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2011年春、山河に陽光を求めて
2011年春、3月に発生した東日本大震災は各地に甚大な被害をもたらしました。そうした中にあっても、各地域は春を迎え、のびやかな風景を確認することができました。各地の春の姿を通して、かけがえのない大地のあたたかさを描きます。 |
北へ、みちのくへ 〜桜に彩られる春をめぐる〜 2011年4月29日、晩春の地元を出発し北を目指しました。関東の平野部では桜の季節が終わり、陽春の空気は北へと駆け巡る季節となっていました。みちのくへの入口にほど近い栃木県大田原市の山間部、磯上(いそがみ)のヤマザクラ(県指定天然記念物)は、田に水が引き入れ始めていた山里を穏やかに見守っているような姿を見せていました。樹齢約300年というヤマザクラは、小ぢんまりとした祠の脇に凛とした姿を見せていました。傍らの鳥居はここから東へ約6.5キロメートルほどの八溝山頂に鎮座する八溝峰神社の一の鳥居であるようです。桜はやや盛りを過ぎていましたが、野辺のヤマブキの花やハナモモ、菜の花などが春本番の勢いを空に伝えて、間近に訪れようとしている初夏へのプレリュードを奏でているようにも感じました。遥か彼方に見える那須連山も残雪を春空に輝かせていました。
国道294号を北へ進み、みちのくの玄関口・白河へ。阿武隈川と谷津田(やんた)川に挟まれた、比較的平坦な河谷平野に広がる市街地は、旧陸羽街道が貫通する城下町を基盤とした町割が色濃く残る都邑です。市街地を緩やかに流下する谷津田川の至近に位置する市役所か散策を始めます。市街地を迂回するようなバイパス的な道路やJR白河駅前から続く通りなど拡幅された道路が整備される一方、国道294号に指定される中心市街地を構成する道路に、クランク状に曲げられたいわゆる「鉤の手」が認められるが印象的です。 古い建物も多く残る市街地には、隣接する街路との間に階段がある場所もあって、阿武隈川によって形成されたわずかな段丘状の地形の上に市街地(かつての城下町)ができあがっていることも理解されました。白河藩成立後に金物職人が集められたことからその名があるという金屋町は、谷津田川に面していくつかの寺院があります。そのうちのひとつ妙関寺の境内には「乙姫桜」と呼ばれるベニシダレザクラがあって、美しく花が咲き乱れる枝がしなやかに春風になびいていました。谷津田川沿いを歩きますと、雪がまだ残る那須連山が川上にさわやかに見えていました。
市街地内では限定的に見えた東日本大震災の爪痕は、白河小峰城跡(城山公園)内ではその影響を見せていました。JR白河駅横にあるトンネルを通り、北側にある城内では、石垣が所々で崩落し、三重櫓のある本丸方面への侵入は禁止されていました(2015年10月現在、修復が進んで本丸への入場はできるようになっています)。大きく崩落した石垣の上には、何本かの桜がのびやかな花を咲かせていて、災害に傷ついた地域を励ましているようにも感じられました。大正期の洋風建築である白河ハリストス正教会の建物を一瞥した後は、藩政期から遊興の地として市民に開放されていた南湖公園周辺を訪れ、震災直後ながらも淡々と過ぎゆく春の気高さを味わいました。
白河訪問を終えた後はさらに福島県内を北へ進んで、会津へ向かいました。冬の間雪に覆われる会津地方は、春の訪れとともにいっせいに桜の花が開いて、まさに命萌え出ずる季節を迎えていました。市街地北東の田園地帯の片隅に堂々たる樹勢を見せる石部桜は、樹齢600年超といわれる古木で、遠くからもその存在感に圧倒されます。中世に会津を治めていた葦名氏の重臣、石部治部大輔(いしべ じぶだゆう)の屋敷跡であったというこの場所で、その庭に植えられていた桜だけがかつての主人の名を負っていることが、奥深い歴史に彩られた会津を象徴しているようにも感じられます。畦にはタンポポやスイセン、菜の花、土筆などが目を出し始めた草のさみどり色に美しく映えて、春本番を実感させていました。石部桜越しに望む会津若松の市街地も輝かしく春の日を浴びています。 石部桜の素晴らしい桜色を観た後は、日本さくら名所100選のひとつでもある鶴ヶ城公園へ。幕末当時の赤瓦への葺き替えがなり装いも新たとなった城は、満開を迎えたソメイヨシノの海に浮かぶ白亜の楼閣となっていました。桜の上にそびえる城を見上げる景色、天守閣から眼下に広がる桜を見下ろす俯瞰、それぞれにたいへん艶やかで、煌びやかな桜絵巻が展開されていました。そして、ゆるやかな山々に囲まれる会津若松の市街地や、その背後の母なる会津盆地の雄大な風景も変わらぬたおやかさを見せていました。会津訪問の最後は、会津若松市の西にある会津美里町にある「米沢の千年桜」の訪問でした。種蒔き桜との呼ばれるこのベニシダレザクラは樹齢約700年。古くから桜の開花が種をまく目安となっていた桜樹は、はるか会津盆地の田園をいとおしく見つめるような場所で、慎ましやかに桜色を春空に届けていました。
