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北海道の軌跡
〜近代から現代への変容をたどる〜
石狩浜から小樽へ 〜北海道の“玄関口”としての地域〜 夕張を後にした私は夕張川を遡上してシューパロ湖畔を通過、山間部を経て幾春別川上流の桂沢湖を見ながら夕張と同様に炭鉱の町として成長し人口減少の進む三笠市を走破して、地域の姿を確認しました。三笠の町の目と鼻の先には、北海道の母なる川、石狩川がつくる広大な平野が広がっています。北海道の中枢たる札幌の後背地として、道北の中核都市旭川へと続く回廊的な位置を占める石狩川流域は、広大な田園風景が輝きを見せるのびやかな地域であるように目に映りました。この日は札幌に投宿を予定していましたが、石狩川の河口周辺の様子が見たくて、札幌郊外で高速道を降りて北へ進み、石狩市内を回ってみることにしました。
石狩市は札幌市の北に隣接するまちで、札幌都市圏の成長とともに同市のベッドタウンとして人口が増えて、1996(平成8)年に市へ移行した経緯を持ちます。その後、2005(平成17)年には厚田村と浜益村を編入して、石狩湾岸に南北に細長い領域を持つようになりました。現在の市役所は郊外化により宅地化の進んだ札幌に近い位置にあります。1993(平成5)年に新築移転される前は、役場は石狩川河口の町場にありました。石狩川が河口付近で大きく蛇行し、ほぼ北に向きを変えて海に流入する左岸の砂丘が、伝統的な石狩市の中心地でした。 古くは慶長年間(1596年〜1614年)、この場所は松前藩によってアイヌと交易する地点(「場所」と呼びます)とされて、その後石狩川流域の12の場所を加えた「石狩十三場所」の中心地として栄えました。大河の河口という要衝性もあって市街地としての中心性は近現代まで継続し、石造りの町屋なども残されて、往時の繁栄を知ることができる場所となっています。石狩弁天社や石狩八幡神社など藩政期からの歴史を持つ神社もあって、北海道にあって内地の影響を感じさせる数少ない地域であるように思いました。河口近くは広大な草原になっていて、はななすの丘公園として遊歩道も整備されています。ススキの穂が揺れ、足元には開花期を過ぎてわずかに残っていたハマナスの花が輝き、ハマエンドウの花も観られました。1892(明治25)年に設置され、市のシンボルとなっている石狩灯台を一瞥しながら、雄大に流れる石狩川や、「石狩浜」と呼ばれる海岸からの夕日をしばし眺めていました。
石狩湾岸は秋から春にかけての強風を避けるため、集落や幹線道路などに沿って防風林が造られています。そうした土地ならではの風景も確認しながら札幌の中心市街地へ向かってレンタカーを返却しホテルに荷物を置いた後、まだ午後6時30分ほどでしたので、さらに小樽まで足を伸ばしてみることにしました。小樽は長い間北海道における海の玄関口として発達した港湾都市です。上方から日本海沿岸を経て交易をおこなう北前船の就航や産炭地域からの積み出し港としての機能を持ち、それらが衰退した現在でもフェリーが発着しています。そのため、北海道で最初の鉄道線は小樽から札幌を経て幌内(三笠市)へ向かうものでした。そのうち、南小樽駅から中心市街地を経て旧手宮駅へ向かう部分は手宮線となりました。札幌駅から到着したJR小樽駅からほど近い市街地の中でも、廃線となった今も線路が残されて、一部散策ができるように整備がおこなわれていました。 中央通りを進み、アーケードの商店街を一瞥しながら、歴史的な建造物が点在する色内大通りに到達しました。昭和初期の銀行建築の特徴を残す旧四十七銀行小樽支店や、町屋造の建造物などが現代の街並みの中に残されていて、小樽が名実ともに北海道の玄関口として隆盛を誇った歴史を感じさせます。現在は昭和レトロな雰囲気が美しいことから代表的な観光地となっている小樽運河へ。石造倉庫群が穏やかにライトアップされる風景は本当に幻想的です。荷揚げの際艀が直接倉庫まで到達できるように造られた運河は、まさに港湾都市小樽の原点といってもよい歴史資産です。大規模な埠頭が整備された現在ではその役目を終えて、フロンティアへの玄関口として活気にあふれていた地域の往時を軽やかに物語る風景となっているように思われました。
