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北海道の軌跡
〜近代から現代への変容をたどる〜
2010年9月18日から20日にかけて、北海道十勝地方から道央方面をめぐりました。十勝平野の大地から現代の態様に触れながら夕張の街並みの今、そして札幌の近現代史を読み解いていきます。近代から現代にかけて、北海道が歩んだ、あるいは直面した軌跡を地域の姿に感じることができました。
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訪問者カウンタ ページ公開:2015年4月18日 |
十勝の大地と自然に触れる 〜雄大な地平と望洋の地〜 2010年9月、2002年冬に札幌とオホーツク海沿岸を訪れて以来、久しぶりに北海道を再訪しました。午前10時前、降り立った帯広空港周辺は晴天で、9月下旬ながら気温が20度を超える陽気でした。この日は、十勝地方を回って、地域の中核都市である帯広市に宿泊する予定でした。広大な北海道にあって、台地性の平野が卓越する十勝地方は、最も北海道らしい農地景観が現在進行形である地域の一つです。泥炭質で沖積平野が広がる石狩平野や、台地が展開しながらも冷涼な風土が耕作適地足りえなかった根釧台地では存立が難しかった、茫漠なる畑作地域・十勝。その原風景と今とを体感したくて、空港をレンタカーで出発しました。
十勝平野の風景はどこまでも爽快で、広大な畑地と帯状に整えられた防風林とが連続します。道は遮るものがないようにほんとうにまっすぐ進んでいきます。十勝を代表する作物はじゃがいもやてん菜、豆類などで、中でも収穫期を間近に控えたてん菜は多くの場所で目にしました。十勝平野南部の大樹町、モイワ(萌和)山上から展望した大地は、耕地と防風林とが織り成すモザイクと、大樹市街地の町並みが美しくて、雲によって穏やかに画された日高山脈の山裾へとつながっていました。 初秋の穏やかな青空のもと、辿り着いた太平洋は、慎ましやかな大空そのままに、どこか物悲しげな表情をしていたように思います。大規模な畑作地としての存在感とは対照的に、十勝の海岸には大きな町場があまり存在していません。港町が皆無というわけではありませんが、これほどまでの長い海岸線を有しながら、その多くが自然が残る原始然とした風景が連続しています。それは砂浜海岸であるために港の適地ではなかったこと、、また主要交通路から外れていることなどが影響しているのかなとも想像します。とはいえそれは換言すれば、十勝の海辺はそうした美しい自然に接することのできる貴重な環境にあることを意味します。十勝川河口より南には、北から長節湖(ちょうぶしこ)、湧洞沼(ゆうどうぬま)、生花苗沼(おいかまないぬま)などの海跡湖が並んでいて、古来からのあるがままの浜辺が広がります。そうした湖沼のひとつ、ホロカヤントーを訪れました。高台の砂丘上から眺めたほぼ手つかずの湖は静かな海面そのままのたおやかさを見せて、佇んでいるようでした。付近一帯は約1,000年前の竪穴住居群があり道の史跡に指定されています。アイヌ文化以前に北海道を中心として存在した擦文文化の遺跡で、一部にオホーツク文化の土器も交じることからその南限とも目されるようです。漁期である夏季限定の集落であったというこの集落に生きた人々にとっても、眺める海は雄大に見えていたのでしょうか。
その後海岸に沿って内陸を走る国道を北上し、十勝川河口の港町・大津地区へ。十勝管内の開拓はここから始まり、十勝川を上りながら進められました。そのことを顕彰した「十勝発祥の地」の碑もあります。悠然とした流れを辿りながら、豊頃町のシンボルであるはるにれの木を観に行きました。樹齢およそ140年というはるにれの巨木は、2本の木が一体となって美しい樹形を呈する珍しいもので、町の天然記念物に指定されています。豊頃町の隣の池田町は、ワインの生産で知られます。十勝川の支流である利別(としべつ)川が形成した段丘上、町や周辺の丘陵を見下ろす位置にはワイン城があって、ぶどう畑の彼方、のびやかな町並みと背後にたゆたう川の姿が快く眺められました。 十勝平野は、開拓される前はカシワの樹林帯で覆われていたといいます。台地状の平らな土地は大規模な畑作の適地とされ、広大な森はわが国有数の畑作地帯へと生まれ変わりましたが、日高山脈から吹き下ろす風を除けるため、カシワの木々の一部は帯状に残されて、防風林として活用されました。シラカバのそれとともに、畑作地・十勝を象徴する景観となっています。十勝地方の中核都市・帯広は、十勝における農産物の集散地として計画的に建設された碁盤目状の区画が特徴のまちです。