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岐阜、“空白の時間”を求めて・・・

2005年3月、名古屋訪問を終え、岐阜市内を歩きました。
間もなく廃止となる市内電車を一瞥しながら、長良川や金華山などがたおやかな市街地を歩いていますと、
岐阜の市街地が歩んださまざまな時間の累積を見つけることができたような気がします。

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ページ設置:2005年5月22日

神田町、長良橋通りを北へ −岐阜市街地散歩−

しばしば、「岐阜は城下町か」という議論を耳にします。それは、「城下町」という表現をする場合、それは一般に江戸期以降に建設された、大名が実質的に支配した政治経済の中心都市を指すことによります。ここで、簡単に岐阜市街地の概略をまとめてみます。斎藤道三は、彼の父長井新左衛門尉から2代にわたる「国盗り物語」によって、美濃国の実権を握り、当時「稲葉山城」と呼ばれた岐阜城を居城とします。その後織田信長の領するところとなり、城を「岐阜城」と改称、天下統一の拠点として城下町を整備しました。岐阜市街地を「城下町」として捉える場合、それはこの時期のことを指して呼ぶことが多いようです。江戸時代に入ると、岐阜城は廃城となり、変わって南の中山道沿線に譜代大名の支配になる加納の城下町が建設され、天守閣や櫓などは加納城に移されたのだそうです。岐阜市街地は尾張徳川家の領地下における商業都市として近世を過ごしました。明治期に入り岐阜は市町村制施行と共に市制を敷き、県庁所在都市の地位を得て、再び中心性を取り戻し、1940(昭和15)年加納町を編入、その後も市域を拡大して現在に至ります。岐阜の市街地の地図を見ますと、1つ1つの細かい通りに沿って区画された、極めて細かい町名が設定されているのが分かります。こういった町名の構造は、「住居表示」の制度によりその多くは見かけ上は姿を消した、近世城下町を礎とする都市にしばしば見られる特徴であると私は理解しておりまして、そのような現代の都市でも見かけることが稀になってしまった姿を地図上に展開させる岐阜は、戦国末期から近世初頭にかけて形成された“古の城下町”の姿そのものではないかとも思えてしまいます。そして、江戸時代の岐阜はどのような町として存在してきたのでしょうか。そんな“空白の時間”を味わってみたくて、岐阜駅から名鉄岐阜駅前へ、市内電車のルートとなっている神田町(「長良橋通り」という愛称があるようですね)へと向かいました。

名鉄岐阜駅前

名鉄岐阜駅前、最晩年の岐阜市内電車
(岐阜市神田町八丁目、2005.3.20撮影)


金宝町電停(当時)付近

金宝町電停(当時)付近
(岐阜市神田町七丁目、2005.3.20撮影)

岐阜・徹明町

神田町五丁目(徹明町)交差点付近
(岐阜市神田町五丁目、2005.3.20撮影)
柳ヶ瀬

柳ヶ瀬通り
(岐阜市柳ヶ瀬通、2005.3.20撮影)

3月31日の廃止を控え、名鉄岐阜市内線、最晩年の姿を見ました。その姿はアーケードが鋭角的に整えられた街路景観にあって町並みに温かみを与えているかのように見えました。市電の横をひっきりなしに自家用車やらバスやらが行き過ぎる光景は今や当たり前のこととはいえ、かえって不自然にさえ感じられるほどです。人が緩やかに闊歩して、街歩きを楽しむ空間にあって、車両があまりにも多いように思えます。このことは岐阜に限らず、市街地を歩いていて少なからず感じることではあります。神田町通り商店街振興会の手になる「祝 アーケード カラー舗装完成」の垂れ幕の下、通りに沿った高層建築物の並ぶ輝きに満ちた都市景観と、通りから奥に見え隠れする落ち着いたテイストを残す家並みとを楽しみながら、岐阜市街地の中心の1つ、徹明町(神田町五丁目)の交差点に至りました。メルサの建物と、アーケードとが一体となって密度の高い都市の風景が連続する一方、こちらも廃止を待つ名鉄美濃町線の軌道の走る「岐阜東西通り」方向は昔ながらの盛り場的な雰囲気を残した、丸みを帯びたアーケードの姿が印象的な、庶民的な容貌を見せているように思えました。さらに岐阜の繁華街、柳ヶ瀬へ。まだ朝早い時間帯だったことも手伝って商店は開店前、歩く人はまばらでした。中心市街地の不振が各地で伝えられる状況下で、この通りもまた少なからず転機を迎えてつつあるのかもしれません。しかしながら、小柳町や楽天地通りなど個性的な商店街が複合的に重なり合う商業地は待ち歩きも楽しめそうで、私としては好感を持ちました。再び神田町の通りへ戻ると、神田町を挟んで柳ヶ瀬通りの延長線上に続く美殿町通りを歩く人々に出会いました。JR東海が企画したウォーキングに参加している一行のようでありました。

