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北海道の空
〜見上げる色、彼方へ〜
前半からの続き |
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都市の輝き 〜拠点性と象徴性の結実〜 8月24日、北竜町のひまわり畑を観た後、石狩平野北縁の広大な田園を抜け、湿原の中を行くような草原に囲まれた幾筋かの流れを超えて道央道に戻り、一路旭川を目指しました。北海道道北エリアの中核都市である旭川は、広域な北海道の地域性を鑑み、地方裁判所等、一定規模を所管する国の機関が設置されていまして、他の地方における県域中心都市と同等の中枢管理機能を備えています。石狩川の中・下流域と上流域を分けるように河谷をえぐる神居古潭一帯の渓谷をトンネルで抜けると、旭川市街地のある上川盆地へと至ります。上川盆地の中央、石狩川に忠別川(ちゅうべつがわ)や牛朱別川(うしゅべつがわ)、美瑛川が合流する位置にある旭川は、交通の要衝、物流の拠点として次第に都市としての体裁を整えてきました。 旭川市役所にほど近い市営の駐車場に車を止め、旭川市街地散策をスタートさせます。多くの河川が収束する旭川市街地には多くの橋が架けられており、主要な街路はつながる橋の名前が通りの名称となっているケースが多いようです。市役所西側の中央分離帯を擁する南北軸の街路は「緑橋通」です。なお、碁盤目状に形成された街路網の東西軸は基準となる通りからの序数で表現されます(1条通、2条通など)。この東西軸の通り名は住所表記にも使われていまいて、ブロックごとに1条通1丁目、同2丁目などが存在しています。通りの真ん中が緑道として整備された七条緑道を西に進みますと、常磐公園へと至ります。日本の都市公園100選にも選定されているこの公園は、1910(明治43)年に、石狩川と牛朱別川とに挟まれた中島を公園地として定めたことを端緒とする、旭川市内で最も古い公園です。緑豊かで水辺空間も確保された公園のたたずまいは、どこか開拓当初のまだ森林や原野であったであろう原風景を想起させます。公園の北側は石狩川河川敷となっており、旭川のシンボル・旭橋も近傍に所在します。1932(昭和7)年に建設された歴史のある橋で、北海道遺産にも認定されています。また橋の美しさから北海道三大名橋とされる橋の中で唯一架橋当時のままの姿を残しているのだそうです(他の2橋は札幌市の豊平橋、釧路市の幣舞橋。幣舞橋は後ほど触れます)。
中心にシンボルタワーのある常盤ロータリーを一瞥しながら七条緑道を戻って、日本初の恒久的な歩行者天国が採用された平和通買物公園へ。JR旭川駅前から北へまっすぐに延びる旭川市のメインストリートです。現在陸上自衛隊旭川駐屯地となっている旧第七師団の練兵場へのルートにあたることから師団通と呼ばれていたものが、戦後になり平和を希求する願いから現在の名称に変わったものであるようです。駅に近付くにつれて大型商業施設も多くなり、活気に溢れる繁華街としての形がより明瞭となっていきます。高い商業的な集積性を誇りながらも開放的で、のびやかな街並みがたいへん印象的でした。それは、この通りに街路樹がふんだんに配されていることに加え、何より広い道幅の真上に青空が大きく広がっているためであると感じます。この日も初秋を感じさせるさわやかな青空にひつじ雲が輝く風景が展開していて、北の都会を穏やかに見守っておりました。 JR旭川駅は2010年から2011年にかけて高架化に伴う駅舎の整備が進められて現在の駅舎が全面供用され、駅周辺再開発事業(北彩都あさひかわ)に伴う駅前広場整備、河川空間整備(南口の忠別川端のウォーターフロント整備)などのプロジェクトが順次進行しておりました。常磐公園の緑や旭橋の美しさを確認後に平和通買物公園を通って旭川駅前へと至る道程は、開拓期から交通の要衝としての成長、軍都としての経験も経て北海道北部の広域的な中核都市へと飛躍したこの町の歴史そのものであるようにも思われました。
