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山陰の夏 I

この文章は、1994年、私が大学2年のときに、広島・松江を訪れた時の感想をまとめた文章を基礎としている。当時、私は大学の混声合唱団で活動していた。この年の定期演奏会に広島における原爆の惨禍と平和の尊さとをテーマにした楽曲「祈りの虹」を歌うことになっていた。少しでも広島の経験を勉強しようと、同学年の団員と連れ立っての旅行だった。その後、松江・宍道湖・出雲大社と旅を続けた。1994年に書いた文章には、山陰の夏の猛々しいさまの他に、広島での貴重な経験や、半年後に未曾有の大震災に襲われることになる神戸の朝焼けの美しさなども語られている。それらを思い起こしながら、随筆集「山陰の夏 I」として、まとめてみたい。


             (1) 黎明−広島にて−

元安川のほとりの緑にまぎれた軌道敷内に降り立つ。記録的な冷夏だった昨年(1993年)とは打って変わり、今年は大変な猛暑である。道路も、市電の軌道も、からからになっている。午後3時を過ぎ日は傾きつつあるというのに、大気は熱を持ちきれないのか、それを容赦なく地上へ放射している。せみ達の鳴き声も、どこかもっと涼しい夏であってほしいと懇願しているかのように耳を打つ。汗を拭いつつ、Tシャツを潤しながら、肌に引っ付いてくる汗に不快感を覚えながら、水が幾分少なく見える川と、街を東西に走る通りとを囲む緑地の中へ踏み入れた。かがやく木々の葉が、その向こうの世界を見え隠れさせる。空はどこまでも青く、かすみが太陽の光にみな分解されてしまったかのようだ。射し込む白光が、目をチカチカさせる。光を抱え込んだ緑のヴェールがそっととれた瞬間、せつなの静寂が、雑踏の喧騒や排気ガスに包められたエンジン音、すべての音たちを奪い去った。そして、沈黙。
 
――わが国が世界に向けて持つことができる“燃え尽きたみあかし”がそこに屹立していた。――

雑然と転がるコンクリートの塊。外壁が吹き飛んで、見事なまでに骨格だけが残る円筒形。そして、何よりも身震いを起こさせるその砂漠色に、とにかく、声が出なかった。目の奥が熱くなった。確かに、目を開けていられないくらいの熱さを感じた。真夏の熱気のもと、それはしっかりと広島の地に立ち、この街を見守っている。この街に息づくすべての平和への思いをがっしりと受け止め、無言のアッピールを送り出している。

「燃え尽きたみあかし

すべてが燃え尽きたあの日
空は青さを失い、水はひかりを失い
大地はいろといういろをみうしなった
黒き涙は、ただ過ぎ去っていった
まちは、沈黙した

そして、ななつの川に囲まれた
このまちにはいま、
たくさんのかがやきが息づいている
まちは、たくさん願いと祈りを携えて
しずかに、しかし力強く、訴えている
惨禍への抗拒と傷負いたるものへの慈愛を
安寧への展望と邁進を

燃え尽きたみあかしのもと、その思いは
決して尽きることはない



 “燃え尽きたみあかし”原爆ドームは、かつては広島県産業奨励館と呼ばれ、広島市の工業製品等が陳列されていた。中央の吹きぬきのホールからドーム部分へと昇る階段が、当時としてはかなり斬新な建造物で、市民の多くが注目し、誇りにしていたという。現在、世界遺産に指定され、戦争の悲惨さを訴えつづける原爆ドームは、その生い立ちから、この街とともにあった。人々の共通の思いを表現するランドマークであった。そこに束ねられ、編まれてきたものは、あまりにも大きく、あまりにも尊い。

相変わらず容赦のない夏の太陽のもと、平和記念公園へと足を運んだ。遙かに揺れる平和の炎にかすれるようなドームの姿が、アーチの向こうに見えている。無数の千羽鶴が手向けられ、鳩たちが降り立っては、飛び立ってゆく。そして、ただひとつの文章が、訪れる人々に重く、強烈な印象を与える。