岐阜市役所の建物を一瞥し、穏やかさを次第に増した通りは、次第に金華山の山並みを建物の間に覗かせるようになってきます。金華山に抱かれるように、東別院や伊奈波(いなば)神社などの古刹・古社が佇みます。末広町あたりの細い路地を進みますと、金華山方向から流下する水路や、本当に落ち着いた、懐かしい雰囲気を醸す町並みなどがあって、実に穏やかな気持ちになります。本町一丁目の交差点で長良橋通りを横断し、北進しますと、「川原町」と総称されるゾーンに行き当たります。この「川原町」は、住所地名ではなく、元浜町、玉井町、湊町を指すエリアの名前であるのだそうです。このあたりはかつて長良川に面して川湊があった場所でして、斎藤道三の城下町建設以来、水運の拠点として栄え、長良川上流の木材や美濃和紙などを取り扱う材木問屋や紙問屋だった商家が数多く軒を連ねる場所であったのだそうです。川原町の入口には、東西材木町の地名が残り、壁に材木をたてかけた老舗の材木問屋が今でも商いをしているようでした。町並みの気品溢れる風景は、岐阜が近世も商業都市として一定の中心性を保ってきた姿を彷彿とさせると共に、そうした活況を繋いできた岐阜の商工業者の息づかいが聞こえてきそうな、そんなリアリティをも備えているように感じられました。鵜飼船がたくさんもやってある先には、清らかな長良川。金華山の緑に臨み、雪融けの水を流す川は早春の鈍色の空の色を微妙に滲ませながら、間もなく春本番を迎えつつある生命の息吹を溶け込ませながら、流れ下っていきます。金華山の頂より俯瞰した岐阜市街地はそんな山々や川たちに囲まれながら、濃尾平野の上にたなびくように、美しく、本当に、美しく、眼下一帯に広がっておりました。

伊奈波神社・山門

伊奈波神社・山門
(岐阜市伊奈波通一丁目、2005.3.20撮影)


川原町の景観

川原町の景観
(岐阜市玉井町、2005.3.20撮影)


長良川

長良川、長良町の景観(長良橋より)
(岐阜市湊町/長良福光、2005.3.20撮影)
鵜飼船と金華山

長良川・鵜飼船と金華山
(岐阜市湊町/長良福光、2005.3.20撮影)
岐阜城より東方向、長良川

岐阜城より東方向、長良川
(岐阜市天守閣、2005.3.20撮影)
岐阜城より南方向、木曽川

岐阜城より南方向、木曽川
(岐阜市天守閣、2005.3.20撮影)
岐阜城より北西方向、長良町

岐阜城より北西方向、長良町
(岐阜市天守閣、2005.3.20撮影)


加納あたり −中山道と城下町の今−

JR岐阜駅前にバスで戻り、駅南の加納の町へと向かいました。岐阜駅北口では、大規模な再開発が進捗しているようで、完成の暁には金華山の緑をイメージした、木々の溢れる空間が出現することになるのだそうです。これに先立って整備が終わった南口のテーマは「長良川の水」だそうで、駅の南側を流れる清水川の流れを生かした、水と緑に触れ合える公園が出現しています。

岐阜駅北側の“狭義の岐阜”たる市街地が名実共にこの町の主たる繁華街となっているのに対し、駅の南側に横たわる加納の町は、一定の商業集積はあるものの、突出したところがなく、都市近郊の純然たる住宅地域であるように思われました。誤解を招くといけませんので、これは一般的に言われる「駅裏的(この言い方は個人的に好きではないんですよね・・・)」な雰囲気のある町、あるいは場末的な衰退感に溢れる町、という意味ではないことは強調しておきたいと思います。岐阜駅を挟んでの交流は加納桜道の通りなどを通して活発であるようですし、加納新本町や加納上本町を通過する幹線道路(広小路と呼ぶようです)も広幅員の道路も町にすっきりとしたイメージを与えているように思います。岐阜中心部と同様に街路ごとに細かい町名設定が行われる加納の街中を東西貫く加納本町が、かつての中山道を踏襲するルートであり、宿場町が設けられていた一帯にあたります。途中加納栄町通と加納桜道によって分断されるものの、一丁目から九丁目まで続く町域は、細切れに狭い区画で完結する他の街区の集合体の中にあって一際目立つ存在であるように思います。

JR岐阜駅南口

JR岐阜駅南口
(岐阜市加納栄町通一丁目、2005.3.20撮影)


