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きょうちくとうの夏
〜終戦60年、広島・長崎訪問記〜
2005年8月6日から7日にかけて広島を、また同年8月9日に長崎を、それぞれ訪れました。地域の姿をとおして、被爆60周年を迎えた広島・長崎を見つめます。 |
(3) 終わりに −きょうちくとうの夏−
2005年、第二次世界大戦が終結して60年目。私はこの年の8月6日と9日は広島と長崎でそれぞれ迎えたいと心から思っていました。私は1975年生まれで30歳となっています。60年のちょうど半分です。私の生まれた翌年の1976年に日本の総人口に占める戦後生まれ人口の割合が過半数に達しました。戦争経験者の高齢化が着実に進行し、戦争の記憶の風化が懸念され、戦争体験の継承が叫ばれる情勢にあって、戦争経験世代と戦後世代との間に生を受けた私たちの世代は重要な役割を担っているのではないか、と強く感じていました。そのため、被爆60年目となる広島、長崎を何としてもこの目で見つめ、地域を歩き、その思いをこのホームページ上で形として残しておきたい。このような意図からの両市訪問となりました。 広島、長崎を通じて、街を歩き印象に残った花の1つが「きょうちくとう(夾竹桃)」です。夏の長い期間にわたって、赤やピンク、白色の鮮やかな花を咲かせつづけるこの花は、広島市の花に指定されています。市の花の選定にあたっては、学識経験者等による候補の絞込みが行われた後に、市民公募により最終決定がなされたようです。その選定理由は、「75年間草木も生えないといわれた被爆焼土にいち早く咲いた花で、当時復興に懸命の努力をしていた市民に希望と力を与えてくれました」といったことであったようです。 今回の広島訪問にあたり、「都道府県市区町村・落書き帳」においてお世話になってるある方に、メールのやりとりによって貴重なアドバイスを頂きました。その中で広島市の花がきょうちくとうであることに話題が及んだ際、「私はこの花に美よりも毒を感じます。毒を抱えながらなお生きるこの花はやはり復興の象徴なのでしょう。」というお言葉をいただいたとき、私は激しい感傷を感じずにはいられませんでした。戦争、とりわけ原爆被害に関しては、多くの著作、証言、そして遺品が語るように、直接的な被害の悲惨さのほかに、地域や個人によってさまざまな困難や苦労があって、60年という時間が経過する中でさらなる変容を迫られるケースが少なくありません。そして、そのような記憶や記録の多くが、それぞれの立場や事情によって、表に現れないこともまた少なくありません。私たちの世代が戦争や原爆の記憶に向き合う時、それらの記憶や記録の1つ1つに対して、誠実に接し伝えていくことは何よりも大切であると感じます。近代的な大都市へと成長した今日の広島、長崎の町にあって、一見して屈託のない輝きを見せるきょうちくとうの花の姿と、その内実との二面性は、そうした戦争被害者の姿に重なって見えるような気持ちになりました。今回、一連の地域文のタイトルを「きょうちくとうの夏」とした意図も、ここにあります。私たちの世代が戦争体験やそこから現在に至るまでの道程を未来へ繋いでいかなければならない。最後に、今回のフィールドワークにて出会った慰霊碑の写真をご紹介させていただくことで、被爆者のみなさまに対し心からの追悼とお見舞いの意を表すると共に、私としての被爆体験の継承に向けての取り組みの1つとして発信する今回の地域文の結びといたします。
上に掲げました慰霊碑の写真は、今回のフィールドワーク中に訪問することのできたものです。慰霊碑は広島市・長崎市を中心に上記以外にもたくさん建立され、地域ごと、職域ごと、学校ごと等の祈りの場となっています。被爆経験と平和の希求という意図のもとに、ここに掲載させていただきます。犠牲者のみなさまに謹んで哀悼の意を表すると共に、被爆者のみなさまに対し心よりお見舞いを申し上げます。 <付記> 原爆に関する示唆に富んだ企画を数々世に送り出してきた中國新聞の紙面に注目すべき特集が組まれました。「ヒロシマを聞く 未来への提言」がそれです。私と同学年と思われる方を含む3人の若手の記者の手によるもので、被爆者と若者との対話を通じて未来への提言を発信している内容となっています。このページをご覧になった皆さん、とりわけ私と同世代の皆さんはぜひご一読になるべき内容です。
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