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桜色の感慨をつむぐ道
~2016年、姫路から東へ~
2016年4月9日から10日にかけて、姫路城の桜を観に行きました。姫路から三多気、松坂城、富士宮へと進んで、各地域の特色ある桜を鑑賞しました。地域の歴史と史跡、景観に寄り添うようにしなやかな色彩を見せる桜に酔いしれました。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2018年7月23日 |
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姫路城、満開の桜色に染まる ~春本番の城の内外を歩く~ 2016年4月9日、年7月19日午前9時過ぎ、地元を深夜に出発して高速道路を西へひたすらに進み、春の穏やかな空に祝福されるような姫路城前に到着しました。この年のソメイヨシノの満開日を確認したところ、兵庫県内では神戸が4月3日であったようで、満開からはやや日が経過しての訪問でした。2006(平成21)年6月から2015(平成27)年3月まで行われていた平成の大修理を終えた大天守は、穏やかな春光をいっぱいに溶け込ませた空の色と同じくらいの透明感を放っているように感じられました。
大手門駐車場に車を止めることができ、そこから大手門へ進みます。石垣の上に連なるソメイヨシノの並木は、やや落花が進んでいるような印象ですがまだまだ十分に花を残していまして、あたたかく来訪者を迎えていました。大手門前の内濠に架かる橋は「桜門橋(さくらもんばし)」と名付けられています。橋は発掘調査によって発見された橋台を生かしながら、江戸時代の木橋をイメージして2007(平成19)年に完成したものです。大手門をくぐった先は三の丸広場です。大天守を正面に見通すことのできる三の丸広場は、周囲にソメイヨシノがふんだんに植えられています。また、西の丸から二の丸を囲む石垣に沿ってもたくさんのソメイヨシノが枝を伸ばしていまして、白亜の城はまさに桜の海の上に浮かんでいるような情景に彩られます。三の丸広場を縁取る桜と、城壁を輝かせる桜と、2つの桜色の小波が、淡い空の色に重なります。三の丸広場には、往時には藩主が公務を離れたプライベートを過ごす下屋敷(向御屋敷(むかいおやしき))や武蔵野御殿(本多忠刻と千姫夫妻が過ごした御殿)が立ち並んでいました。 三の丸広場西側の一段高い一角が「千姫ぼたん園」です。この場所にはかつて御居屋敷(おいやしき)、御居城(ごきょじょう)または本城(ほんじょう)とも呼ばれる御殿が建って、姫路藩の政庁として機能していました。その名のとおり、この場所には多くのソメイヨシノ木の下に、約2,000株の牡丹が植えられています。ぼたん園は、花びらを落とし始めたソメイヨシノの下、地面にはいっぱいの花びらが敷き詰められていまして、桜に変わって花開こうとしている牡丹のつぼみをやさしく照らしていました。石垣に接する場所からはお濠越しに枝を伸ばす桜と、姫路市街地とを見通すことができるとともに、桜の木々が織りなす「桜の山」の上に鎮座するかのような大天守も眺望することができました。
三の丸広場から天守閣方面へ、大手門(桜門)から菱の門を入って城の中心部へと進みます。菱の門を入って正面に向かって左後方のスロープを、石垣上の土塀に沿って歩きますと、西の丸へと至ります。西の丸は本多忠刻と千姫の御殿があった場所で、長局(百間廊下)と呼ばれる渡櫓に囲まれた曲輪です。現在は「西の丸庭園」として整備され、ここでもたくさんの桜(ソメイヨシノのほか、ヤマザクラやシダレザクラも認められました)が咲き乱れていまして、春らしい桜色に包まれた風景の中、快い散策を楽しむことができます。春の温かさがそのまま滲み出るような桜に酔いしれながら、長局の中へと足を踏み入れました。城の西の守りとして、また平時は西の丸御殿で働く女中たちの居所として用いられたその渡櫓は、長さが300メートルもあることから、百間廊下の通称で呼ばれました。百間廊下の突き当たりには化粧櫓と呼ばれる櫓があります。千姫がこの櫓で休息し、ここから見える男山天満宮を仰ぎ、祈りを指させていた場所と伝えられます。櫓の窓の格子越しにも、桜色が目に入りまして、雅な雰囲気を盛り上げます。 化粧櫓を出ますと、西の丸を経由せず菱の門から直接大天守へと向かうルートと合流します。ここからは多くの門を通過しながら、時計回りに、近くに見えるになかなかたどり着けない大天守への道のりが続きます。ここに、城郭建築としての機能性と優美さという、姫路城の史跡としての価値が凝縮されています。桜が見頃を迎えていたこの日は多くの登城客が訪れていまして、大天守へ上る人数が整理券により制限されていました。ようやく上り詰めた大天守の上層からは、城内中に噴き出すように淡いピンク色をはためかせる桜のほか、芽吹き始めた木々の緑に抱かれるようにして展開する城内の彼方に、播磨地方の一大中心である姫路の市街地が大きく広がっている様子を眺望することができました。