加納本町・旧中山道

加納本町・旧中山道
(岐阜市加納本町二丁目、2005.3.20撮影)




加納城跡・石垣
(岐阜市加納丸ノ内、2005.3.20撮影)
加納宿当分本陣跡

加納宿旧当分本陣の屋敷
(岐阜市加納桜道二丁目、2005.3.20撮影)
加納小学校前、奥に石垣が見える

市立加納小学校前
(岐阜市加納西丸町一丁目、2005.3.20撮影)

清水川・天満公園

清水川・天満公園
(岐阜市加納清水町五丁目、2005.3.20撮影)

 加納本町は、空き地となった区画が奥行きがあり古くからの町場であることがかすかながら理解されるほかは至ってごく“普通”の住宅地域のように見えます。「本陣跡」「脇本陣跡」など随所に設置された石碑や辻標、案内表示などが加納の歴史を静かに語っています。加納天満宮への参道は中山道の本堂よりも広く、入口には「加納天満宮」と記された石塔が建てられていました。旧街道からもその姿を望むことができる鳥居の向こう、照葉樹の杜に抱かれるように佇む社殿は木のあたたかい風合いがみずみずしく輝いているような姿を見せていました。現在の社殿は戦災を受けてその後に再建されたものです。加納城の前身となる沓井城が築かれた際に、天神を城の守護神として祀ったことに由来するこの神社は、徳川家康による加納城築城の折、城郭内に予定地に位置していたため、現在の場所に移されたものであるといいます。

 小規模なアーケードも設置されている桜道商店街の大通に出ますと、「加納宿」と記された木製の標識が建てられていました。道路を挟んで反対側には、大きな住居や蔵の見える広大な屋敷が緩やかな容貌を見せていました。加納宿で当分本陣をつとめた旧家であることは、旧街道沿いに建てられた碑によって理解できました。当分本陣とは、本陣、脇本陣に加えて臨時に本陣の役割を果たした屋敷のことで、加納宿ではこの旧家を含む2つの当分本陣が設けられていました。1620(元和6)年創業の旅籠を起源とする老舗のうなぎ屋「二文字屋」の前を通過し、再び広小路に出ると、大通りに架かる歩道橋のたもとに「加納城大手門跡」の石碑がありました。ここから南には、「加納大手町」「加納東丸町」「加納西丸町」「加納二之丸」「加納丸ノ内」と城郭跡であることを示す町名が連続しています。現在は岐阜大附属小・中学校、市立加納小学校などの敷地が広がり、岐阜地方気象台もここに立地しています。加納小学校の校門は赤煉瓦の瀟洒なデザインが印象的です。

 加納城は、北側の一部などに石垣が残るのみとなり、土塁に囲まれた、穏やかな公園として親しまれているようです。ソメイヨシノも多く植えられており、つぼみが膨らみつつある木々が開花のための暖かさを欲しているように見えましたね。加納城は、岐阜城廃城後、徳川家康により西からの敵を監視する中山道の要として建設されました。岐阜城の天守閣や櫓などが加納城に引き継がれたことは、既にお話したとおりです。加納はこの地域の拠点的な都市としての基盤を得て、当時の美濃国にあった中山道16宿の中で最大規模の人口3000人あまり、建物数800軒を数える宿駅に成長しました。加納の往時の繁栄は、安藤広重が描いた浮世絵「木曽海道六捨九次之内加納」に華麗に描かれています。加納桜道の歩道に埋め込まれた、この浮世絵をプリントした敷石は、この史実を静かに物語っていました。加納は、穏やかな住宅地域という容貌に、燦然たる町としての記憶を宿して、小粒でもぴりりと辛い町場として、今日まで存立してきたのではないか、そのように思えました。再び大手門跡に戻り、北へ進みますと、岐阜駅南口に向かって清水川の豊かな流れが続いています。川の両岸は美しい散策路として整備されていまして、ゆったりとした町歩きを堪能しました。

加納の町の東に、「左中山道/右ぎふ道」と刻まれた道標があります。斎藤道三や織田信長にまつわる濃厚な歴史の上に成立し、商業町として存立を続けた“かつての”城下町・岐阜は、多くの人々の憧憬を集める古都のようなエッセンスを秘めた場所であったのかもしれません。幕府が瓦解し、武士の去った加納の町から、岐阜の町へ、再び地域の中心が移動したことの必然。それは、ポルトガルの宣教師フロイスによって伝えられた栄華をつなぎ、育てた岐阜の市街地の今日の輝きの中に存分に認められるような気がいたします。岐阜の空白の時間、それは空虚なものでは決してなく、加納の地域を含めた岐阜の市街地の現在へと至る発展の過程にあって、なくてはならない飛躍への階段であったのでしょう。




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