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稲穂の色、潮騒の音
〜2007中国山地・山陰訪問記〜
2007年9月はじめ、中国山地から山陰の各地を彷徨しました。目に入るのは、たおやかな稲穂の大地、そして多くの情感に満ちた海の青でした。この地域が見せていた極上の輝きをストレートに感じながら、心の赴くままにYSKの見た地域を描写していこうと思います。 |
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中国山地のかがやき |
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2007年9月1日、前夜新宿駅西口を出発した夜行バス「エトワールセト号」は、最終目的地・JR三原駅前に午前8時に到着しました。私以外のすべての乗客は倉敷などの経由地で下車していました。広域合併により人口が10万人強となった三原駅前は、その人口規模以上に密度の高い市街地を形成しています。新幹線停車駅である三原駅は駅舎もファサードが大きく重厚感がある上に、ロータリーも広く確保されています。また、土曜日の朝ながら多くの路線バスが発着しており、バス停の広さに違和感が感じられません。西日本の都市は総じて中心性が高く、市街地の密度が高い印象を筆者は持っています。三原もその例外ではない雰囲気で、このことは山がちで平野が相対的に限られる中で市街地とその後背地という図式が比較的保たれやすい西日本の諸地域の特性を反映したものではないかと考えています。その点、平地が卓越し市街地化にこれといった障壁がなく、商業機能等が分散立地しやすい(そのために中心市街地の衰退が著しい例が少なくない)筆者の居住地域とは対照的な風景であり、羨ましくもあります。三原駅に程近い営業所でレンタカーを借りて、中国山地の只中へ出発しました。
三原市街地を北へ進みますと、程なくして道路は急勾配となります。山陽自動車道三原久井インターチェンジを経て土地はややなだらかになり、丘陵地域にそって集落が点在し、小凹地に水田が展開する風景が連続するようになります。なだらかな丘陵の緑、それに抱かれるような石州瓦の赤い屋根の家々、そして山と山のあわいを埋めるように展開する黄緑色の穂波。筆者が最も中国山地らしいと感じる風景のひとつです。三原市久井町を過ぎて小さな峠道となり、世羅町の中心地域へ再び下っていく途中、道路脇から俯瞰した世羅町の中心地域方面の風景は、そんな中国山地の盆地らしいやさしさに溢れた、たいへん印象に残るポートレートでした。 世羅町を過ぎて国道432号線を北上しますと、芦田川やその支流に沿った谷間を道は行くようになります。JR福塩線の鉄路も寄り添います。辿り着いた府中市上下町は「分水嶺の町」。中心市街地南のなんてことのない路傍に「ここは日本の背骨分水嶺地点です」と記された看板が立てられており、標高386メートルのこの地点より北は江の川水系で日本海へ、また南は芦田川水系で瀬戸内海へ、それぞれ水が流れ出すことが端的に表現されていました。上下という地名の起こりをこの分水嶺に求める説もあるようです。石見銀山からの銀の輸送路として栄えた石州街道沿いの中継地として、また備中・備後5万石を支配する代官所の置かれた天領として成長した上下の町並みは、白壁の建物があり、旧家の土蔵を改築した趣のある教会あり、大正期に建設された劇場の建物ありと、たいへんのびやかで美しいたたずまいを見せていました。
吹屋は、ベンガラの町として江戸後期から明治期にかけて全国にその名を知られた町です。ベンガラは酸化第二鉄を主成分とする朱色の顔料で、陶磁器の絵付け等に利用されます。吹屋は中国山地随一の銅山町として成立し、銅や鉄を産出した際の副産物として多量に採掘される鉱石からベンガラを人工的に作り出す技術が編み出され、ベンガラ産地として大いに発展しました。高梁市街地からほとんど集落の無い、細い山道を進んで突如現れた「朱色の町並み」は、そんな吹屋の繁栄がどのようなものであったかを雄弁に物語っています。ベンガラ格子に朱色の石州瓦の屋根の町並みは重厚ながらも飾らない落ち着いた雰囲気です。土壁そのものが朱色がかっている建物もあり、「たたら製鉄」以来鉱山と深い関わりのある中国山地の地域性へも想像力が掻き立てられます。