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2004年7月、「加賀百万石」の城下町を基礎に、北陸の中心都市として輝きを誇る金沢の町を歩きました。 町を歩いていて感じたことは、このまちが重ねてきた時間の豊かさ、慎ましさ、そして鮮やかさでした・・・。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2004年8月2日 |
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尾張町の今 尾張町は、藩政期における金沢城下町のメインストリートでした。町の名前の由来は、前田藩政に入り、前田利家の出身地・尾張から呼び寄せた多くの商人を住まわせたことによると言われているそうです。やはり藩政期の家柄町人で、町年寄のひとりであった武蔵屋庄兵衛の邸宅跡地である(これには諸説あるようです)武蔵ヶ辻の交差点から東へ、浅野川大橋のたもとの橋場町までのおよそ700メートルの間の街路には、大店が軒を連ね、城下では押しも押されもせぬ豪勢な街並みが形成されていた場所でした。私が地域、特に市街地を歩く時に注目する地域の1つが、この尾張町のような、その町における中枢としての地域を維持した場所です。城下町から近代都市へと移り変わる過程で、その町が醸す雰囲気がどのように移り変わってきたのか。私が都市に向かう時、最初に感じてみたいポイントです。尾張町はこのことをよくしてしてくれている場所なのではないのかな、と思ったわけです。もちろん、都市の中の地域は地域ごとにさまざまな特色があって、それぞれにおいて注視して行くことは大切です。香林坊から片町にかけての、現代の繁華街の存在感は、近代都市金沢の趨勢を示して余りあるものがあります。尾張町界隈から兼六園と散策を続ける中で、現在の金沢の繁華街も一瞥しました。そうした鮮烈な金沢の町を見る際にも、尾張町のような地域を歩いてからですと、より多様な視点からまちを見つめることができるのではないか、と思うのです。都市は生まれながら新陳代謝を進めながら、絶えず自らを生まれ変わらせながら進むものです。今を見つめるだけでは、その都市の持つ地域の本質に迫ることは難しい、私はそう考えています。武蔵ヶ辻付近の駐車場に車を置き、尾張町界隈の散策をスタートさせました。
武蔵ヶ辻交差点は、金沢駅と市街地の中心部とを結ぶ結節点の位置にあり、車両の交通量は相当多いように見受けられます。ここから南へ続く道路沿いが、北陸の広域中心都市たる現代の金沢の町の趨勢そのものが繰り広げられているエリアの1つとなっているようです。金融街、ビジネス街、そして繁華街と、実にバラエティ溢れる街並みが、比較的狭い道路に迫り来るような印象を与えています。とはいえ、武蔵ヶ辻自体は、ダイエーの店舗など構想の建築物に覆われているのですが、それらも特に際立った華美な印象を与えるものではないように見受けられ、相変わらず車両がひっきりなしに通過していくことを除けば、景観的には落ち着いた雰囲気を漂わせています。それには、この辻に入口の1つを開けている“金沢の台所”近江町市場の存在も重要なエッセンスとなっているようですね。この近江町は、藩政以前からこの地域に存在してきた「尾山八町(堤町・南町・松原町・材木町・安江町・西町・金屋町そして近江町の8町を指します。現在では住居表示設定により地図には表記されない町名もあります)」のひとつです。町の名前にもまた諸説あるようですが、金沢市史等では、近江出身の商人が住み着いたことによるとする説を採用しているようです。 尾張町の大通り、現在は国道159号線となっている道路を、東へ歩きました。ダイエーに隣接して、市媛神社の穏やかな杜が続き、豪勢な甍を並べた町屋が高層マンションに囲まれながらも、実にたくさん並んでいます。通りの彼方、東の方向には、卯辰山方面の丘陵地の緑も鮮やかに眺められます。通りの両側には、味噌・醤油店の穏やかな店舗や、かつての薬種問屋、印鑑を扱う老舗など、尾張町の往時を感じさせる建物が残されていました。町民文化館として、若手工芸作家の作品の発表の場などとして利用されている鯱瓦・黒い塗籠土蔵造りの建物は尾張町を象徴する建造物です。元の金沢貯蓄銀行の建物で、1907(明治40)年の建築です。尾張町の興隆は、明治の時代になってもその伝統をつないでいたということでしょうか。そうして注意深く街並みを観ていますと、明治のモダンを思わせる洋風の建築物も混じっていまして、戦後の都市化によって建設された高層マンションの無機質なアウトラインとあいまって、金沢の町が辿ってきた歩みを感じた思いでした。橋場町の三叉路の手前、「枯木橋(かれきばし)」という名の小橋を見つけました。橋の下を流れる堀は「内惣構堀(うちそうがまえぼり)」と呼ばれ、金沢城下を流下する2つの大河、浅野川及び犀川と、城の外堀との間に割り出された防衛線として重要な役割を担うものであったのだそうです。
