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2004年5月、日本一のお茶どころ、静岡県の中でも最大の栽培面積を誇る、牧ノ原の大茶園を見に行ってきました。 5月の爽やかな青空と快い風の下、東洋一とも形容される、豊かなお茶畑が広がっていたのでした。 |
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お茶どころ、静岡 今回の静岡県・牧ノ原訪問は、地元太田市を自動車で出発し、秩父経由で雁坂峠を越えて甲府盆地に入り、富士川沿いを南下、清水から国道1号線、金谷から国道473号線と経て現地に入るという行程を辿りました。かつては「清水市興津」などと書かれていたのであろう、歩道橋の側面等に記載されている住所の表示は、「市」の字があった部分だけ塗りつぶされていたのが印象的でしたね(やがて政令指定都市移行時にはこのスペースに「区」の字が挿入されることとなるのでしょうか)。県境を越えて静岡県下に入ると、道路沿いのちょっとした斜面にもお茶の畝が認められるようになり、「お茶どころ」にやってきたことを実感させました。第2東名のものと思われる橋げたなど巨大な構造物群の下をくぐり、国道52号線は太平洋に向かって軽やかに斜面を下っていきます。この間にも、ここかしこに、山林に連続したり、集落の間に点在したりしながら、大小の茶畑が開かれているのが分かりました。みかんの畑にも、しばしば出会いました。山々も緑がたいへんたおやかで、穏やかに葉を揺らす竹林もこころなしか土色に色づいて、竹の秋の季節であることを伝えていました。まさに、温暖な静岡らしい風景であったように思います。 先日、興味深いお話をいただいたことがあります。静岡では、お茶の色とはまぎれもなく、煎茶が呈する鮮やかなさみどり色のことであり、一般に茶色というと英語の「brown」の色合いで用いられていることに違和感を感じるというものでした。また、山々は常緑樹が多いためか「茶色」に色づくということがないので、その意味からも「茶色」を日常生活の風景で意識することはあまりない、とも。まさに、お茶どころ、静岡らしいお話ではないでしょうか。 ここで、お茶どころ静岡の実際を、データにより跡付けてみたいと思います。農林水産省が発表した、平成15年度の茶関連のデータを確認しますと、静岡県の茶栽培面積は、およそ19,500ヘクタールで、全国の総面積に占める割合は実に43.7%にものぼります。静岡県(7,779.81平方キロメートル)の全国(372,863.06平方キロメートル)に占める面積シェアはおよそ2.1%ですから、驚異的な茶栽培の特化地域であることが改めて理解されますね。なお、この趨勢は収穫量を見ても揺るぎないもので、静岡県内における生葉の収穫量は188,400トン、全国シェアは43.6%となります。近年南九州の産地に若干追い上げられているものの、依然として40%を越える高い比率を占めていることは、まさにお茶どころとしての静岡ここにあり、といった優位性といいますか、風格さえ感じさせますね。 牧ノ原に薫風はわたる 国道1号線をしばらく西し、大井川を渡河したあたりから国道473号線に入り、牧ノ原を目指しました。途中、穏やかな佇まいを見せる金谷の町中を通過しました。東海道が大井川を渡る両側に、金谷と島田の宿が発達しました。金谷の町は、火剣山の東麓、東海道が牧ノ原台地の北端から一気に大井川へと駆け下りる立地になっており、その僅かながらの土地にびっしりと街並みが続く様子は、この町の往時の繁栄や、現在に至るまでこの地域における大切な中心地となってきたであろうことを語りかけてくれているかのようでした。国道は、金谷の町の西側で坂を駆け上がり、牧ノ原台地へと向かって進んでいきます。坂の途中のちょっとした平坦地にも、初夏を迎え、いっそう光り輝く茶畑が認められました。大井川の流れの向こう、島田の市街地も実にたおやかに眺められます。この日は日差しも初夏を思わせる、美しい晴天でした。霞がかっていたため望むことができませんでしたが、気象条件が整えば、雄大な富士山もバックにその姿を見せていたことでしょう。