旧日銀の建物など多くの歴史的建造物群を楽しみながら駅へ戻り、小樽市街地を展望できる天狗山山頂へロープウェイで向かいました。石狩湾に向かって開かれた港町は極上のきらめきに包まれていて、この町が育んできた多くの文化や叡知の結晶であると感じずにはいられませんでした。小樽駅から札幌への帰路は、高速バスを利用しました。小樽と札幌の間は急峻な山が海まで迫る地形になっていて、一定の隔絶性があります。高速道の眼下は町の明かりが少なく漆黒に包まれていて、海面が近いことが推察されました。開拓の中心として次第に中枢性を増した札幌と、その外港としての小樽といった位置づけを改めて確認する風景でした。 札幌市街地の今昔を探して 〜都市札幌建設を跡付ける〜 小樽から札幌駅前に戻り、駅ビルである「JRタワー」の展望室から札幌の夜景も一望しました。碁盤目状に広がる街並みがどこまでも続いているような北の大都会は本当に鮮烈にその活力を漲らせているように見えました。 翌朝、札幌駅北口にあるホテルを出発し、北へ碁盤目状の街路が整えられた市街地を進みます。行政区としては北区の範域となるこのエリアは、西区との境界付近、JR線から北24条通までの広大な敷地が北海道大学の構内となっていて、地域を特徴づけるランドマークとなっています。地下鉄南北線で見ても、さっぽろ駅(地下鉄の駅名はひらがな)でいうと、北24条駅までの3区間にまたがる領域となり、同大キャンパスのスケールの大きさが理解されます。北18条通から同大キャンパスの地下を貫通する環状通りに入り、校内へと向かいました。入ってほど近い場所では、クラーク博士が構想した北海道における畜産の模範となるよう、モデルバーン(模範的畜舎)の建物群を見学することができるようになっています。事務所や牛舎、穀物庫などの建築物群が国の重要文化財に指定されています。
構内を歩いていますと、緑豊かな環境が本当に鮮やかに目に入ってきます。観光スポットとしても著名なポプラ並木をはじめ、「エルムの杜」と呼ばれる豊かな芝生広場や、自然林が残される場所もあって、開拓前の札幌の原風景に思いを致すことができます。キャンパスを流れる小川「サクシュコトニ川」は、現在では人工的に通水された流れですが、元来は札幌扇状地に多く湧出していたという伏流水(アイヌ語で水が湧く場所をメムといいます)を水源としていた自然河川であったそうです。緑と歴史を感じさせる建造物、現代の大学の建物がのびやかに配された構内を散策し、1881(明治14)年に明治天皇行幸の際の休憩所として建設された清華亭の建物を一瞥して鉄路を南へくぐって、「赤レンガ」として親しまれる旧北海道庁舎へと街並みを進んできました。 札幌市街地のシンボルの一つとして輝きを見せる赤レンガの旧庁舎は、1888(明治21)年落成です。開拓時代、広大な大地の開発に期待を膨らませながら、その首府にふさわしい街並みのまさに中心として建設された気概が感じられるような、どこまでも気品高く整えられたファサードは、北海道開拓使の生き証人であるように思いました。北海道立文書館別館が面する北一条通を東へ行きますと、札幌を代表するもうひとつの事物である時計台へと到達することができます。
札幌市時計台、正式名称旧北海道農学校演武場は、1878(明治11)年に建設されて以降、札幌の町の象徴として道内外に広く親しまれる存在となっています。イタヤカエデやアカシアなどの樹木に囲まれた時計台は、瀟洒なファサードと流麗な時計塔とが清楚な印象を受けます。周囲は高層建築物群に囲まれ、小ぢんまりとした姿がフォーカスされる時計台も、裏を返せばそれだけ札幌の町が北の大都市として急成長した証であるとも言えるのかなとも考えます。時計台に所々掲げられる赤い星型のマークは、五稜星と呼ばれる開拓使のシンボルで、北極星を象ったものであるとのことです。時計台から北一条雁来通りを東へ、創生川のほとりの日本基督教団札幌教会のロマネスク風の建築(1904(明治37)建造)を確認しながら、現代の札幌市街地のシンボルロードとなっている大通り公園へ。テレビ塔から大通り公園を中心とした市街地の俯瞰風景を楽しみました。三方を丘陵に囲まれた札幌の街並みは本当に整然としていて、広大な北海道の中央にある拠点性の結実を感じさせました。 テレビ塔のある大通公園から南へ、程近い場所を東西に貫通する南一条通は、市街地を南北に貫流する創成川と共に、札幌市街地建設の基軸となりました。札幌の碁盤目状の街路はここを基準に60間四方の街路整備を行い、今日の市街地が完成しています。南一条通が創成川を渡る創成橋のたもとには、「札幌建設の地」の碑が建立されています。創成橋から北へ創成川沿いに進みますと、旧北海道庁の赤レンガからまっすぐ東へ貫通す北三条通へ到達します。開拓使であった道庁の正門から続くこの通りは札幌通と呼ばれ、明治期には札幌農学校(北海道大学の前身)や官営の各種製造所など重要な施設が立ち並ぶ重要な幹線道路でした。複合商業施設となっているサッポロファクトリーは、1876(明治9)年に完成した開拓使麦酒醸造所のあった場所です。隣接地には、第2代北海道庁長官であった永山武四郎旧宅も往時の面影を残しています。
