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岐阜県から愛知県、三重県の三県境が交わるあたりは、木曽川・長良川・揖斐川(木曽三川)が集まる低地帯となっています。 数多の水害にあってきた地域は、堤で集落を取り囲む「輪中」を発達させ、水と向き合う生活を営んできました。 そうした水と隣り合う歴史を持つ地域をめぐりました。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2017年2月9日 |
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輪中の歴史を見つめる ~三川の交錯する宿命に生きる~ 2013年7月14日、梅雨のさなかの国営木曽三川公園を訪れました。雨は落ちていませんでしたが、夏の暑さを秘めるような明るい曇り空で、気温は30度近くで本当に蒸し暑い陽気でした。木曽三川公園は、「木曽三川」と呼ばれる木曽川・長良川・揖斐川の下流域、複数のエリアに分かれる広大な公園で、今回足を踏み入れたのは、同公園の中でも最初に供用された「木曽三川公園センター」と呼ばれる地区です。揖斐川と長良川が接近する地点にあり、すぐ東には木曽川も雄大に流れる、まさに三つの川に挟まれるロケーションです。公園があるのは岐阜県、西の揖斐川を越えた対岸は三重県、そして東の木曽川の左岸は愛知県と、三県境も間近に交わります。この公園の中核的な施設である、「水と緑の館・展望タワー」の65メートルの高さから眺望する風景は、まさに水に囲まれた地域の姿がそのままに映し出されるものでした。
名古屋を中心都市とし、我が国の三大都市圏の一角をなす名古屋(中京)都市圏が展開する濃尾平野は、東はなだらかな丘陵地帯である尾張丘陵に接し、西は養老山地が直線的な縁を形成して平地と向き合う地形となっています。西部におけるこのストレートな境目は断層帯で、濃尾平野はこの影響によって絶えず西側が沈み込む力を受けています。そのため、濃尾平野に流入する木曽三川は西に偏って流れるようになり、伊勢湾岸は大きな三河川が交錯する構造をとることとなりました。北側は揖斐川と長良川に挟まれた「高須輪中」と呼ばれる輪中が眼下に広がります。輪中の中央部は水田が広がり、それを囲むように造られた堤防上は微高地でもあるため、列状に集落が並んでいるのが特徴です。揖斐川を挟んだ西側は養老山地へと続く丘陵地帯が目の前にありまして、現在進行形で隆起する山塊の態様をつぶさに観察できます。中腹には多度大社の大鳥居も確認することができました。 南は長良川と揖斐川が細い堤防によって流路が分けられた景観を望みます。この堤防は1753(宝暦3)年12月から1755(同5)年5月にかけて、薩摩藩が幕府の命で行った治水工事(宝暦治水)の末に完成したものです。堤防上には工事の竣工後薩摩藩士が日向松を千本植林したと伝えられ、千本松原と呼ばれる美観を今に伝えています。長良川と揖斐川は治水前はこの堤防付近で合流しており、さらに下流で現在の木曽川の流路を辿るように長良川が分流するという離合集散をなしてそれが多くの水害を引き起こす遠因となっていました(木曽川は現在の長良川と木曽川が並ぶ辺りで、長良川に合流していました)。この工事の過程で工事にかかわった藩士が疫病や自害により多くの死傷者を出し、総奉行であった家老の平田靱負(ひらたゆきえ)も完工後自刃したとされる哀史が伝わっています。松原に鎮座する治水神社、工事にかかわり殉職した薩摩藩士を祭神とし、その偉業をたたえるために1938(昭和13)年に建立されています。明治期にはオランダ人土木技師ヨハニス・デ・レーケの指揮により木曽三川分流工事が施工されて、現在は木曽川、長良川、揖斐川はそれぞれ交わることなく伊勢湾に流出しています。松の青々とした枝がその影を川面に穏やかに移すような風景は水郷の情趣を感じさせますが、その背景には水に立ち向かった先人の多くの努力が隠されているのでした。高須輪中の北部にあたる海津市平田町の地名は、上述の平田靱負に由来するものであるのだそうです。
