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瀬戸内、多彩な「都市」のすがた
〜2018年2月、御手洗、西条、岩国、そして宮島へ〜
2018年2月10日から11日にかけて、広島県から山口県の瀬戸内沿岸を訪れました。初春の空気を纏った穏やかな雨に濡れる島々、 そして冬の季節風の冷たさを残す晴天下の町並み、それらに彩られた、さまざまなかたちの「まち」の風景に、海とともに生きた地域の歴史を感じました。 |
錦帯橋 (岩国市横山二丁目、2018.2.11撮影) |
厳島神社大鳥居 (廿日市市宮島町、2018.2.11撮影) |
御手洗・七卿落ち遺跡 (呉市豊町御手洗、2018.2.10撮影) |
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大崎下島、御手洗(みたらい)へ 〜廻船交易で栄えた歴史ある町並み〜 瀬戸内の穏やかな風景に魅了されてから20年は経過していると思う。その後も幾度となく訪れた瀬戸内海の風光は、どこまでもたおやかで、揺るぎのない優しさに満ちていた。そうした瀬戸内が呈するしなやかさをより印象づけているのは、その美しい天然の表情に加えて、この海が我が国の交易上重要な位置を占めてきたという歴史によって形づくられた多様な町の存在である。2018年2月10日、広島市の東、酒造りの町として知られる東広島市西条に早朝到着した高速バスを降り、荷物をこの日投宿予定のホテルに預けて、山陽本線で大都会・広島へと向かった。広島市街地を散策した後、広島バスセンターを午前10時過ぎに出発する高速バス「とびしまライナー」に乗車し、瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の御手洗を目指した。
広島市内を歩いていたときから徐々に厚くなり始めていた空は、バスに乗車後から徐々に雨粒を降らせ始めて、女猫瀬戸(めのこのせと)に架かる安芸灘大橋にさしかかる頃までには、初春らしい、やわらかな雨が車窓を濡らすまでになっていた。バスは、瀬戸内海に浮かぶ島々を結ぶ通称「安芸灘諸島連絡架橋」を経由しながら、下蒲刈島、上蒲刈島、豊島を経て、大崎上島へと達した。バスは切り立った山が海に直接裾を濡らすわずかな低地に発達した集落を結んでいる。架橋は大崎上島からさらに東へ延びて、愛媛県の岡村島まで到達していて、これらの橋梁群の全体で「安芸灘とびしま海道」なる愛称が与えられている。橋はさらに北の大崎上島や、東方の大三島方面への延長も計画されており、瀬戸内科の島々と本土との時間距離はますます短縮されていることを実感する。御手洗は大崎下島の東端、岡村島に相対する位置にある港町である。バスを降り、雁木の残る波静かな港の風景を一瞥しながら、洋風の建物の隣の路地へ進み、その瞬間江戸時代の町並みへと誘われた。観光協会の入る「潮待ち館」でやや雨脚の増した時間をやりすごしながら、2月の瀬戸内の島を潤す雨音に耳を澄ませていた。 御手洗の歴史は、現在のこの町の慎ましやかな佇まいからは想像の及ばないほどに豪壮なものだ。藩政期、時代が安定するにつれて、いわゆる西廻り航路と呼ばれる廻船が行き来した交易はいっそう盛んとなり、瀬戸内海を進む要所に風待ちや潮待ちのための寄港地が発達していった。御手洗はそれらの波止場の一つとして1666(寛文6)年に、広島藩の許可を得て港湾として成立し、以後北前船による通商などが活発となり急速に成長、瀬戸内でも随一の規模を誇る港町へと昇華していくこととなった。商家に加えて、多数の遊女を抱える茶屋が軒を連ねる花街もまた発達して、鉄道交通が主流となる近代を迎えるまで、御手洗はその繁栄をほしいままにした。現在御手洗に残る町並みは、その栄華を極めた時代に起源を持つ重厚かつ洗練された佇まいそのものである。軒先には随所に春の花が飾られていまして、歩く人もほとんど居ない町をささやかに彩っていたのが印象的であった。常盤町とおりと呼ばれる、その初春の雨にしっとりと濡れる路地を歩きながら、御手洗の名の由来が分かる天満宮(天神神社)へ。菅原道真が太宰府へ左遷される途中でこの地で手を洗ったとの史実が伝わる神社は、境内の梅もわずかに花をほころばせていて、古代より続く交通の要衝であった瀬戸内の経過をも匂わせていたように感じられる。
レモンがたわわに実る町並みをさらに進むと、幕末に広島藩が倒幕諸藩との摂政を行ったとされる私邸や、江戸時代の茶屋であった若胡子屋跡の建物が残る一帯が広がり、まさにここが藩政期における濃密な交易の現場であったことを存分に感じさせる景色が連続していく。現在では貴重な歴史的景観として保全されるこうした人工物は積極的に保管されてきたというわけではなく、物流の急速な変容に伴って経済の中心から外れることによって、どちらかといえば「残ってしまった」ものであろう。しかしながら、多島海がつくるどこまでも長閑な風景の中に、昔を語りかけるような町屋や商家が島に寄りつくように存立している光景はとても希少で、優美なものであるように思われた。再び海岸に出て、七卿落(討幕派の公卿であった三条実美らが立ち寄った)遺跡や石灯籠、防波堤などが佇む眺望を確認し、背後の高台へと上って岡村島を目の前に望む海峡の風景を見下ろして、御手洗の彷徨を終えた。