たおやかな山並みに抱かれながら、往時の活気を今に伝える吹屋のベンガラ色は、現代においても色あせることなく、地域に根づいているように感じられました。 復元されたばかりの「備中櫓」が城壁の上に燦然と屹立する津山の町は、中国山地指折りの「大都会」です。津山城跡のある鶴山(かくざん)公園は桜の名所として知られ、春には全山が桜色に包まれるのだそうです。備中櫓から見下ろす津山の町は吉井川に向かって力強く展開していまして、岡山県北部の中心都市としての高い中心性を感じさせます。藩政期の城下町を基礎とした町並みは随所にその面影を残しています。鶴山公園はもとより、北に隣接する池泉回遊式の優美な庭園・衆楽園や、市街地東部、出雲街道に沿って続く昔ながらの町屋が軒を連ねる風景などからは、美作国の中心地としてこの町が保持してきた揺ぎ無い歴史性を存分に感じることができます。
ひそやかさのなかに風格を示す昔語りの町・根雨は、江戸時代に出雲街道の宿場町「根雨宿」として栄えました。松江藩の参勤交代のルートであったため、本陣も置かれた規模の大きい宿場町であったのだそうです。交通の要衝としての中心性のほか、「たたら製鉄」を基盤とした豪商も少なからず勃興していたようです。JR根雨駅は特急列車も一部が停車する伯備線の中でも主要な駅の1つです。切妻屋根の小ぢんまりとした駅舎の前には、比較的ゆったりとしたスペースが確保され、日野町役場庁舎と相対しています。根雨の町並みは現在でも日野町の中心市街地を形成しており、鳥取、島根、山陽合同の地元銀行が揃って支店を構えていることは特筆に価します。国道181号線のバイパスが大きく市街地を迂回して通過するため、街中を行く車両は少なく、ゆったりとした散策を楽しむことができます。日野川が蛇行するわずかな低地に成長した町並みは、緑の山々に抱かれながら、本当に奥ゆかしい姿を見せていました。本陣の門、日野町公舎、近藤家などの豊かな町並みが夏の日差しの下、しずかな佇まいを見せていました。家々の軒先に設置されていた水琴窟がすずやかな雰囲気を盛り上げていました。 三瓶山のやさしさに満ち溢れた山容を眺めながら、世界遺産登録に沸く石見銀山へと車は進みました。石見銀山のある大森地区は、「間歩(まぶ)」と呼ばれる坑道が集積しまさに鉱石発掘の場たる銀山の態様を感じさせる「銀山地区」と、銀山によって成長してきた銀山の外郭町を基礎として穏やかな町並みが展開される「町並み地区」とにおおまかに分けられているようです。双方のエリアを結ぶように「銀山遊歩道」のルートが設定され、石見銀山の歴史と景観とを楽しめるようになっています。私が訪れたときにはエリア間を周遊できるバスが運行されていまして、ウォーキングとバス移動とを適宜組み合わせながら、地域をめぐることができるようになっていました。坑道の一部に入ることのできる「龍源寺間歩」を見学後、銀山地区から町並み地区へとゆったりと散策しました。幕府の直轄地として代官所が置かれた大森は、武家屋敷や商家が混在しながら町並みが形成されていまして、銀山を中心にいかに地域が潤い、またいかに幕府がここを重視してきたかが偲ばれます。銀山の衰微とともに徐々にその中心性を弱めながらも近在の中心としての「かたち」を今に伝えているようなエリアではなかったでしょうか・・・。
中国山地をめぐる道筋は、特色ある町場に出会いながら、その雰囲気や歴史性、そしてそれらが現代に携えた穏やかさを心に刻むものとなりました。そして、これらの町並みの存在とともに、中国山地を美しい大地たらしめるものが、山のあわいに穏やかに展開する水田やそれらを見守るような集落、山並みのやわらかな佇まいであったように思います。たとえば上下における時代に磨かれた風情ある町並みを歩き、府中市街地、福山市北部、井原、高梁市街地と経て吹屋へ至る途上にあっても、井原市美星地区で見たたおやかな稲穂のたなびく輝きに満ちた風景は、本当に、本当に美しくて、思わず車を路肩に停めてしばらく見入ってしまうほどの感動を覚えました。水田の稲たちは一面に穂をたわませていまして、黄緑から藁の色へと移り変わる稲穂の色は、中国山地で営まれてきた時間の流れの尊さを凝縮させたきらめきを内に秘めているようでした。その光は、大地を、山並みを、穏やかな町並みを、川を、空を包み込んでいるように感じられました。 |
「山陰の鼓動」へ続きます。
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