――安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから。――

平和記念資料館を見学し、夕方になってもまだ暑さの厳しい街を歩いた。中国地方の拠点都市として膨張を続ける広島の街は、平和というものの力こそが、なによりも人類の繁栄をもたらす源であることを、改めて認識させてくれているようだった。市電が街を走り、その間を自動車が行き過ぎ、多くの人々が真夏の街を闊歩している。戦争、とりわけ核兵器の非人道性を世界へ投げかけ、平和の尊さ、力強さを存分に見せつける。原爆ドームを見たときの、あの網膜に響いた熱さと、広島の元気な姿とを、決して忘れてはならないと思わずにはいられなかった。

(1994年8月7日、原爆の日翌日の広島にて)


             (2) 山陰の夏 I (山口、津和野、松江、大社)

山口市は、こういっては失礼だが、ありふれた田舎の街のように、私の目と脳裏に映った。旅行をした当時は、戦国時代、西日本の雄として君臨した大内氏の居城とした「西の京」として繁栄した歴史があった史実を知らなかったため、なおさらそのように映ったのだと思う。確かに、山口市は、県庁所在都市としては、いささか都市の規模において他府県のそれに劣る。しかし、多くの同じような規模の都市が相互に依存しあいながら存立する山口県内都市群の姿は、地方分権を進めるにあたって、都市計画を考える上での多くの示唆を与える。21世紀を展望する上で、重要な意義を持つ、個性豊かな地域性を持った街であるとも言えよう。そういったことにまで目を向けることができるまでには、当時の私はまだ至っていなかった。もっとこの街を知るためにも、もう一度行って、歩いて、山口の魅力に浸ってみたい。

小郡から、JR山口線を走るSLやまぐち号に乗り込んだ。日本各地におけるSLブームの火付け役的存在のやまぐち号は、各車両ごとに異なるコンセプトで内装が施されている。乗車した4両目の車輛は、大正風につくられており、鼈甲色のシンプルな構造のシャンデリアを中心とし、茶色い壁と緑色のシートでまとめられたシックな雰囲気でまとめられている。文明開化時の過度に豪奢なイメージから脱却した大正期の気風が、十分に想起されるような、すてきなつくりであった。窓の外には、のどかな田園風景が続く沿線ではあるが、もちろん民家もたくさんある。そんなことにはお構いなしに、蒸気機関車は、煙をもくもくと吐き、後方へと流していく。どこまでも青い、ぎらぎらした空に混じり合っていくかのように、黒い煙は、窓の外を、あるいはその上方を、通過してゆく。「火事になっちゃいそうだよ」「ああっ、煙が歩いているよ」こどもたちは、はじめて見る蒸気機関車の煙に、口々に感想をもらしながら、惹き付けられている。やまぐち号は、灼熱の空の下で列車の速度に負けずにさざなみをつくる稲穂の間を、さっそうと進んだ。やがて、SLは、山口線の“難所”と呼ばれる長門峡に達した。木々が窓のすぐそこにまで迫り、煙が窓ガラスを曇らせ、外の景色が十分に見えなくなってしまった。この現象は、トンネルを出たり入ったりする頃になるとますます激しくなった。峡谷を満足に見ることができないままに、SLは小京都と呼ばれる津和野へ到着した。

津和野町は、島根県西部、中国山地のあわいにわずかに広がった盆地の、小ぢんまりとした町だ。東に聳える青野山と、西側に屹立する城山とに挟まれ、「山陰の小京都」は、穏やかな風貌を見せてくれていた。学生の旅行ということもあり、その日のうちに松江まで行かなければならなかったので、津和野での滞在時間は3時間もなかったように思う。駅前でレンタサイクルに乗り、中心市街地を南し、赤茶けた石の転がる津和野川のほとりまできた。津和野川にかかる津和野大橋付近には、養老館と呼ばれる津和野藩の藩校跡が一部復元された建物があり、道路端は美しく堀割され、津和野の城下町としての歴史が最もよく残された地域の一つとなっている。堀には錦鯉が放たれ、菖蒲の影がそれをさりげなく飾ってくれていた。そこで、津和野町の伝統工芸品を展示する資料館に入ってみた。ところが、観光客でにぎわう通りとは打って変わって、ここを訪れる人は皆無に等しかった。そのため、中にいづらくなってしまい、すぐに出てしまった。もったいないことをしたかとも思う一方、展示品も、展示方法も、なにも凝ったところがなく、ただ雑然と古いものを並べておくだけというのもどうかとも思った。その後、森鴎外旧居などを見学したあと、急ぎ食事をとって、益田行きの電車に乗り込んだ。駅の背後に絶壁のように迫る城山に上り、城跡から津和野の町を眺めることができなかったのは、少し心残りだった。

