突き出している突堤が、「象の鼻」と呼ばれていて、横浜港草創期以来残されてきた、近代遺産であるのだそうです。プロムナードから大桟橋通りに降りて、大桟橋へ向かうルートは、どこか昔懐かしい雰囲気の建物が多く、そういった横浜港の古きよき姿をよく留めているように思いました。リニューアルの風が勢いを増して展開してきた横浜港周辺地域ですが、こういったノスタルジックな部分もいまだ多く残されているのですね。大切にしていきたい、横浜の風景であるように思います。

大桟橋の様子

大桟橋の様子
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
ベイブリッジ、行き交うパイロット船

ベイブリッジ、行き交うパイロット※船
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
キング、クイーンと象の鼻

キング、クイーンと象の鼻
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
大桟橋通付近の町並み

大桟橋通付近の町並み
(中区海岸通一丁目、2004.2.11撮影)
                                                   ※「パイロット」とは、もともと「水先案内人」を指す言葉です。

2002年秋に、大改修を終えてグランド・オープンをした大桟橋は、正式には「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」といいます。入口には、入港予定を知らせる表示があり、香港をはじめとした地域からの入港があることを告げています。外国への玄関口としての横浜が健在であることを実感しました。ターミナルの建物のたもとには、「101年間大桟橋を支えつづけた螺旋杭」という表題で、大桟橋を基礎から支えてきた螺旋状の円盤を一端につけた杭(この杭自体は、関東大震災の復旧工事で施工されたものだそうです)が展示されていました。1894年(明治27年)にその原形の鉄桟橋が竣工した大桟橋は、横浜港草創期の石積みの波止場の1つであった「イギリス波止場」がまさにあった場所でした。現在の大桟橋は、大改修を終えて、板張りで覆い一部芝生を設けた屋上を備えていまして、みなとみらいから赤レンガ倉庫、税関や象の鼻にかけてのこれまで辿ってきたエリアに加え、山下公園や氷川丸、彼方にはベイブリッジまで一望できる新たな観光スポットとなりました。360度視界が開ける大桟橋からの眺望は壮観で、新旧の横浜を体中に感じることができました。その中で、やはり税関のクイーンや象の鼻がある一帯が、最も「忠実」に港に向かっているのではないかと思いました。山下公園へ向かい、大桟橋通りを歩いていますと、プロムナードとなった高架橋に、「WELCOME TO YOKOHAMA YOKOHAMA INTERNATIONAL PASSENGER TERMINAL」の文字が燦然と輝いていました。「PORT OF YOKOHAMA 1859」という文字が刻まれたシンボルマークは、港こそが横浜のオリジンであることを、何よりも雄弁に主張していました。


みどりの軸線

大桟橋から、山下公園、港の見える丘公園、元町、中華街と、横浜散策を続けました。このエリアはみなとみらい線の開業によるインパクトを最も受けたエリアの1つのようで、春らしい陽気に恵まれた休日のこの日は、たいへんな賑わいを見せていました。フランス橋、山手111番館、元町のフェニックスをかたどったモニュメントなどが印象に残っています。実に横浜らしい事物に、たくさん出会うことができました。

山下埠頭・荷さばき地

山下埠頭・荷さばき地
(中区山下町、2004.2.11撮影)
フランス橋と山手の景観

フランス橋と山手の景観
(中区山手町、2004.2.11撮影)
山手111番館

山手111番館
(中区山手町、2004.2.11撮影)
元町・フェニックスアーチ

元町・フェニックスアーチ
(中区元町五丁目、2004.2.11撮影)

元町・中華街駅から再びみなとみらい線に乗り、日本大通駅で下車(一駅だけ・・・一日乗車券で移動していましたので・・・)、横浜スタジアムが立地する横浜公園方向へと歩きました。神奈川県庁本庁舎をはじめ、横浜情報文化センター(1929(昭和4)年に建築された旧横浜商工奨励館の建物をファサードに利用)や旧建物を復元した横浜地方・簡易裁判所(旧建物は1930(昭和5)年竣工)などの近代建築が建ち並ぶ日本大通を通過し、横浜公園内へ。正面に横浜スタジアムがどっしりとした姿を見せている公園内は、緑が多く配されていまして、噴水や池が配された日本庭園などもあって、市民の憩いの場所となっているようでした。1978(昭和53)年に完成した横浜スタジアムは、プロ野球横浜ベイスターズの本拠地として、広く知られてるところですが、野球場としての歴史は存外に古いようで、横浜公園が完成した1876(明治9)年には、既にクリケット競技場(野球場も兼ねていた)として存在していたのだそうです。横浜公園の建設が計画されるきっかけとなったのは、1866(慶応2)年に起きた大火災でありました。この火災は、出火元が豚肉料理屋であったことから「豚屋火事」として知られていますが、関内地区のたいへんを焼き尽くす被害を出す大惨事となりました。横浜公園をはじめ、日本大通や馬車道、海岸通などの街路は、この火災の復興事業によって建設されたものなのだそうです。以来、横浜・関内地域のゆたかな都市景観としてそれらは維持され、再生されながら、今日に受け継がれてまいりました。

