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シリーズ・クローズアップ仙台
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#113 仙台市中心部の諸地域を巡る(3) ~市街地東部、地域に根ざした街路名~ 2019年12月18日は、仙台市中心部における、城下町時代から残る街路を訪ねる彷徨を続けています。仙台城下町の萌芽は、1601(慶長6)年に仙台城の構築が計画されたことであるといわれます。城と城下町はその後着々と建設され、1603(慶長8)年に伊達政宗は岩出山(現・大崎市)から仙台へ拠点を移しています。その後城下町は三度にわたって拡張されました。1628(寛永5)年は隠居後の政宗が晩年の居館とした若林城(現在の宮城刑務所)を中心に東南へ拡大、正保年間(1644~1648)から寛文年間(1661~1673)には北東方向へ伸張、そして延宝年間(1673~1681)には城下北方や東方の外縁部が町場となっています。後半に拡張された通りは、仙台市役所北側を東西に貫く「北一番丁」から北二番丁、北三番丁、・・・、のように割り出され、東方は東七番丁、東八番丁、・・・、のように確立していきます。いずれも武士の町であることから、要所を覗く街道筋には町人町があり、その他には武家地が広がるという、典型的な武家の城下町が形成されていたことが理解されます。
一番丁から北へ、現代の杜の都の象徴の一つである定禅寺通のケヤキ並木へと出ました。真冬の並木道は枝の一本一本がくっきりと天蓋を埋めていまして、半世紀以上にわたりこの場所で命の営みを続けてきた木々の生命力を具体的に確かめることができるように思えます。さて、現在の語感では、○○通りと言えばその道路そのものを指すことが一般的で、仙台における意味もまさにそのままのニュアンスで命名されているものがほとんどなのですが、最初に指摘した仙台城下町の通り名のポイントでは、○○通とは、「○○に通じる通り」であるとのことでした。つまり、本来は「定禅寺通」とは「定禅寺に通じる通り」ということであって、その定禅寺は明治初期まで今の勾当台公園の東、仙台合同庁舎の敷地に実在した寺院でした。明治の廃仏毀釈の風潮の中焼失した定禅寺は再興されず、隣接する仙台藩の藩校・養賢堂の建物が宮城県庁舎へ転用されるとともに、その旧境内は仙台における行政機関の用地へと移り変わりました。中町段丘と上町段丘の段丘崖が段差をつくる勾当台公園を横切り、県警本部南の通りを東へ進みます。県警本部東の通りは外記(げき)丁。武勇のあった藩士の名がその由来です。 その東を南北に貫く愛宕上杉通が、複数の通りを拡幅、連結して完成したものであることは既にお話ししました。その構成要素のひとつである上杉山通は、城下町時代は北一番丁以北に割りされており、やはり名掛丁(中央通り)が北端だった東五番丁とを接続するために、日吉丁や道路のない部分を幹線道路に変えて建設されました。イチョウが植えられた愛宕上杉通を北進します。上杉山通小学校は、北二番丁と北三番丁に挟まれた校地を持ちます。武家地に雑木林が混じりあう景観であったことを彷彿とさせる勝山公園のある通りは北四番丁で、地下鉄の駅名にもなっています。さらに勝山館のしなやかな建物の間を貫通する北五番丁を経て、かつて仙台城下を潤した四ッ谷用水の本流が今でも暗渠で流れる北六番丁へ。上杉六丁目交差点にはその四ッ谷用水に架けられていた上杉山橋の辻標が残ることも幾度となくご紹介しています。北側の旧東北大農学部跡は更地となり、その広大な用地の東半分は商業施設(イオンモール仙台雨宮)に、西側は広瀬町にある仙台厚生病院が新築移転する計画です。北側には2棟のマンションが建設されるようで、東側の「プラウドシティ仙台上杉山通」は既にかなり建築が進んでいました。北六番丁に面した部分にあった木は一部残されていまして、緑地として再利用されるのでしょうか。
この再開発用地の西側を南北に通じる通りは「堤通」です。これは北仙台駅近くの「堤町」に通じる通り、という意味です。通りに面して磐上雨宮神社が再開発用地に囲まれながら鎮座しています。再開発後もこの場所に祀られることとなるのでしょうか。現町名の「堤通雨宮町」も、堤通北部とこのお社に由来する雨宮という2つの町内会があったことから、それらを併称することとなったことに因むものです。堤通自体は昔ながらの狭隘な市道といった雰囲気なのですが、すぐ隣の幹線道路として拡幅された県道22号(旧国道4号)沿線における高層マンションの林立によって、地域のスカイラインも一変しています。まっすぐな堤通はやがてJR仙山線の踏切の手前で、西からやってくる旧奥州街道と合流し、「堤焼」の産地として知られた堤町へとつながっていきます。「堤町」の名は、現在も地域を流れる梅田川を堰き止めた堤があり、その上を奥州街道が通過していたことによります。JR北仙台駅が至近なこのエリアは、1994(平成6)年まで存在した本山製作所(大衡村へ移転)の跡地が再開発され、高層マンションが立地するなど、大きくその姿を変えています。高度経済成長期以前までは、仙台市街地の外縁であり、水田が広がるエリアであったそうで、隔世の感があります。 台原段丘から上町段丘へと遷移する段丘崖にはわずかに斜面林が残っていまして、また堤焼のギャラリーもあるなど、往時の雰囲気も残す堤町の現在を概観しながら、北仙台駅前を通って昭和町交差点へと進み、愛宕上杉通を再び南下しました。定禅寺通の勾当台公園以東の延長部分は、三陸方面へと進む国道45号の起点となっていまして、また駅前通りを介して仙台駅前へと進む通りは、南東へ原町方面へと続く国道とともに、かつての仙台市電の軌道敷でした。錦町公園前交差点の南西には、交差点名のとおり錦町公園があります。公園の西側にはNHK仙台放送局の新局舎が移転し、真新しいファサードを見せていました。公園の南側は、勾当台公園内から続く、上町段丘と仲町段丘との間の段丘崖が続いていまして、この付近に緩やかな坂道を形成しています。錦町公園の西側のとおりは大仏前(おぼとけまえ)。現存しませんが、通りに面して大仏堂があったことに因む地名です。その大仏前のとおりが突き当たる、東西にゆるやかなカーブを描く道路は、元寺小路です。かつては城下の北東の守りとして多くの寺院が配されたことによります。それらの寺院の一部は後に現在の新寺(若林区)に移されたため、そちらを新寺と呼んだのに対し、元祖寺町の意味を込めて「元寺小路」とされたもののようです。現代の町並みは、家具を商う商店の他、しゃれた飲食店や雑貨店なども並ぶ、現代的な雰囲気のエリアとなっています。
元寺小路の愛宕上杉通に突き当たった咲きの東側は、幹線道路となった広瀬通の一部となっていまして、これが仙台駅東側の都市計画道路元寺小路福室線の名の元となっています。広瀬通の、中央二丁目交差点とエックス橋交差点との間を、駅前通りに向かって北へ延びる細い通りは、茂市ヶ坂と呼びます。この坂も、咲にご紹介した上町段丘と中町段丘の間の段差を反映したものです。茂市という名の盲人が住んでいたことが由来という坂は、「仙台七坂」のひとつで、この一帯が「本町」という無機質な住居表示に統一される前までは、それは住所地名でもありました。すぐ東側の駅前通りを走っていた往時の市電も、この坂道を辟易するように越えていたのだそうです。市街地にありながらそうした長閑な光景が日常であったこのエリアは、エナジースクエアや花京院スクエアなどの超高層ビルが建ち上がって、その都市景観も大きく様変わりしています。 |
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