94年は、本当に暑い夏だった。松江市内を歩き、宍道湖畔を走る電車で出雲大社に行った8月10日も、朝から強い日差しが照りつけ、まさに猛暑の一日だった。松江駅近くのホテルを出て、嫁が島の見える宍道湖畔へと出た。交通量の多い国道9号線沿いから、夏の太陽を映した宍道湖を眺めた。きらきらと無数の光をはらんだ湖面に、嫁が島が筏のように浮かんでいた。ぼろ布を纏ったマストのように数本の松の木が立っていた。このあたりは湖岸ぎりぎりを国道が通っていたので、いたってシンプルな景観であった。無駄なものが省かれ、奥ゆかしくも感じられる風景だった。

宍道湖は、汽水湖である。同じく汽水湖である中海とは、大橋川という水路でつながっている。その大橋川をまたぐ宍道湖大橋は、河口にかかっているように見えた。橋の北詰からは、松江の旧城下町を受継ぐ松江市の中心部へと入る。かつての堀の跡とおぼしき京橋川を渡り、さらに北に進むと、左手に島根県庁が、右手に県民会館が、そして内堀を挟んで正面には松江城が、それぞれ見えてくる。堀を周囲に巡らし、高台に鎮座する城は、その懐に埋もれるほどの木々を従えていて、日本の多くの都市が持っている、画一的でどことなく無表情さを見事に排除してくれていた。せみが夏の暑さを助長するようにわめき散らすなか、全国で6番目に歴史が古く、かつ全国に12しかない天守の一つであるという城に上った。

城は、入り口から眺めると、左右の均衡が良くとれている事に気づく。その容貌は、実戦に耐えるように構成されていることもあり、装飾的に凝ったところもなく、砦として自然なイメージに整えられ、パンフレットの言葉を借りれば、「無骨で、桃山風の荘重雄大」な城であった。望楼(いわゆる、最上階)からは、松江市を一望することができる。南西に目を向けると、海のような宍道湖が目に飛び込んでくる。その湖も、南に向かうにつれて突然に細くなり、嫁が島を置き土産にして大橋川へとその姿を変えてゆく。城のすぐ下の森の向こうに松江市街が広がる。大橋川は山と山とに挟まれた緑地の中をしずしずと流れ下り、やがて中海へと注いでゆく。市街地の向こうには、天気がよければ、中国山地の山々や遠く大山の姿も望むことができたことだろう。東から北にかけては、緑のまぶしい丘陵地が広がって山陰地方ののどかな一面を覗かせ、くるっと西に目をやれば、視線の先には再びレンズのようにきらきら輝く宍道湖の湖面が見えてくる。こんな具合であった。

松江城を出て、木々の覆い被さる道を北へ行くと、松江が18万6千石の城下町として栄えた往時の姿を残す、武家屋敷が多く保存された路地にでることができる。鍵の手に連続するこの界隈は塩見縄手(しおみなわて)と呼ばれ、歴史的景観保存地区として整備されている。城の北東側を、北西から南東に向かって伸びるこの路地は、南東に向かって右手にお堀をはさんで松江城の杜に接し、左手には武家屋敷を再現した町並みが立ち並んだ、松江城下の往時を偲ぶことができる場所となっている。「縄手」とは、縄のように、一筋に伸びた街路を指す用語だそうである。路傍には、松江に暮らし、日本の伝統的な美しさに魅せられて、多くの日本の古きよき時代に関する著作を残した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの足跡を辿る「小泉八雲記念館」もある。ここでは、彼の松江に至るまでの来歴や、松江での暮らしを示す多くの展示品が並べられており、それらを通して明治期の松江のようすを垣間見ることができるようであった。彼の著書についても丁寧に紹介されており、中でも、日本古くからの伝承や、日本の原風景、風土、季節感などが、実に細かな視線で語られた「知られぬ日本の面影」という一冊に、惹かれた。現代に暮らす私たちにとって、日本らしさがまだまだ健在だったと思われる彼の時代にあっても、多くの“日本らしい”事象が既に「知られぬ面影」になっていたのだろうか。そう思うと、現代にあってふんだんに静かさと落ち着きを残す松江の町の存在そのものを抱きしめたいと思うほど大切に、またいとおしくさえ思われるようである・・・。