浅野川大橋のたもとから、川の左岸に主計町(かずえまち)茶屋街が佇みます。浅野川の流れに接しながら穏やかな町谷の景観が実にたおやかな印象です。この主計町は、1970(昭和45)年の住居表示によって「尾張町二丁目」の一部となっていましたが、伝統的町名の復元事業により、1999(平成11)年10月1日に町名として復活したものとして知られているところですね。穏やかで静かな空気に満ち溢れていた主計町を散策しながら、尾張町のメインストリートへ戻りました。そこは古きよき金沢の町の雰囲気がある一方、ひっきりなしに車両が行き交う巷でもありました。 兼六園、卯辰山、そして香林坊 尾張町散策の最後に、武蔵ヶ辻の一角にあるダイエー屋上の食堂から、市街地を俯瞰しました。辻の北西には、東本願寺金沢別院(東別院)の堂々たる結構が目に入ります。周囲は穏やかな印象のアーケード商店街を含む地域として映りました。東別院の奥には西本願寺金沢別院(西別院)や、門徒8000戸をかかえるという大坊専光寺などの寺院が立地しています。このあたりにも、「真宗王国」としての金沢の一面を見た思いでした。寺内町の伝統を残すエリアから通りを挟んだ東側は、近江町市場のある一角。こちらは南に香林坊方面の市街地に接することから中高層の建物がひしめいているのですが、その中で近江町市場の街路につけられたアーケードが十字に走り、また一部に江戸期から明治期における街並みを彷彿とさせる町屋の屋根も混じっている様子もまた観察されました。 武蔵ヶ辻を後にして、尾張町、橋場町と自動車で移動しながら、「百万石通り」を兼六園方面へと進みます。住居表示の影響で多くの町名が地図の上からは消滅した金沢ですが、地図を見ますと「南町」や「味噌蔵町」といったバス停名が存在し、依然として旧町名が地域コミュニティに深く浸透している様子がうかがえますね。橋場からその味噌蔵町バス停のある付近を通過し、兼六園下の交差点に達すると、交差点の南東に県営の駐車場があります。ここに車を止めて、兼六園へと向かいます。兼六園へは、1995年大学3年の時以来の訪問となります。この時は、仙台から高速夜行バスで金沢に入るも、日程の都合上午後2時頃には金沢を発たねばならないという貧乏学生ならではの強行日程であったこともあり、兼六園と金沢駅前あたりを散策したに過ぎない内容でした。金沢城跡は、1989(平成元)年に現在地への移転が始まるまでは、金沢大学のキャンパスが置かれていました。2001(平成13)年、城跡の一部が「金沢城跡公園」として整備され、一般に開放されています。現存する石川門は、この公園と兼六園とを結ぶ線上に位置しており、散策するには程よい距離感です。かつての三の丸搦手、城の裏手の正門にあたるこの石川門は、二層の櫓と多門を組み合わせた枡形門で、なまこ塀が続く景観とあいまって、金沢城の面影を伝えています。公園内には、いくつかの建物が復元されている一方で、サルビアなどが植えられていたり青々とした芝生が展開しているなど、歴史的建造物を忠実に再現するというよりは、歴史的な雰囲気を感じることのできる都市型公園といった方向性を目指しているようでしたね。
その名のとおりかつては堀だった「お堀通り」を橋で渡り、兼六園へ。夏真っ盛りということもあり、園内には蝉時雨がこだましていました。桜の季節でもなく、紅葉の季節でもなく、また雪景色に彩られる季節でもなかったわけですが、緑と水辺の溢れる園内は、曇天で風が強かったことも手伝って爽やかな印象でして、忙しなく泣き声を響かせる蝉の声の下、とても快く夏の季節を感じることができたのではないかとも思えました。兼六園は市街を見下ろせる高台に位置していることもあり、緑溢れる景観の向こう、穏やかにかつ鮮烈に展開する金沢の町を眺めることができました。そして、金沢の町を俯瞰できる場所として知られるのは、卯辰山にある望湖台。城から見て卯辰の方角にあることからの命名でしょうか。ここからも、とびきりの金沢の町を俯瞰できました。この丘陵の麓には、寺町・金沢を感じさせてくれる個例溢れる寺院群が佇みます。また、加賀百万石の“粋”を伝える「ひがし茶屋街」にも近接しています。 卯辰山を後にして、最後にもう一度、橋場から尾張町を経て、武蔵ヶ辻を南に折れて、金沢のビジネス街、繁華街を車中から眺めました。尾張町の雰囲気とはがらっとかわって、そこは大都市の高密度の市街地の景観そのものでした。町を歩く人の量も格段に多く、若い年代の割合も他の地域と比べても高いように思われました。こうした景観は、多かれ少なかれ、日本中の大都市には共通して認められるものではないでしょうか。当たり前のことですが、やはりこの界隈を見ただけでは金沢の町を感じることにはならないのかな、と実感しましたね。それと同時に、今回散策した地域を見ただけでも、金沢の町を語らせていただくには全くをもって十分ではないこともしっかりと認識いたしました。尾張町を歩いて感じた金沢の町の履歴を胸に刻みつつ、多くの地域を歩いていきたい、そう強く思いました。 |