道北の中心から道東の中心へ。旭川と同様に、北海道東部(道央、道北に対し「道東」と呼ばれます)の広域的な中枢管理機能が集積する釧路は、釧路港を背景した漁業や物流の拠点として、製造業や産炭の灯がともる屈指の鉱工業都市として、また背後に釧路湿原や阿寒の湖水を抱える大自然への玄関口として、多様な姿を見せる町です。8月25日、終始霧に覆われていた根釧台地を経て到着した釧路は、相変わらずの猛暑が続いていた日本の多くの地域とは隔絶されたような、肌寒いとも感じられる夕方を迎えていました。ホテルにチェックイン後外に出て、北大通りを軽く散策しました。同通りは、JR釧路駅前から釧路川に架かる幣舞橋を経て川南の旧市街地へと続き、この町の骨格をなしています。ライトアップされた幣舞橋と川沿いのウォーターフロントの風景は、海と大地の接点としての釧路の町の輝きそのものであるように映りました。 翌朝は雲が多いながらも晴れ間の覗く陽気となり、道東の中核都市としての釧路の町の大きさがより一層視覚されました。JR釧路駅は道内最後の民衆駅として、他の主要駅が大きくリニューアルされる中で簡素な建築が逆に目を引きます。海産物を多く取り扱う和商市場も至近です。一通りの都市機能を備えて中低層のビルも多く高い中心性を感じさせる一方で、複数のデパートが駅前に集中していた旭川と比して都市の密度がやや低いように思われるのは、人口規模も含め道東を管轄する機能の一部がやはり同程度の規模を持つ帯広に分散していることの影響も少なくないように感じます。釧路川左岸の米町一帯は、丘陵性の穏やかな街並みが続いていて、大通りを外れますと閑静な住宅街となっています。この場所は、藩政期に松前藩が「クスリ場所(会所)」を開き交易の場所とした、釧路の街発祥の地です。米町公園からは釧路川を挟んで釧路の町のオリジンとその後北へ開かれていった現在の中心市街地、そして西へ展開する工業地域、眼前の港湾の様子などが一望のもとに見渡せました。
旭川や釧路のような拠点都市のほかにも、根室管内で一定の拠点性持ち道内でも人口増を示す数少ない町のひとつである中標津や、オホーツク管内最大の都市北見など、活気のある町並みを傍観して、大自然や耕作地域との景観の対比を観察することができました。それは、地域の商業や中枢管理機能を支える屋台骨としての“拠点性”と、それぞれが抱える後輩地域の産業や風物を凝縮させたような都市景観に代表される“象徴性”が結実したものであるように感じられました。 道東の光彩 〜空と大地の鼓動を聞く〜 8月25日から26日にかけて、道東をめぐりました。25日はオホーツク管内の中心都市のひとつ北見からスタートし、屈斜路湖・阿寒湖を一瞥しながら斜里へ。知床五湖を周遊した後知床横断道路から羅臼に至り、根釧原野をひらすら南西に走り抜けて釧路へというルート、翌26日は釧路湿原周辺と前日霧で視界不良だった開陽台を訪れた後に札幌まで戻るという旅程でした。冒頭の道東道のくだりはこの26日に後半部分を記したものです。過去数回訪れている道東では、その度に自然と大地がおりなす絶景に感動を覚えてまいりました。道東をオホーツク海側と太平洋側とに分ける知床半島は千島列島から続く火山帯の一部をなし、阿寒湖周辺の火山群へとつながっています。この一連の山脈は1000メートルから1600メートルに達して、その両側の気候を大きく異なるものにしています。25日は、オホーツク海側では晴天、太平洋側では霧と、まさにその典型的な天気が発現した格好でした。
世界遺産・知床は、アイヌ語の「シリ・エトクまたはシリ・エトコ(sir-etok/sir-etoko)」が由来の名前です。これは 「地(の)・突端部」と和訳され、知床の秘境的な要素から「地の果て」とも解釈されることも少なくないようです。国内でも希有な原生的な大自然が残る知床は最大級の自然保護対策がとられていまして、知床五湖をを散策する際も、事前に自然保護や探索のルール等についてのレクチャーを受けることが義務付けられています(動物侵入や植物保護の対策がとられた高架木道のみの場合は自由に散策が可能です)。知床五湖は半島沿岸部に海岸段丘の断崖上の台地上に点在しています。約3,700年前の硫黄山噴火に伴う大規模な山体崩壊により形成された凸凹地形の窪地に水がたまり湖となりました。流入する河川がないものの水が涸れないのは、地下水の湧水により絶えず水が供給されているためであるとのことです。 散策路は時計回りに1から5までの序数で呼ばれる湖を、五湖から一湖まで反時計回りに設計されています。なめらかな湖水に知床連峰の山々や緑あふれる原生林をさわやかに映す景観はとても爽快です。トドマツなどの針葉樹にミズナラ、シナノキなどの広葉樹林が混交する多様な森は湖をやわらかに覆うように寄り添います。湖は岸辺に湿原性の葦原を伴っている場所もあって、季節にはミズバショウの花も咲き乱れます。湖を介して望む山々の姿は美しいの一言に尽きます。木々の緑を伝って飛び込んでくる青空の透明感も最高級の輝きを見せています。
