Japan Regional Explorerトップ > 地域文・東海北陸地方
2018年10月、初秋の暖かな天気に恵まれた浜松の町並みを歩きました。 静岡県内で最大の人口と製造業の規模を誇る浜松の町のいまを感じながらの訪問となりました。 |
訪問者カウンタ |
|
|
浜松駅前の風景、ものづくりの町の現在 前日までの長野県内の彷徨を終え、木曽谷の妻籠宿から一路南へ、太平洋岸の浜松まで車を走らせました。近年整備が進んでいる三遠南信自動車道のルートにほぼ沿うように、木曽谷から伊那谷へ出て、愛知県東部の奥三河と呼ばれる地域を掠めながら、静岡県西部の中心都市・浜松の駅近くの投宿先に着いたのは午後9時近くであったと思われます。非県庁所在都市である浜松市ですが、その人口規模(約79万人)は県都である静岡市(約68万人)を抑えて県内第一位であることは以外と知られていないことなのかもしれません。駅周辺は高層建築物群や商業施設も多い印象で、一般的な県庁所在都市級の密度を持っているように感じられました。なお、冒頭にご紹介した「三遠南信自動車道」にある「三遠南信(さんえんなんしん)」とは、愛知県東部(三河)と静岡県西部(遠州)及び長野県南部(南信)を合わせた地域名です。天竜川流域であることや、相互間の地域的密接性から、古くより経済的な結びつきが強い圏域を構成していることから、近年「三遠南信」という呼び名が用いられるようになっていまして、県境を越えた地域的一体性に係るアイデンティティを再認識させる言葉となっています。
翌朝、浜松駅に程近い投宿先のチェックアウト前の時間を利用して、ホテルに自動車を止めたままで朝の浜松の市街地を散策することとしました。高架で駅前の市街地を抜ける遠州鉄道線を一瞥し、駅前のバスターミナルへと向かいました。駅前には遠州鉄道線の新浜松駅に隣接する遠鉄百貨店をはじめ、駅ビルの商業施設「メイワン」、ホールやオフィススペース、研修施設等の複合施設である「アクトシティ浜松」などが林立していまして、中核都市の駅前として十分な規模を備えていました。ホテルや高層マンションなども多くて、日本の大幹線たる東海道新幹線駅のある駅前であることを実感しました。浜松は、繊維産業に端を発する工業都市で、機業に必要な機械の技術を応用した輸送用機械、楽器生産でも、ホンダやスズキ、ヤマハといった国内有数の大企業を生み出しました。そのため、駅南口には音符をもしたモニュメントがあって、楽器の町であることをPRしていました。 駅からはデッキでそのまま連接するアクトシティ浜松へ向かい、特徴的な外観の浜松アクトタワーや関連施設群を概観しました。開館前であったため内部へは入らず、そのまま市街地散策を続けます。駅前から北へ続く広小路沿いには、超高層マンションのシティタワー浜松が屹立して、偉容を見せていました。板屋町交差点で直交する国道152号は、かつての東海道の道筋を踏襲しているものです。板屋町辺りは浜松城の城下町も兼ねる宿場町の東端で会ったようで、現代のターミナルである浜松駅へと続く目抜き通りの只中となった今では、中心市街地として町の密度も往時とは異なり格段に高くなっている印象です。遠州鉄道線が高架で進むルートは、新川を暗渠としたもので、東海道もその新川を越えて田町、神明町へと続き、浜松城から南下する大手通りと交差する連尺町で南へと進んでいました。藩政期の絵図を見ますと、田町と神明町との間にはクランクがあり、枡形が形成されていたようです。
板屋町からさらに北へ入り、遠州病院前駅南で鉄道の高架をくぐって、浜松市役所方向へと歩を進めました。道は西に向かって緩やかな上り坂になっており、三方ヶ原台地の東縁にあたる高台に浜松城が開かれたことを示唆していました。到達した連尺町交差点北側には、浜松城の大手門がかつて存在していました。南北の通りを大手通というのはそのためであるようです。二の丸にあたる場所にある市役所の前を通って、浜松城公園へと進みました。 浜松城の周辺、藩政期の城下町としての姿 市役所北側の散策路を進み、現在は浜松城公園として整備されている本丸跡に進みます。15世紀頃に中世城郭の「曳間城」として完成していた場所に、浜松城として再整備を行ったのが徳川家康であることはよく知られています。家康は天下を見据えてこの浜松を重要拠点として城郭と城下町の拡張を行い、幾多の合戦に臨みました。家康が駿府へ移った後は、藩政期を通じて徳川家ゆかりの複数の譜代大名が浜松を治めました。幕府の要職に就く者も多かったことから、浜松城は「出世城」とも呼ばれることになったことも周知のことと思います。
約400年前の築城時の面影を残すという、野面積みの石垣を見ながら、本丸跡から天守曲輪へと続く石段を上ります。浜松城は本丸の一段上に曲輪を設け、天守台がつくられていることが特徴の一つに挙げられます。復元された天守門をくぐりますと、やはり1958(昭和33)年に復興完成した模擬天守が、江戸時代初期に失われ以後再建されなかった天守創建時より現存する石積みの天守台の上に建造されています。天守台をぐるりと囲むようにしてつくられた石積みの曲輪も壮観で、模擬天守上から見ますと、浜松の市街地を一望の下に見通すことができるとともに、周囲への視界もいっぺんに開けていまして、東国と畿内とを結び、天竜川を間近にする位置に拠点が構えられた理由が理解できます。低地に張り出すようにしてある浜松城の縄張りは防御面でも優れていまして、家康が長くとどまり本拠としたことが、後の近代都市として飛躍するための基盤となったことは疑いの無いことでしょう。 三方原の合戦から戻った家康が鎧を掛け休んだという逸話に基づく鎧賭けの松を見た後は、連尺町交差点から南へ、現代の浜松の町並みを歩きました。先にご紹介したとおり、この道筋は旧東海道のそれを踏襲しています。浜松城を中心に武家地があった一方、町人地は東海道の沿線に配置されました。歩道にここが浜松宿であることを示す小さな看板が設置されているのを除きますと、現代都市として昇華した浜松の町並みの中に、江戸時代からの事物を見つけ出すことはほぼ困難な状況のようでした。道路も大きく拡幅されて多くの車両が通過する光景は、交通の主役が時代を超えて大きく変わったことを端的に表現していました。浜松宿は東海道でも屈指の規模を誇る宿場町で、浜松城の城下町として有機的に結合し、活気のある町場でありました。
ホテルのチェックアウト時間と、この後の予定も考えてこれ以上の散策に時間を割くことは難しいと判断し、浜松駅前へと続く繁華街となった、旧東海道東側のブロックへと進路を変えて、投宿先へと戻りました。肴町やしにせ通り大安路などの繁華街には多くの飲食店や洋品店などが軒を連ねていまして、比較的新しい雰囲気の町並みが形づくられていたのが印象的でした。大安路の名の由来になっている大安寺は、1662(寛文2)年に肴町の有志が当時の城主に懇請し建立された寺院で、現在でも町並みの中にあって、浜松の歴史とともにこの町の発展を見守ってきた存在です。ホテルを出た後は、一路渥美半島へと向かいましたが、その前に浜名湖を一望する大草山に立ち寄りました。遠州を代表する風物である浜名湖の風光の彼方、三方ヶ原台地の緑の向こうに、浜松市中心部の高層建築物群がくっきりと見えていました。 |