由利本荘市散策 〜かすみ桜と鳥海山麓の町〜 5月14日、東北道をさらに北へ、北上から秋田道に入り、大曲で高速を降りて、秋田県南部、出羽山地の山中へと車を走らせました。道中の東北道は通行はできるようになっていたものの、所々で路面にひびが入っており応急的な補修が行われていた個所もあったように記憶しています。初夏を迎え、里では田植えが始まり新緑が徐々にその色を濃くしていく季節、穏やかな山のあわいでは、緑色のキャンバスにスポイトで桜色を落としたようなほのかなヤマザクラがひっそりと佇んでいました。その霞がかかったような立ち姿から「かすみ桜」と呼ばれる桜は、長い冬を越えてようやく訪れた温もりをいっぱいにその身に浸しながら、人里離れたこの山奥で静かに時を刻んでいました。
この日は雨は落ちていないものの終始薄曇りで、5月中旬ながらやや肌寒ささえ感じるような陽気でした。鳥海山の山麓、由利地域一帯の中心都市本荘へやって来ました。本荘は2005(平成17)年3月に周辺の由利郡7町と合併して、現在は由利本荘市となっています。藩政期の1610(慶長15)年に築かれ、その後曲折を経ながら本荘藩の藩庁となった本荘城跡にある市役所から街並み歩きを開始しました。 子吉川の河口から約3キロメートル、尾崎山に建設された本荘城とその城下町はその要衝性から次第に由利地域における中心都市としての地位を得て現在に至ります。城跡は市役所の敷地となっているほか、桜やつつじの名所として知られる本荘公園となっています。天気が良ければ鳥海山の山並みも眺望することができるようです。公園の北には濠があり、模擬大手門が復元されています。
本荘公園から東方にあるJR羽後本荘駅へ向かう途中には、現在由利本荘市文化交流館カダーレとして開館している施設の工事が行われていました。この駅前へ向かう県道やいくつかの通りが部分的に拡幅されているほかは、概して5〜6メートルほどの狭い街路が多くて、こうした道に沿って土蔵造りの建物などの比較的古い建築物が残っており、城下町として成長してきな町の歴史を感じました。部分的に広げられた道路はいずれ市街地を碁盤目状に通す計画のようで、前出の交流施設や中心市街地への集客のために交通網を整備しながら、中心市街地を活性化させる意図が感じられます。 本荘城跡(本荘公園)を扇の要として、子吉川に向かって成立した市街地は、画一的な道路拡幅の影響もあってか、所々に近代建築など特色のある建物が残りながらも町場としての集積性が希釈されて、十分な個性を発揮できていないように感じられます。藩政期の本荘の大半を治めた六郷家の菩提寺永泉寺(ようせんじ)山門(県指定有形文化財)も、門前を拡幅された道路が通過し、それによって町並みが分断されてしまっているようなきらいがありました。最後に子吉川を渡った市街と対岸にある新山(しんざん)公園から市街地を俯瞰しました。子吉川に抱かれるようにしてある穏やかな家並みが、本荘公園の緑を中心に豊かに展開し、右手(西側)の日本海へ続く様子がとても印象に残りました。晴れていれば遥か彼方、鳥海山が雄大な姿を見せて優しく包み込んでいる風景を見ることができるのでしょう。こうした風景を生かすことが、市街地の景観形成のヒントになるのではないかと感じました。
かすみ桜に感嘆した1週間前の5月7日、地元片品村山中に春の一瞬華麗に咲き誇る天王桜に会いにいっていました。水芭蕉の森では、ミズバショウやザゼンソウが春の訪れを告げるかのように可憐に花を咲かせています。まだ春浅い厳寒の山間や町の片隅でひっそりと生まれた春の輝きは、震災を経験してもなおゆるやかにその歩みを止めることなく、春本番へと時を刻みました。自然のそうしたたくましさに勇気を与えられ、また、そうした気高さの中に一筋の光明を求めていたような2011年春であったように思います。 |
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