ほぼ手つかずの自然が織り成す風景は、幾星霜の時間が紡いできた命のサイクルの貴さを改めて感じさせるもののようにも感じました。地上の散策路から高架木道へ上がり、一湖を背にして海側に目を転じますと、森のない広大な草原となっているのが分かります。ここはイワウベツ台地と呼ばれ、明治・昭和と二度開拓が試みられるもいずれも失敗に終わった歴史のある場所です。この開拓農地を買い戻し、自然を回復するための運動が展開されており、「知床100平方メートル運動」として知られています。この後レンタカーで回った羅臼から中標津、釧路までの道程は終始曇天の下、霧の巻く中のものとなったことは、先に述べたとおりです。 水が生まれ、大地に浸透し、川となり、海に至り、やがて空に昇り雲となって再び地球に降り注ぐ。釧路湿原の茫漠たる緑は、そんな水の“命の連鎖”そのものを表現しているかのように目の前に展開していました。霧中の前日からは一転して時折雲が多くなりながらも青空も覗く陽気となった翌26日は、釧路市街地を少し歩いた後に湿原の西側にある釧路市湿原展望台へとまず向かいました。展望台からは、低地と台地の境目に発達した斜面林の向こうに湿原がたなびくように広がっています。併せて湿原の先に釧路の市街地と工業地域の煙突なども手に取るように確認することができ、釧路の町と湿原とがまさに隣り合わせにあることも実感できます。展望台からは、斜面林を少し下り湿原をより間近に眺望することができるサテライト展望台への遊歩道も整備されています。
さらに広い広い大地をどこまでもつながっていきそうな道路を、湿原の只中を、開拓された牧場の隣を、湿原に突き出した「岬」とも呼ばれる台地の上を疾走し、湿原のより原始の姿をとどめているというコッタロ展望台へ。ここで、奇跡の風景が展開されました。長い階段を上り台地の上から眺望した湿原は、まさに大自然の原形であることを実感させるに余りある光彩を放っていました。緑にあふれる湿原をベースに、拠水林の列が水路の在りかを示して、彼方のやわらかなスカイラインを描く丘陵が極上の筆致を示せば、この上なく明るく輝く大空がめいっぱいの慈愛を持ってそれらすべてをやさしく、頼もしく包み込む・・・。時間が許すならば、いつまでも実を委ねていたい、安らぎとやさしさとの極致がそこにありました。 コッタロ湿原の恩寵を受けた後、湿原東方の塘路湖やシラルトロ湖の湖沼群を一瞥しながら前日靄に包まれていた開陽台展望台を再訪しました。快晴とまではいかないまでも刹那雲間から光が射す根釧台地の景観は、先人が苦労してこの地域を開拓してきた歴史と、何より地球が丸いと実感できる-この展望台がキャッチフレーズとしているものでもあります-スケールの大きい絶景がそこにはありました。北海道遺産にも選定される格子状防風林は、自然と対話し、時に抗いながらこの地を生産の場へと飛躍させてきた先祖の生きた証そのものである。こうした史実に思いをはせますと、眼前の光景に接し目頭が熱くなる感覚になります。灰色の空から差し込んだ幾筋もの光線が天使の梯子となって、遥か道東の大地を誇らしげに照らし出していました。 北海道の道北から道東へ、地域を歩きながら接してきた多くの景観は、さまざまに態様を変えながらも、最後は揺るぎない、一点の曇りもない、限りのない透明な大空に収束しているのではないか。開陽台を後にし、釧路の郊外を抜け、十勝の平原を経て、北海道の屋根を貫く道東道を行く途上で目にしたこの上のないクリアな夕映えの空との出会いが、その思いを確固たるものへと導きました。地球上のすべての構成物がその思いを共有し、輝きに満ちた未来を築くことができる日もそう遠いものではないと、その青空は教えてくれているかのようでした。 空色の旅 空は、たゆたう 大地のほほえみと、木々のささやきに心踊らされながら 空は、うたう 鳥たちのさえずりと、海原の潮騒に心ときめかせながら 空は、流れゆく どこまでも、どこまでも紡がれていく時間の豊かさを胸に秘めて その明るい行く末がかなえられていくことを心待ちにしながら 湿原を染める夏の雄々しい青空 山々を彩る秋のすがすがしい茜空 空気を凍てつかせる冬の寒空 そして、すべてを光の中へ誘う、春の東雲 空は語らう 見える形は変わっても、聞こえる音は様々でも その色の本質はゆるぎなく、響き渡っている 空は、今日も色を変えて、永遠の旅をつづけていく 空が、空であることを確かめるように 北海道の空 -完- |
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