木曽三川公園周辺を散策する前、前日投宿していた岐阜羽島駅前から平田地区を通り輪中に広がる水田や水路、かつての輪中の堤上に造られた桜並木の様子を一瞥し、木曽川西岸の愛知県愛西市内の蓮田で可憐な蓮の花を観たりと、輪中地域の瑞々しい風景を確かめていました。木曽三川公園の展望タワー上からは梅雨時の曇天で十分に見通せませんでしたが、このエリアも名古屋大都市圏の郊外としての横顔もあって、都市化による変容も少なからず地域の様相を変えているようです。そんな中にあっても、水田のある低平面から一段高く石積を設け、水害時の避難施設として設けられた水屋も見受けられました。洪水は多くの財産を危険にさらす途方もない災厄でありましたが、土地を肥沃にする役割もあって、地域に多くの実りをもたらしました。そうした輪中地域ならではの「うまみ」が、災害常襲地帯としてのリスクを押してでも、古来より多くの人々をこの地域に引き寄せていたといえるのでしょうか。 輪中を歩き、水田の只中に身を置きますと、西側に横たわる養老山地の山並みがまさに壁のようにこの地域に立ちはだかるようにしてあるのが印象に残りました。この山並みが隆起し続けていることがこの地域を低地たらしめていることは既にお話ししました。輪中で目にした養老山地の山容はあまりにも壁のように感じられます。水が容赦なく集まる地域にあって、その絶壁のような山並みはどのように眺められてきたのか、そんなことが気になりました。 大垣市街地を歩く ~水の都、四季の路と美濃路をたどる~ 2015年9月22日、岐阜県南部、美濃地方の西部(西濃地方と呼びます)の中心都市・大垣市を訪れました。この日はこの時期としては珍しく雲ひとつ無い快晴の一日で、過去の天候を調べてみますと最高気温は30度手前くらいであったようで、秋の気配も感じる残暑に包まれる陽気でした。市街地の中心に位置する大垣公園(旧大垣城本丸を公園としたもの)の西側にあった駐車場に車を止めて、この岐阜県第二の都市の市街地散策に出かけました。
駐車場の南を通る大通り(県道237号)を西へ進みますと、程なくして水門川へと到達します。水門川は、大垣城の外堀として1635(寛永12)年に開削された河川で、外堀としての機能のほか、揖斐川を通じて桑名宿とを結ぶ運河としての役割も果たしていました。市街地では大垣城に付属した堀はこの水門川を残して埋め立てられていまして、水門川は城の遺構を残す数少ない存在です。川沿いの遊歩道は「四季の路」と呼ばれる緑道として整備されていまして、上述の運河としての水門川の起点となった船町をスタート地点として、水門川を辿るようにプロムナードがつくられています。沿道にはソメイヨシノをはじめとした植栽が施されていまして、四季折々に美しい風景を楽しむことができるようになっていました。 水門川は大垣城の外堀であったため、四季の路を歩いていますとかつての城下への入口にあった門の跡にも出会いました。大垣城にあった「七口之門」のひとつ竹橋口門跡を過ぎますと、は市役川が大きくクランクとなっている場所があって、ここが外堀であったことを実感させました。この一帯は親水公園である「四季の広場」として修景されていまして、ウォーターカーテンや屋形船が麗しい景観を形づくっていました。水門川には豊富な湧水が流れていまして、これは揖斐川がつくる扇状地の末端部にあたり地下水が潤沢であることに起因しています。大垣市周辺では自噴する井戸が多くつくられていて、地域の生活と産業を支えていました。このことから、大垣は「水の都」とも呼ばれています。
四季の路をさらに南へ、日射しを軽やかに返す水門川に沿って歩きますと、先にご紹介した大垣船町へと到達します。その途中、城下を横断していた藩政期の幹線道路「美濃路」と、そこに設けられていた西総門(京口門)跡などの説明板も確認しました(美濃路については、このフィールドワークの後半で触れます)。路傍には江戸や京への方角を刻んだ道標も残されていました。船町は、大垣城下に接して水門川に設けられた河港で、貨客両面において物流の一大拠点として繁栄しました。川面には船が浮かべられて港としての雰囲気を醸し出していると共に、住吉燈台も現存しています。桑名と大垣を結ぶ航路は明治以降も活況を呈し、その運航は高度経済成長期の直前、1951(昭和26)年頃まで存続していたといいます。 