町中にある緑ヶ丘公園は市を代表する公園で、博物館や美術館、動物園などの文教・娯楽施設が整えられています。公園内の豊かな森は、現代都市における憩いの場を提供するとともに、森が広がっていたかつての地域の原風景を彷彿とさせました。 夕張を歩く 〜産炭地域の光と影〜 北海道初日は帯広で宿泊し、翌日は曇天下の十勝平野を西へ、北海道中央部の山間部を縫って車を走らせました。沙流川や鵡川の上流、幾重にも山々が連なるこの地域は、現在は道東自動車道が完成し交通事情が大幅に改善していますが、訪問時は道東道はまだ全通しておらず、国道274号をひたすらに進んでいたように思います。帯広を出発しておよそ2時間半、到着した夕張の町は快い晴天のもとにありました。
夕張は言わずと知れた、炭鉱で発展した町です。石炭から原油への急激なエネルギー転換と、その後の観光開発の頓挫等から財政破綻した経緯は多くの報道で知られているところです。人口は最盛期の10分の1以下となり、2013(平成25)年には1万人を割り込んでいるようです。地名の由来となっている夕張川の支流シホロカベツ川沿いに展開する夕張市の中心部は、まとまった街並みを形成しながらも、廃屋や空き地なども散見されて、石炭産業の斜陽化に併せ急激な変容を受け入れざるを得なかった地域の悲哀を感じずにはいられない光景でした。黒いダイヤと呼ばれた石炭は多くの富を生み、近年こそ札幌への一極集中により人口は停滞気味ですが、開拓期から高度経済成長期中葉頃までは、夕張をはじめとした産炭地域を多く擁する空知管内の人口は札幌を擁する石狩管内よりも多く、道内一位でありました。 夕張の史実に触れる文献は、ほぼ例外なく石炭の発見からその記述が始まります。石炭の存在は夕張に大いなる歴史を刻み、そこで汗して夢を抱いた多くの人々の活力の源泉となり、地域の姿そのものとなって、やがてその存在が色褪せ、多くの人々が夕張を離れた後にも、そこで生まれ育った人たちにとっては、かけがえのない記憶となって息づいています。緑が本当に穏やかで輝かしい山々に抱かれた町を歩きますと、映画の看板がここかしこに飾られ、石炭や新たな地域ブランドとなっている夕張メロンに関係した観光施設などがあり、石炭から観光へ、地域の経済的な存立を模索し、忽然として訪れた産業基盤の衰微に対応した夕張のこの20年を物語っているようでした。
巨大なホテルに小ぢんまりとした夕張駅の駅舎が隣接する一帯を一瞥しながら再び河谷を南下し、清水沢地区に立ち寄りました。シホロカベツ川が夕張川に合流する南にある清水沢清陵町には、1981(昭和56)年にガス突出事故が起き多くの犠牲者を出した旧北炭夕張新炭鉱の抗口が残され、傍らには慰霊碑が建立されています。「我が新鉱を がっちり守ろう 出稼と保安と生産で」というスローガンが掲げられた塔状の看板もそのままです。この事故の後、1982年に同炭鉱は閉山、夕張に最後まで残っていた三菱南大夕張炭鉱も1990(平成2)年に閉山しています。夏草に覆われた抗口前の広場はただ静かで、その場所が周辺の清水沢の街並みをあたたかく見守っているようにも感じられました。 ふと、石炭の鉱脈が発見される前、炭鉱都市として存立していく前の夕張はどんな場所だったのかといった思いがよぎりました。まちを歩いていて、夕張自身が抱かれている山々やそこから流れ出るせせらぎが本当にきれいで、自然が美しい北海道にあって、町場と山並みがこれほどまでに快く寄り添う地域もないのではないかと思えてきたためです。炭鉱と共に暮らした歴史を大切にしながらも、山と川とに囲まれた原風景のエッセンスも活かしていく、いわば“炭鉱前”の姿を年表に書き加えながら新た強い視点を広げることもあってもよいのかな、とも考えました。 夕張からの帰路は、夕張川の本流沿いを上り、夕張シューパロダムにより水を湛えるシューパロ湖の湖岸を走行しました。ここはかつて大夕張(地区名は「鹿島」)と呼ばれる炭鉱町でした。閉山とダムの供用開始により一帯は水没しています。訪問時眺めることができた旧森林鉄道の三弦橋も、水没する見込みとのことです。北海道の山奥に鮮烈に輝き、一時代を築いた夕張の町の残照は、豊富な緑や水に彩られた風光に穏やかに包まれていました。炭鉱で活力がみなぎっていた往時を生きた世代にとっては悲しい風景であるかもしれません。しかしながら、歴史と自然との調和を近代化遺産や史実の保全と考え、進む道がとても魅力的なことのようにも思えます。シューパロ湖と周辺の森の姿を見ながら、こんなことを考えていたように思います。 後半へ続きます。 |
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