横浜スタジアムの横をJR関内駅方面へ歩き、横浜市庁舎の横を通過し、根岸線のガード下をくぐりますと、横浜公園の緑はJR関内駅の南、大通り公園の並木へと受け継がれていきます。大通り公園は、かつての吉田川を埋め立ててつくられた公園です。JR関内駅から旧坂東橋にかけて展開する、長さ1.2キロメートル、幅30〜40メートル、面積3.6ヘクタールに及ぶ、大緑地帯を形成する大通り公園は、1978(昭和53)年に完成していまして、横浜市を代表する公園として、横浜公園と並んで、市民の憩いの場となっています。現在の大通り公園は、公園全体の老朽化に伴って1999〜2002(平成11〜14)年に再整備が行われたもので、関内駅から近い方から、「石の広場」、「水の広場」、「緑の森」という3つのそれぞれに特色のあるゾーンのある公園として生まれ変わりました。石の広場は、両側に高層建築物が迫る中にあって、かなりの空間が公園として確保されているといった雰囲気で、設置されている石のステージの上に立って南西方向を見渡しますと、都市化の波の中にあって、河川の流路を利用したものとはいいながら、よくぞこれほどのスペースを今日まで維持することができたな、という感慨が湧いてくるようです。といいますのも、この大通り公園は、本来は現在とはまったく別の姿になっていたはずだったからです。

戦後の高度経済成長により、京浜地域はかつてない勢いで都市化が進行していましたが、国は、既存の道路から溢れる交通需要を受け入れるためのインフラの1つとして、首都高速の横羽線の開通を急いでいました。工事は順調に進行し、現在のみなとみらいまで高架による道路が完成したところで、素早く関内方向への工事にも着手することとなりました。国の計画は、最もコストのかからない高架方式で関内駅の南を通過し、現在は石川町駅付近で分岐している狩場線とのジャンクションを関内駅南側に設けた上で、大通り公園となる敷地の上を高架で通過するというもので、1968(昭和43)年2月には都市計画決定が下されました。そうです、大通り公園の真上には、当初は首都高速の高架が通過するはずだったのです。しかも、高架は大通り公園のみならず、JR関内駅のすぐ南を横断する計画となっていたのです。

横浜情報文化センター

横浜情報文化センター
(中区日本大通、2004.2.11撮影)
横浜公園入口

横浜公園入口
(中区港町一丁目、2004.2.11撮影)
右手の建物は横浜市庁舎

大通り公園、関内駅方向を見る
(中区蓬莱町一丁目、2004.2.11撮影)
大通り公園の景観

大通り公園の景観
(中区蓬莱町一丁目、2004.2.11撮影)
イセザキモール入口、地下化した首都高速

イセザキモール入口、地下化した首都高速
(中区末広町一丁目、2004.2.11撮影)
県立歴史博物館

県立歴史博物館
(中区南仲通五丁目、2004.2.11撮影)

横浜市は、「みどりの軸線」構想というマスタープランを描いていました。これは、横浜公園と大通り公園を緑豊かな公園として整備し、都市横浜のオリジンとして関内地域を再整備するというもので、戦災復興の流れの中で雑然とした感のあった都市景観を整えるという効果を期待しての計画でした。そこへ、その構想を根本から頓挫へ追い込む、国の道路建設政策が舞い込んできたわけです。国の強力な推進のもとで、高速道路建設計画は国主導で瞬く間に進められ、都市計画決定を見た状況下にあって、市当局ではみどりの軸線構想を完全に破壊するこの道路建設計画の取り扱いについて相当に紛糾したのですが、最終的には当時の飛鳥田・横浜市長の決断によって、関内駅付近の高速道路の地下化・半地下化と、大通り公園上のルートの回避による、「みどりの軸線」構想の実施を貫くという方向で、市として取り組むこととなったのでした。

そして、1970(昭和45)年11月に、ついに横浜市の希望どおり、高速道路の建設計画は関内駅南の部分で半地下化・地下化され、大通り公園の真上を通過する予定だった首都高速狩場線のルートも、JR石川町駅付近で分岐する現在のルートに変更されたのでした。こうして、横浜市の都心地域の「みどりの軸線」は守られたのでした。狩場線のルートが中村川の真上を通過していることは、結果として山手町と関内地域との間に強力なエッジをつくることとなり、山手の緑豊かな景観が遮られたり、元町商店街と関内とをわける谷戸橋や西の橋のつくるモダンな都市景観が高速道路の高架によって雑然としたものになってしまったりしたなどといった副産物を生みました。それは、都市横浜のプライドにかけても、「みどりの軸線」を守ろうと取り組んだ横浜市が採らざるを得なかった苦渋の選択の跡と見ることもできるのかもしれません。水の広場では、多くの市民が夕刻のせまる中で、将棋をさしたり、スケートボードに興じたりする平和な光景が見られました。そして、その背後には緑豊かな「緑の森」ゾーンが穏やかに広がっているのでした。

私の横浜散策は、伊勢佐木町から馬車道を経て、終わりました。イセザキモールは活気のある、庶民的な雰囲気のある商店街という印象でした。半地下化された高速道路の上を横切り入っていった馬車道は、打って変わって高層ビルの中に佇む商店街。旧横浜正金銀行の建物を利用した神奈川県立歴史博物館や、旧川崎銀行横浜支店の建物をファサードに利用した日本興亜馬車道ビルなど、横浜の近代建築が奥ゆかしく存在するまちでした。


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