この船町を有名なものとしている史実として、松尾芭蕉が「おくのほそ道」の行程を大垣で終えて、ここから船で伊勢へと旅だったエピソードがあります。こうした由緒から、この場所は「奥の細道むすびの池」として市史跡および国の名勝に指定されています。付近には「大垣市奥の細道むすびの地記念館」もあって、おくのほそ道にまつわる歴史や文化を紹介する拠点施設として活用されています。敷地内には大垣藩藩老小原鉄心の別荘「無何有荘」の「大醒榭(たいせいしゃ)」と邸宅の裏門であった「鉄心門」が移築されて、多くの文人が交流し活躍した大垣の文学的素地を感じさせました。
奥の細道むすびの地を後にして、「四季の路」を再び北へ進みます。ハギやヒガンバナなどの秋の花が咲く小道には、地蔵尊や藩主の菩提寺などが佇んでいまして、現代的な都市景観の中にあっても大垣の街の歴史を随所に感じさせる道のりでした。大垣八幡宮の境内には「大垣の湧水」が噴出しており、多くの人々がその名水を汲みに訪れていました。そのまま四季の路沿いに水門川の美しい流れを確認しながらJR大垣駅前へ。水門川を渡った先にある愛宕神社境内には、「岐阜町道標」が移設されています。この道標は大垣城下を貫通した美濃路の南の入口に建立されていたものです。ここから水門川を辿り、栗谷公園内の自噴井を確認し、美濃路大垣宿のあった町並みへと歩を進めました。 美濃路は現在は本町商店街として、現代的な町並みの中を続いています。脇本陣跡の前を通り、日本家屋の町屋が残る角を曲がってブラツキ街と呼ばれる商店街を西へ進みますと、大垣城の大手門跡に至りました。その場所には今、建物の影に隠れるように廣嶺神社が鎮座しており、わずかに史跡としての風情を残しています。境内の東側にある水路はかつての堀の名残であるようでした。本町商店街に戻り、竹鼻街道との分岐点に設置されたという本町道標を経て竹島町へ。問屋場跡の表示を過ぎ、本陣跡へと到達しました。周囲は現代建築が大勢を占めていましたが、一部に昔ながらの町屋建築も残って、旧宿場町としての佇まいを感じさせました。
最後は駅前から続く県道を北へ戻り、大垣城へと向かいました。大垣城は糜城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)の異名でも知られます。現在の建物は1959(昭和34)年に再建されたものです。長屋門をくぐり、石垣が残る公園内を歩いて、天守より大垣の町並みを眺望しました。岐阜県西部の中心として発展した町並みは、彼方の山並みへ続くように広がって、公園内の緑に接していました。水の都・大垣を歩いた今回の道のりは、水に寄り添いながら交通の要衝としての商工業を成熟させて存立してきた大垣の歴史をそのまま跡づけるものであったように感じられると共に、何より豊富にこの街を潤す水のやさしさに癒やされるものでした。 桑名の町並みを訪ねる ~七里の渡から東海道を進む~ 大垣市街地を一通り巡った後は、大垣と舟運で結びついていた揖斐川右岸の町・桑名へと車を走らせました。国道258号を南下する途上では、養老山系のたおやかな山並みや、木曽三川へと展開する田園風景を眺望することができました。船舶による物流が廃された現在でも、大垣と桑名を結ぶ鉄道路線が存続していることは、伝統的に両都市の経済的なつながりが深いことを象徴しているように感じられます。桑名城跡に整備された九華公園(きゅうかこうえん)の駐車場に車を止め、揖斐川の土手に出て眺めた木曽三川の風景は実に爽快で、筆でなぞったような雲が浮かぶ青空は、秋の雰囲気を濃厚に含んでいました。上流には多度山や長良川河口堰もくっきりと確認することができました。