大天守からは本丸の南側に当たる備前丸で、シダレザクラ越しに大天守を仰ぎ見ながら、姫路城内の観桜を続けました。桜門橋を渡って壕を渡って東へ、護国神社前から城見台公園、姫路公園の東側の道路を北へ辿りながら、アングルが移り変わる城の姿を確認していました。城内図書館北側の中濠は県道の場所でクランクになっていまして、この場所に姫路城の北東側の入口である野里門の枡形があった痕跡です。門の名前は門外の野里地区に因むものです。野里地区は城外における物資の集散地として、但馬(兵庫県北部)や東播磨、北播磨方面と経済的に結びつく町場が形成されました。現在でも町屋造の建物のほか、寺院や藩政期における備蓄倉庫である「固寧倉(こねいそう)」などの佇まいもあいまって、歴史のある町並みに往時の喧噪を感じさせました。 野里地区の小散策の後は、中堀に沿って姫路公園の外側を反時計回りになぞりながら、中壕と船場川が並行する水辺のルート「千姫の小径」を歩きました。ソメイヨシノの花弁が穏やかに宙を漂って、水面や地面にみずみずしい桜色のグラデーションをつくっていました。
水路に挟まれた散策路を歩いた後は、市制100周年を記念して1992(平成4)年に完成した日本庭園である姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」を訪れました。園内は9つの異なったコンセプトで作庭されたエリアからなっていまして、桜や新緑に混じり、ミツバツツジやシャクナゲ、トキワマンサクなどが花を咲かせて、初夏へ向けての季節の移ろいを予感させました。 三多気の桜と松坂城跡の桜 ~地域の美しい風景を彩る薄紅色~ 姫路城とその周辺の桜をめぐる散策を終えた後は、国道2号などをたどりながらひたすら関西を東進しました。この日は松坂駅前に投宿する予定にしており、地図を確認しながら、兵庫から大阪、奈良へと向かう道のりで日没を迎え、三重県に入り奈良県境も程近い津市美杉町に位置する三多気(みたけ)の桜に到着したのは午後9時を回った時間でした。三多気の桜は、この辺りでは国道368号と重なる伊勢本街道から真福院(しんぷくいん)へ続く参道沿いにヤマザクラが植えられているものを呼びます。訪れる人はほとんどなく、静寂に包まれる夜桜は、参道に沿って灯された明かりにやわらかに照らされて、繊細な色合いを見せていました。
翌4月10日は、前日に立ち寄った三多気の桜へ向かう前に、宿泊した松阪市街地を一瞥することとしました。松阪は、三重県の中部、県庁所在都市の津市と伊勢市のほぼ中間に位置しています。古くより伊勢神宮へ通じる街道沿いの要衝として栄え、1588(天正16)年に蒲生氏郷が松坂(当初の表記。1889(明治22)年の町制施行を機に、大坂が大阪となったのに倣い、松阪の表記に統一されたものとのことです)を開いてからはさらに交通の要地としての地位を確立し、藩政期は紀州藩の城代が置かれて、地域の中心的な商業都市として繁栄しました。松阪駅前のホテルを出て、駅前通りと旧伊勢街道沿いに形成された商業地域を通り、市街地の西に隣接する松坂城跡へ。前出のとおり蒲生氏郷が建設したこの城は、四五百森(よいほのもり)と呼ばれていまして、城郭の建設後は城下町も併せて整備し、商人を住まわせて、それが松坂商人と呼ばれる商人を輩出した商都としての礎となりました。 大手口であった表門から城内へ進み、1912(明治45)年完成の図書館の建物を転用した市立歴史民俗資料館の前をとおり、本丸へ。城内の桜は盛りを過ぎ、優美な石垣を取り囲むようにみずみずしい葉を広げる深緑の清しい光の中へとその桜色を溶け込ませようとしていました。城内の建物は概ね棄却されており石垣のみが往時の姿を残していますが、本丸を構成する石垣の上からは、緑豊かな城郭の森の向こうに、現代の松坂の町並みが美しく眺望できました。当地出身の国学者本居宣長旧宅(魚町の旧地より城内の現在地に移築されたもの)や、本居宣長ノ宮、江戸時代末期の武家屋敷の遺構である御城番屋敷(ごじょうばんやしき)と巡って、今日の松阪の町が形づくられるに至った歴史に触れました。蒲生氏郷がこの地を望む四五百森を中心に町を開いた城跡は、この訪問より数日前には、いっぱいの桜色に包まれていたことでしょう。その桜のしなやかな佇まいは、このまちが商業都市としてアグレッシブに邁進してきた歩みそのままの生命力に満ちたものであったのではないかと想像されました。
