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西神戸センター街を抜け、火災をまぬかれてアーケード街が残存し往時の佇まいを残す六間道商店街を東に進んで、地下鉄海岸線が下を通る道路を再び北へ向かいました。更地になった部分と、住居と飲食店とが路地に並んだ風景、シートに覆われて再開発事業が進む地域とが渾然一体となっているまちを歩きました。震災後の様子をこの目でみたことがあるわけでもなく、またこの下町が元気であったときを体感したわけでもなく、また震災の痛手を背負いながらも日々の暮らしに邁進している住民のみなさんの、本当のご苦労を実感しているわけでもない、私の目には、順調に再開発がすすんでいるように見えます。 しかしながら、震災を経験し、それを乗り越えてきた新長田には、再開発を軌道に乗せ得るだけの力が甦るのでしょうか。人が戻ってくることができるのでしょうか。再開発と裏腹に、そういった懸念をも払拭しきれない地域の実状もまた、垣間見えるような気がいたします・・・。
阪神高速下をくぐる地下道にも、神戸デパートの地下街があったのですが、現在では店舗はなく、震災の遺品や「神戸の壁」(注2)をはじめとした震災の記録が展示されています。そこには震災の惨禍を見せつける多くの展示がなされており、改めて震災の恐ろしさを思い知りました。中でも印象に残ったものは、焼け跡から掘り出された歯車やワイヤーブラシでした。それは、新長田の町のすがたと、そういったかけがえのないものにまで焼き尽くした震災の被害の現実を、静かに、そして力強く語っているようでした。
再び新長田1番街に戻り、JR線のガード下をくぐって、やはり多くの家屋が倒壊し、火災によって焦土となった千歳町界隈へと進みました。新長田駅も、震災により甚大な被害を被りましたが、現在では見事に再興され、神戸市西部のターミナルとして、近代的な駅舎と駅前広場が整えられています。長田工業高校の北側を西へ折れて、区画整理中の街区に、震災後に建設されたと考えられる新しい住宅と、仮設の建物とが点在するといった地域を歩いていきます。
このあたりは、戦前から受け継いだ中小の製造業が高密度に分布する地域として、住宅と工場、小規模な作業所などが混在する地域でして、目の前に広がる光景は、一見してそういった住工混在地区の往時の面影を探すことはできないように思われました。しかしながら、土地区画整理事業が進捗していく中で、道路が順次拡幅されていく途上の地域では、従前の道路の幅が見て取れましたし、一部の街路は袋小路的に閉塞していて、かつての街区の痕跡もまた認めることができました。一部の事業所は仮設の作業所を構えて営業をしていましたし、また一部には高層の新築マンションも分譲を開始しているなど、この地域も着実に復興への道を進んでいるように見えました。 住居表示が千歳町となって行政区上は須磨区になりますが、まだ長田区の製造業を中心とした地域性が連続しています。地域の真ん中にあって、震災後には避難所として機能していた旧市立千歳小学校は学校の統合のために廃校となっていまして、現在では校舎も取り壊されて更地となり、公園として甦る計画であるそうです。この付近も、個人住宅や集合住宅が多い地域となっていましたが、スポット的に空き地もあり、土地区画整地事業のが現在進行形で進んでいるようでした。 地域を概観していますと、道路の幅の拡幅がかなり重点的に意識された土地区画整理事業であることが真っ先に印象的に映ります。火災が道路を埋め尽くした瓦礫を通じて隣接するブロックへと飛び火して、火種の連鎖がやがて面的な広がりをみて、大きな火災へと至ったのですが、土地区画のデザインはこういった類焼に対する、防災上の最大限の配慮が随所に感じられました。この新長田界隈の近隣を特徴づけていた、また多くの地域住民が愛着を感じていた(と信じております)、狭い街路に密集した長屋家屋が連なるという都市空間は、震災の惨禍によってことごとく否定されてしまったようにも感じられて、少し寂しい感もありました。
しかしながら、物理的な構造は破壊されたとしましても、人間的なつながりというのは、そう簡単に失われないものであると思います。この町で培われた、気の置けない、近い距離での良好な近隣関係は、今後とも生まれ変わったまちのなかで連綿と受け継がれていくのではないでしょうか。不況、高齢化、人口減少という現実を考えれば甘い妄想なのかもしれませんが、神戸という町の基盤たるこの町の火を繋いでいくことは、神戸の未来にとってとても大切なことだと思っています。 そして、千歳町という地名を聞いて、気がかりなことがもう1つありました。司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの21巻「神戸・横浜散歩/芸備の道」の中で、触れられている「青丘文庫」のことです。青丘文庫とは、在日朝鮮人の経済人であり学者であった故・韓皙曦(ハンソクヒ;ルビは同書のまま引用)さんが、私財によって1969年に設立した朝鮮史の専門図書館で、千歳町4丁目に存在していました。司馬氏は同書の中で、長田区や須磨区における朝鮮人の人口の多さに着目し、彼ら、彼女らの、長田区の製造業の発展に寄与した貢献が大きかったことと、神戸の町における、「他人がどんな人であろうと頓着しない安気さ」がそれを後押ししたことを指摘し、その象徴として「青丘文庫」を挙げて、そこを実際に訪問しています。
新長田界隈は、震災の甚大な被害を乗り越えて、大きく生まれまわろうとする途上にあります。多くの地域が、震災前の景観を一変させました。しかしながら、地域に根づいてきたコミュニティ、製造業を中心とした地域性は、身近な距離感から心置きなく付き合える雰囲気を作り、神戸市の持つかけがえのない財産となっていると考えています。そんな魅力に溢れた地域ではないか、私は思っています。これからのさらなる復興を切に期待したいと思います。 (注1)長田区における行政区域の変遷は、神戸市長田区ホームページ内「長田区の歴史」を参考にしました(URLは割愛させていただきます)。 新長田駅南の公設市場の防火壁として作られた壁で、建物が倒壊し、火災に覆われた周辺地域にあって、焼け跡にすすをかぶったままの姿で屹立し、「震災の生き証人」として震災を象徴する事物となりました。現在は再開発事業のために淡路島の津名町志筑に移築されています。 <追記>上記文章と写真は、2003年3月現在の様子をとらえたものです。伝聞によりますと、新長田界隈の再開発は急ピッチで進んでいるようでして、現在のようすとはだいぶ景観も異なっている場所も多いのではないかと推察しております。折をみながら、追加の取材をして、フォローアップしていけたらと考えています。 |
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