北三条通りの歴史的な建造物を訪問した後は、少し西にある東三条通を北へ進み、鉄路の下を再びくぐって歩きます。熱供給公社の大煙突があるあたりから北東へ、碁盤目状の街路を突き抜けるように斜めに進む道路が目に入ります。この道路は北東に向かうにつれて細いながらも道道273号となり、伏籠川(ふしこかわ:かつての豊平川の流路)の川筋に沿うように北へ向きを変え、篠路地区から茨戸地区へと進んでいます。明治前期には札幌から北へ、石狩方面へ向かう唯一といっていいほどの道であったというこのルートは、現在もその姿をほぼ変えることなく今に至っているもののようです。新しい石狩街道が完成してからは、この道筋は「元村街道」と呼ばれるようになりました。 沿道には大覚寺のヤチダモの木、妙見様と呼ばれ、この地域を開拓した大友亀太郎が建立した妙見堂に端緒を持つ本龍寺など、江戸末期からの歴史を持つ寺社が鎮座しています。札幌村と呼ばれた開拓地は優良農地として発展し、特に玉ねぎの産地として脚光を浴びました。札幌村の歴史を今に伝える郷土記念館や札幌村神社の間は環状通が貫通し、地域の急速な都市化を象徴しています。地下鉄環状通東駅周辺はバスターミナルもあってちょっとした商業集積地域になっています。
地下鉄に乗り込んで終点の福住駅へ、そこからバスで到達した羊ヶ丘からの展望を確認した後、都心に戻り、市電が走るエリアを確認することとしました。すすきの電停から中島公園電停へ移動し、札幌建設当時は市街の南端を占めていたという公園内を散策しました。先にご紹介した創成川の上流にあたる鴨々川(かもかもがわ)の流れを越えた先の公園内は、水と緑にあふれた気持ちの良い環境として整えられていて、豊平館などの歴史的建造物群や多くの文教施設が集まる市民の憩いの場となっているようでした。 公園の西側、中央区の南部を中心とした一帯は、「山鼻(やまはな)」の地域名で呼ばれていて、市電の路線や電停の名前をはじめ、多くの施設名にその名が見える広域的な通称名となっています。都心に隣接し、比較的早い時期から都市機能の集積を見ていたと思われる地域は、マンションなども多く立地し、成熟した都市の住宅地域・商業地域としての表情を見せているように感じました。この山鼻地区も1876(明治9)年に青森をはじめとした東北地方の240戸が入植し開拓が始められた、いわゆる屯田兵村をその端緒としています。山鼻小学校南の山鼻公園は、そうした屯田兵村から出発したこの地域の歴史が刻まれています。当時練兵場の一部として使用されていたという公園内には開拓前を彷彿とさせる木々が豊かな木陰をつくり、山鼻兵村開設碑がめまぐるしく変化した地域を見守るように建てられていました。
山鼻の地名の由来は、西に広がる藻岩山の端に展開するところからであると言われています。地域には旧小熊邸や山鼻記念館などの近代建築もあって、開拓から現代までの事物が程よく調和する札幌の地域性を象徴していました。夕刻以降は、地下鉄円山公園駅周辺で圓山開村記念碑や北海道神宮の鳥居などが現代の街並みに溶け込む様子を見届けながら、旭山記念公園へ向かい、札幌の夜景をしばし眺めました。北大構内から町中をめぐり、開拓時から残る旧道の今を確認しながら伝統的な住宅エリアへと到達した今回の札幌訪問は、近代から現代へと目覚ましい変容と成長を遂げたこの都市の足跡の一端に触れることのできた、かけがえのない道のりの連続でした。そして、十勝の風景と夕張での彷徨などと合わせて見つめなおしますと、この地域がそれぞれの時代の求めるものに希望を求めて必死に対応し、輝きを放ってきた記憶そのものであったようにも感じます。その一つひとつの光彩がそれぞれの地域を明るく照らして、きらめく未来を紡ぐ糧となることを心から願います。 |
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