松坂市街地を歩いた後は、三多気の桜を採訪すべく、山あいの里を目指しました。ただ、前日通過した国道368号は、仁柿峠を通る部分はかなり道幅が狭く通行に難渋したので、この日は北側を迂回して三多気の桜のある津市美杉町へと向かいました。いわゆる平成の大合併により、2006(平成18)年に津市の一部となるまでは、ここは美杉村という山間の村でした。ただし、津市の中心部からは南西に約35キロメートルほども離れている上、山間部に位置していることから、現在でも美杉地域は一定の隔絶性を備えていると言えそうです。桜に程近い場所にあるJR伊勢奥津駅を終点とする名松線は、2009(平成21)年10月の台風による風水害により家城駅から当駅までの区間が長らく運休しており、訪れたこの年の3月26日に復旧を果たしたばかりで、そうした事象もこの地域が山懐に抱かれた場所であることを示しているといえるのかもしれません。桜の周辺は日中は交通規制があるため、少し離れた場所にあるシャトルバス発着所(フットパーク美杉)に車を止めて、三多気の桜へと向かいました。 三多気の桜は、真福院へと続く参道沿いに植えられたヤマザクラの並木道です。国の名勝に指定される美観を誇ります。三多気の集落はゆるやかな南向きの斜面に沿って刻まれた谷筋を切り開いて発達しています。参道の西側、谷に面していない一帯は茶畑として利用されていまして、手入れの行き届いた茶の木の列が美しいストライプを構成していました。ヤマザクラに時折ソメイヨシノやシダレザクラも植えられた参道を、その清楚な桜色を楽しみながら歩を進めました。三多気の集落は、歴史を感じさせる古い家並みが印象的で、農地や宅地を造成する際に土留めとした石垣も丸みを帯びて、時間の経過を感じさせました。そうした景観を包むように、ヤマザクラのあでやかな色彩が、春ののびやかな村の風景を彩っていました。ヤマザクラは花と葉が同時に芽吹きます。やや赤みの濃い花と、緋色がかった萌黄色の葉とのコントラストも、古代における雅の風合いをかすかに匂わせていまして、奈良と伊勢とを結んだこの地域の文化ともよく符合しているようにも感じられます。
三多気の桜を象徴する風景は、ヤマザクラと水の張られた棚田とが織りなす眺望です。奥伊勢の幽玄な山並みの下、谷間に築かれた棚田に沿って、参道のヤマザクラの並木がその水面に桜色の影を落とす様は、まさに日本の古き良き、麗しい山村の姿そのものであるように思われました。桜の樹冠のとなりには、集落の家々の家並みが重なって、そうした秀麗な景色に出会えた感動をいっそう新鮮なものにさせてくれます。水田のとなりには、こんもりとした竹林がよりそって、春の極上の情景を演出しています。この日は日本の春にはしばしば訪れる、あたたかい薄曇りの陽気でした。冬から春へ、田植えの季節へと向かう時節にあって、明るい灰色の空は、そうした生命が躍動を始めるみずみずしさを凝縮したような清新さを帯びているようにも思えてきます。山里において現出したこの日の桜に導かれた光景を目の前に、春らしい青空の下、緑と白い輝きに溢れた三多気の装いを想像しました。 震幅院の境内を参詣し、三多気の春を存分に感じた後は、自宅へ戻るべく、高速道路をただ東へと車を走らせました。その帰路に、静岡県富士宮市にある「狩宿の下馬桜」に立ち寄りました。この桜は日本五大桜の一つに数えられる、日本最古級のヤマザクラです。狩宿という地名は、1193(建久4)年に源頼朝が富士の巻狩の際に陣屋を設けたところであることによるとされているようです。別名の「駒止めの桜」も、頼朝が桜の枝に馬をつないだと伝えられることによるものです。既に午後6時を回り、夕闇に紛れようとする富士山の風景と、懸命に樹勢を維持しようと枝を伸ばすヤマザクラの姿とが重なって、生命の尊さと、自然の雄大さとを実感しました。 |
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