桑名は木曽三川の河口にあって中世以降交易の中心地として栄えた歴史を持ち、江戸時代には東海道五十三次のひとつに数えられる宿場町が整備されて、それが今日の市街地の基礎になっています。そうした交通の要衝であったために多くの戦国大名が支配するところとなり、藩政期以降は桑名藩が立藩されて、初代藩主本多忠勝以降、家門の藩主による統治がなされました。東海道では指折りの規模を誇る町場であったようです。揖斐川の土手を上流に辿りますと、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と呼ばれる櫓建築があります。これは揖斐川改修に伴ういくつかの水門を統合的に管理する施設の外観を、かつてこの場所にあった桑名城の隅櫓風に整えたものであるようです。この櫓は東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルで、歌川広重の浮世絵でもその姿が描かれています。東海道は桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)との間は海上を通っていまして、その距離から「七里の渡」と呼ばれていました。蟠龍櫓の西側がその七里の渡の跡で、ここが伊勢国の入口でもあることから、伊勢神宮の一の鳥居も建立されています。 七里の渡跡の近傍には、実業家として山林経営を行った二代目諸戸静六邸である六華苑(ろっかえん)があります。和洋の様式が調和した洋館と和風建築をはじめ、池泉回遊式庭園を擁する敷地内は緑豊かな壮麗な風致が行き届いて、明治から大正期における建築の粋を存分に漂わせていました。七里の渡跡に戻り、旧東海道筋に沿って歩を進めます。藩主が寄進したという春日神社の銅鳥居など、昔ながらの町並みが残る街道筋は、多くの旅人が彷徨したであろう往時の空気を纏っているように思わせました。堀川の対岸にはかつての桑名城の石垣が残されていまして、付近には東海道五十三次の道のりを表現した「歴史を語る公園」もつくられており、ここが街道で屈指の宿駅であったことを物語っていました。
旧東海道は公園の南端で西へ折れて京町交差点へと進み、京町公園の南で左折して、南南西へと向かっていました。京町交差点付近には城下町時代には「京町見附」と呼ばれる枡形があり、京町門と番所が置かれていました。現在は道路のクランクは解消されており、枡形を偲ぶものは残っていません。京町公園は1937(昭和12)年に桑名市が最初に市制を施行したときの市役所があった場所で、この場所が城下町を引き継ぐ中心市街地と、在郷との結節点であったことが窺われました。旧街道筋の建物はほとんど現代の建材に置き換わっているものの、建物の構造自体は町屋造のそれを踏襲したものが多く、古くから町場として存立してきた場所であることが理解できました。県道を渡った鍛冶町には吉津屋見附跡があり、ここではクランク状に曲がった街路が現存しています。 吉津屋見附跡から東海道は東へ針路をとり、光徳寺、十念寺、長圓寺などの門前を通りながら日清小学校南交差点に突き当たった場所で再び西に曲がります。この場所は七里の渡からちょうど七回目の曲がり角であったことから、七曲見附と呼ばれる木戸があったようです。江戸時代初めに藩主本多忠勝が鋳物師の広瀬氏を招聘し工場を与え住まわせたことに由来する鍋屋町を通り、壬申の乱(672年)に大海人皇子(のちの天武天皇)が桑名郡家に駐泊されたことにちなみ建立された天武天皇社を確認し、矢田町交差点へ。矢田町は宿場と宿場の間にあって旅人が休憩する茶屋などが集まっている「立場(たてば)」と呼ばれる場所で、矢田交差点付近から西矢田町、福江町へと続く街道筋には格子造の町屋も多く、そうした地域性を今に伝えていました。西矢田町から福江町に曲がる交差点の一角には火の見櫓と半鐘のモニュメントが設けられていました。そのまま所々に昔ながらの風景が残る東海道を進み、員弁川左岸の安永地区へ。ここは町屋川とも呼ばれた員弁川の舟運や東海道を往来する人々を相手にした茶屋などで賑わった場所であったとのことで、伊勢神宮への道標として1818(文政元)年に寄進されたという常夜燈も残されていました。
安永からは国道1号沿いに市街地へ戻り、伊勢神宮との関わりを感じさせる神館(こうだて)神社を拝観してJR桑名駅前へ。そこから九華公園へ進み、公園内を散策後、この日の活動を終えました。公園内は松平定綱と松平定信を祀り、藩主の白河から桑名への移封に伴い遷座された鎮国守国神社も建立されています。名古屋大都市圏の拡大に伴いベッドタウンとしての成長も見せる桑名の町ですが、市街地には東海道中で随一の繁華を誇った宿場町の歴史に根ざした町並みが穏やかに残される巷でした。 |