真夏の太陽の光と熱をいっぱいに浴びて、宍道湖の湖面は持ちきれないほどの輝かしさを宿しながら、さざなみの1つ1つがえもいわれぬ色彩を内包した鏡面のようなグラデイションを呈しているようであった。一畑電鉄は、そんな真夏の宍道湖の北岸を、窓を前回にしながら、懸命に西を目指す。盛夏の日射は、出雲のこの地を、この上ないほどの光量と鮮烈さとによって、くっきりと、はっきりと、それでいて微妙な霞のニュアンスを含ませながら、描き出していて、車窓から乗客の都合も考えずに吹き込んでくる強烈な風の新鮮なエネルギーとともに、宍道湖と青い夏空を中心とした風景をいつまでも、どこまでも、盛り上げているようであった。ひかりあふれる、真夏の素晴らしい風景は車窓が湖から水田へ、小ぢんまりとした町並みへ、様々に変わっても、この一時にあっては、全くその力を減じることなく、ごく自然に、出雲の大地を席巻していた。

大社の町は、いかにも門前町といった佇まいのように感じられた。出雲大社への参道の町並みに隠れるようにある駅舎を出て、やや上り坂になっている道を歩いた。穏やかな門前の商店街は、程なくしてたおやかな松並木の美しい通りへと変わり、やがて、巨大な注連縄を伴った社殿を背景に、これまた大きな鳥居が威容を見せていた。神話の時代の頃から、日本の覇権を競った勢力の本拠としての香りを今に伝える風景として、しっかりと心に刻んだ。近年の発掘調査によって、この出雲大社の前身となった社殿は今よりもさらに巨大で、地上4階から5階伊達のビルディングの高さに相当するほどの、壮大な建造物であったことが明らかになっている。

山陰の夏
は、猛々しい。強烈な日光は、地上を、水面を、そして大空をすみずみまで満遍なく透過して、夏というかがやきのなかに、それらを塗り尽くしている。その一方で、ぎらぎらした日輪の下の町をはじめ、自然や大地や空などは、みないたって穏やかだ。自然を、当たり前のように、慈恵として、しずかに受け入れているように、感じられる。


山陰の夏 I

太陽から降り注ぐ光の幕は
大地を、水面を、水田を、町を、緑を、
そして地上に息づくさまざまな生き物たちを、
容赦なくその猛々しさの中に放り込んで
真夏のキャンバスの中へと描き出している

その炎天下の絵画の中にあって
この土地は、夏の色に穏やかに染まりながら
いっぱいに、体いっぱいに、その熱量を受けている
天よりあたえられたかがやきを
そのかがやきのままで、夏の風景を織り成している

そこにあるのは、雄雄しい夏の気候と
しずかな容貌をみせている山なみ、町なみ、
ぎらぎらとひかりをかえす水面のみであった


             (3) 夜明け

広島訪問、津和野、松江、そして出雲大社と巡る山陰めぐりを一通り終えた私は、出雲市駅発京都行きの夜行快速「ふるさとライナー山陰号」に乗り込んだ。列車は、米子から伯備線に入り、中国山地のあわいを進む。この頃はすでに夜中となっていたので、中国山地の景観を眺めることはできなかったが、暗闇の中にぽつりぽつりと点いている電灯のともしびが、中国山地のはざまの、のびやかな空気を象徴しているような気がして、この地域への憧憬をますます強く抱くこととなった。列車は、静かな夏の夜を迎える壮年期の山間を、淡々と進んだ。新見から岡山を経て、山陽本線を東へ。この間はほとんど眠りに落ちていたが、岡山駅に停車中に一時目が覚めたことだけは記憶している。時刻は午前2時30分頃ではなかったろうか。