牧ノ原の台地上には、果たして広大な茶畑が展開していました。道路の両側、住宅地その他の人間の生活のために必要な諸施設が立地している土地や、河川や山林、道路等となっている土地を除いたすべての土地という土地が、鮮やかなお茶の畑によって占められているといっても過言ではありませんでした。それくらい、他を圧倒する存在感を持つ光景−茶畑がどこまでも広がっていく光景−が目の前に展開しています。あまりの感動に、あちらこちらでデジカメのシャッターを押し捲ってしまいました。以下に、それらのうちの一部をご紹介します。
茶畑には、多くの場合上の写真のように最上部にプロペラのついた柱のようなものが配置されています。しかも、これらの装置はけっこうな密度で設置されています。これらは、遅霜による被害を予防するための装置で、一般に「防霜ファン」と呼ばれるものなのだそうです。お茶の収穫の最盛期は、発摘みの適期とされる、八十八夜あたりからゴールデンウィークをはさんで2、3週間とされています。八十八夜とは、立春から数えて88日目にあたる日で、「八十八夜の別れ霜」などと言い習わされているとおり、遅霜(春の季節に降りる、遅い霜)の時期といわれます。霜は茶の成長に影響し、茶葉の品質を低下させますから、遅霜の恐れがあるときは、これらのプロペラを回転させて、地表付近に冷たい空気が滞留しないようにするわけですね。また、台地上には右上の写真のように、茶葉を加工する製茶工場が数多く立地していました。新茶も出回る頃であり、随所に「新茶入荷」などと書かれた幟旗がはためいておりました。そして、何より、多くの茶畑において、茶葉の摘み取り作業が炎天下にもかかわらず行われておりました。 なぜ、静岡県ではこれほどまでにお茶の栽培が盛んになったのでしょうか。 第一には、気象的に、お茶の栽培に適した土地がたいへんに広いということが挙げられます。静岡県茶業試験場による解説をお借りしますと、茶樹の気温から見た日本での栽培適地は、年平均気温が14〜16℃の範囲にあり、冬場の最低気温が−5〜−6℃程度におさまる地域とされているのだそうです。また、降水量では、年間1,500o以上、特に3月から10月までの生育期間には1,000o以上必要とされているのだそうで、山間部の一部を除けば、静岡県下のほとんどの地域は、お茶の栽培に適した条件下にあることになるのだそうです。 第二には、静岡県における茶栽培の長い歴史と、生産から流通までの支える産業としての充実性が挙げられます。再び静岡県茶業試験場による解説を引用しますが、県内には荒茶の仕上加工業者が約600社あり、全国各地から荒茶が県内に流通し、その流通量は全国生産量の7割近くにも及ぶとされているのだそうです。 今回訪れた牧ノ原における大茶園も、多くの先人のたゆまぬ努力が結実した豊穣の大地です。牧ノ原の茶園は、明治維新のころ、徳川家の幕臣や、職を失った大井川の川越人足の手により開拓されたものをその萌芽としています。太平洋戦争の影響などを受けて一時期荒廃したのですが、戦後に大規模な再整理が行われて、現在の東洋一の大茶園が形成されました。今日も、お茶畑は、葉の一枚一枚が太陽の光を穏やかに反射させながら、すくすくと育っていました。天候の変化に敏感なお茶は、この季節、管理に相当の注意と手間を要すると聞きます。天候がよすぎると、お茶の成長に収穫が追いつかず、品質の低下を招くこともあるのだそうです。 鮮やかな新緑の色そのままのお茶の上を、お茶の若葉の甘い香りを溶け込ませた薫風がわたっていきます。その爽やかな色彩には、お茶栽培に関わる多くの先人の努力や、今日までお茶栽培を受け継いできた農家の皆さんのご尽力が隠されているのですね。
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