朝焼けは、多くの人々にとって、見る機会が少ない風景なのではないか。もちろん、この時間帯から活動している人は多いが、多くの人々が活動している時間帯の出来事である夕焼けを比較すれば、格段に目にしている人口は少ないに違いない。私もご多聞に漏れず、早起きのほうではないので、朝日を拝む機会はそう多くない。こんな数少ない経験の中でも、この日体感した朝焼けの美しさは、まさに最大級のものであった。1994年夏、神戸の朝焼け。この約半年後にこの町にふりかかった惨禍を考え合わせると、ひとしおの感慨が残る、どこまでも美しい光景だった。このときほど、すごいと思った朝焼けには、いまだ出会っていない。

神戸駅を過ぎた頃(午前4時31分発。以下、時刻表示は当時の時刻表から引用した時刻を書き留めていた筆者のメモ書きによる)、既に周囲は明るくなり始めていた。周りは、大都市を象徴する、高層ビルがあちこちに屹立する風景で、当時の自分の目からは少々いかめしささえ感じさせるようなものであったようだ。明るくなってきているとはいえ、まだ空は一面濃紺で、もう少し視界が開けていたなら、あるいは星が夜空にまだ瞬いているのを確認できたかもしれない。やがて、さきほどまでの威勢のよさはどこへいってしまったのか、一転して町並みは穏やかになり、高層建築の数は明らかに減少してきた。海は見えなかったが、この頃の車窓からの眺めからは、神戸の山と海とが調和する佇まいが想起されるようで、次第に光量の増す朝の空気の中、神戸を象徴する事物の1つである六甲の山々も、どっしりと構えて、朝のやわらかな灯りを受けて輝いていた。濃紺の空に浮かんでいた秋刀魚の腸のような色をした雲立ちは、町が落ち着くにつれて、せまりくる東の空の果てのオレンジ色から力を与えられ、いっせいに空高く雄飛していく。空は、いや空を中心とした、車窓から見えるすべての空間は、驚くほどの変化をみせていったのである。

不思議なくらい、空はすっきりとしたレモン色に照った。早生のみかんのように若々しく、黄緑といってもおかしくないほどに、空が輝く。雲たちも、それに嬉しいくらいに応えて、青みがかった赤紫色から、朱色に近い明るさの色まで、多彩な色調を見せてくれている。空は、地平線に近い場所、赤橙色の沈殿がたゆたうなか、上空に向かうにつれて燃える赤になり、下半分が橙色にきらめく黒みがかった雲が浮かぶゾーンを経てとてもきれいな藤色になり、急ぎ去っていく夜が落としていった闇のかすかに燻る青へとうつりかわっていく。そのはざまに、夏の勢いの産物であるレモン色は猛々しく、目映い。黒くたなびく雲はそれに押されるように地平線に近づき、赤、紫、そしてオレンジといった色が混在する光の海を漂う。上空には、まだ切ない青色が残る。車窓は、芦屋あたりから西宮付近の住宅地を通過していたものと思われ、時刻は午前5時前後であった。

しばらくすると、いくつかの川を渡り、最後にひときわ幅のある川を越えた。いつの間に、町は再び膨大な密度を呈するようになり、大阪の町に入ったことを告げていた。外は、神戸市内を通過していた時に比べて格段に明るくなっていて、街灯の灯りも減ってきている。車内灯も夜間に光量を落として暗くしていたのだが、もとの明るさに戻した。窓の外を見やると、朝焼けはオレンジ色がいい役目をしていると感じた。オレンジ色や、さらに夏のエネルギーを受けたレモン色とが、朝の空の青色に活気を与えていて、この色のもつ穏やかさを絶妙に取り込みながら、活力漲る夏の朝の光景を形づくっている。魚の腸のようだと描写した、数十分前の雲たちも、上空にみごとにはばたいて、ゆたかな夏空にはえる輝かしい積雲へと見事に成熟している。列車は、程なくして大阪駅へと到着した。時刻は午前5時17分を回っていた。

神戸から、阪神間の大都市近郊の都市地域を経て、大阪に入るまでの約1時間の間に、空はドラスティックな色彩の変化を見せて、車窓の町なみをゆたかに、そして力強く照らし出していた。そして、その力強さは、とりもなおさず、この地域のもつ力そのものに他ならないのではないかとも感じていた。1994年夏、元気で、個性溢れる輝きを放った、美しい町が、そこには確かにあった。あの燃えるほどにたくましく、ひかりに満ちていた、朝焼けの光景の記憶とともに。


             (4) “覚醒

記録的な冷夏に見舞われた前年と打って変わって、1994年の夏は類を見ない猛暑であった。西日本はこの年、深刻な水不足に見舞われていたのではないかと記憶している。水流がほとんど枯れてしまっているかのように見えた川も、幾筋か確認した。このような尋常でない暑さの中にあっても、訪れた地域は、それぞれの特徴を見失うことなく、それでいてその夏の趨勢に抗うことなく、ポジティブに、なおかつひそやかに、季節の風を感じているように思われた。私はそのかがやきを失わない、地域の姿に確実に魅了されていた。
 原子爆弾による惨禍から見事に復興、成長し、平和の尊さを世界へ向けて発信し、その上、中国地方の広域中心都市としてパワフルな躍動をみせる広島市の強さは、何物にも替えがたい、日本の宝であるように思う。大学では仙台市などと並ぶ地方ブロックを代表する中心性を持つ都市と学習していたが、その規模、中心性、市街地の密度などは、仙台市のそれをはるかに凌駕するものであるように感じられた。7つの川が穏やかに市街地を流下するデルタに発達したこの街は、今後も自らに課せられた役割を積極的に果たしながら、更なる飛躍を見せてくれるに違いない。

山陰の大地は、夏空がよく似合う。おだやかな山なみ、ゆたかな水面、そして、どこか懐かしささえ感じられるまちなみ、それらすべてが夏の大空がもたらす明るさを受容している姿にこれ以上ない憧憬を覚えた。そして、逆にそうした夏色の造形が、山陰の大地みずからの穏やかさを引き立たせていることも見逃せない。津和野、松江、宍道湖、出雲大社の美しさや、夜半に列車の車窓から垣間見た山間部の集落のともしびさえにも、そんな夏の山陰の包容力のようなものを感じた。

そして、神戸。この旅程のクライマックスにおいて展開された、夏の日のある朝における短編映画は、この町の素晴らしさを余すところなく表現していた。夏の色と、町の色。複雑であるようで、それでいて実に調和のとれた美しい色彩が、この町をいっそう鮮やかに描写して、神戸という町への憧れを強いものにしていた。この約半年の後に、未曾有の大震災がこの町を襲った。今、この町は震災の痛手を少しずつ払拭しながら、真の復興へ向けて邁進している只中にある。自らの体験として震災を感じたわけではないが、神戸は着実に、未来へ向かっていると思っている。あの夏の朝に見た神戸の町の美しさこそ、このことを何より雄弁に物語っているのではないか、私はそう信じて疑わない。

この旅行は、私のとって初めての京都以西への訪問であった。夏の暑さの中で、これ以上ない西日本の姿と、西日本が語りかけるメッセージとを、感じることができたと思う。それを象徴するように、各地で百日紅(さるすべり)と夾竹桃(きょうちくとう)の鮮やかな紅色に出会った。百日紅も、夾竹桃も、夏の暑さや乾燥に強い植物である。暑ければ暑いほど、乾けば乾くほど、輝きを失わない、彼らの命の紅に、勇気づけられ、また印象づけられた。

彼らの花弁の1つ1つはとても小さな瞬きであるけれども、それらがまとまって、夏のいのちの輝きとして昇華する時。それは大地がこの上なく鮮やかに、また和やかに、夏の風景として結ばれる時である。季節はかがやきとなり、人々や大地の永遠の願いと重なって、ゆたかに、そして脈々と、この地域の歴史となって、紡がれていくことだろう。


随筆集「山陰の夏 I 」 −完−


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