早春の雨に濡れる瀬戸内海は、本来であれば四国方面へも視界が広がっていたであろうが、間近の島々を覗いては穏やかな霞の中に烟っていて、その情景にかえって春のしなやかな季節感を感じ取ることができたように思われた。午後2時過ぎ、広島バスセンターへ戻るバスに乗る段になっても、柔らかい雨はまだ降り続いて、なめらかな瀬戸内の波打ち際にしとしとと雨滴を落としていた。 “酒都”西条・酒蔵通りの朝 〜三大酒造地のひとつ、赤煉瓦の家並み〜 春の雨に大地が潤されていた瀬戸内の島々を訪問した翌日は、宿泊していた東広島市西条の町を、朝のひととき散策することとした。広島市街地ではなくこの町を宿泊地とした理由は本来は別にあって、前日の行動の利便を考えて設定していたのだが、悪天候のためにその予定をキャンセルしたという経緯があった。結果として、酒造地として知られるこの町並みを歩くことができたことは、不幸中の幸いであったように思う。前日の雨が夜半雪に変わっていたのか、所々にうっすらと雪の残るJR西条駅前を出発し、「酒蔵通り」と呼ばれる、醸造元が集まるエリアへと歩を進めました。
西条は、灘・伏見と並び、「日本三大銘醸地」のひとつとして取り扱われる、屈指の酒造地である。旧西国街道沿いに発達した宿場町である四日市を起源とする町場では、近代以降酒造りが盛んとなり、本来醸造には不向きな中硬水を数々の工夫によりまろやかな日本酒を製造することに成功、西条は有数の酒どころとして発達する契機となっている。現在でもJR西条駅近くの旧街道筋に醸造元が集まり、赤瓦の民家が点在する町並みが保存されている。赤瓦は、西条が盆地に位置することから、夏の酷暑と冬の積雪に耐えうるよう生み出されたものである。現代の都市的な建造物の中に、昔ながらの赤瓦を載せた家々が混じり、さらにそれらの間に蔵元が軒を連ねる風景は、地域の歴史がそのまま豊かな都市景観として息づく典型例として、実に美しく目の前に展開していった。藩政期そのままの佇まいを残すもの、近代の洋風の建築物が瀟洒な印象を見せるものなど、この町が酒造りの地として長い歴史を歩んだことを何よりも雄弁に物語る光景は、朝の凛とした空気の中にどこまでも尊く存在していた。 それぞれの蔵元の前には、公開されている井戸水の筧が目に留まる。西条では酒造のために大規模に水を汲み出しているようで、地域を支えるそうした一大産業がつくりだす風景が、ひとつひとつその生業にダイレクトに結びついてのびやかな輝きを湿す様子こそ、土地が進んだ生き様のようなものを投影そのものであるようで、この上のない重要なアーカイブであるように感じられた。早朝の静かな空気の中、前日からの雨雲がわずかに残る鈍色の空の下、西条の町はどこまでも静謐で、上質な気概を秘めているようであった。旧四日市宿の本陣跡(半直営の宿駅として「御茶屋」と呼ばれた)に復元された正門の結構を一瞥しながら、うっすらと濡れる石畳の小道をJR西条駅前の方向へと戻った。この西条の地を含む西条盆地は、古来より穀倉地帯として存立し、安芸国の中心的な都邑として機能していたという。やがて広域的な中心は藩政の拠点たる広島へと移ったが、そうした地勢的な中枢性の「よすが」のようなものがこの西条の地で絶妙に反応して、今日の姿を醸成しているのではないかとも思われた。
東広島市は、その市名が示唆するように、最大の市街地は西条であるものの、昭和の大合併時に一定の規模を持つ複数の町が対等合併することによって成立した、複核的な新しい都市である。さらに平成の大合併においてもさらなる広域合併を経験し、現在では西条と並ぶ広島における酒造地として知られる安芸津エリアもその範域に加えて、内陸から瀬戸内海沿岸までを包含する広い市域を持つまちへと変化している。JR山陽線における広島大都市圏への結びつきや、広島大学の移転、隣接する三原市本郷町に所在する広島空港の存在なども相まって、都市的な部分と農村・山村的な文化とが穏やかに交錯する町が形成されている。JR西条駅から前日に引き続き再び広島方面へと進む車窓からは、西から徐々に日射しを浴び始める風景を燦然と望むことができた。赤煉瓦の煙突からゆっくりと立ち上る、豊潤なきらめきをたたえた白煙とともに。 岩国城下町を歩く 〜日本三名橋・錦帯橋とその周辺〜 岩国市は山口県の最東端に位置しており、広島駅から岩国駅までは在来線で約50分の所要と、経済圏的には岩国は広島のそれに包摂されている。県域全体をカバーする強力な都市勢力圏が存在せず、複数の都市が拮抗して都市圏を形成するのは山口県の経済圏の特徴の一つであるが、岩国は県境を越えて広島とのつながりが強いという、もうひとつの特質を備えた地域であると言える。この日の夜に広島駅から夜行高速バスで帰ることにしていたことから、まだ訪れたことのない岩国城下町と錦帯橋への交通手段は、広島バスセンターから頻発している高速バス利用が最も効率的と判断し、荷物を広島駅のコインロッカーに置いて広電で市中心部にあるバスセンターへと向かった。
岩国市における著名な観光地ともなっている錦帯橋は、現在の岩国市の中心市街地であるJR岩国駅からはやや離れた位置にある。岩国市を貫流する錦川を遡ることおよそ4キロメートルほどの場所がそれにあたっている。藩政期、長州藩の支藩として存立した岩国領の陣屋とその城下町は錦帯橋を挟んだ地区に存在しており、岩国駅のある一帯は「麻里布」という岩国の範域外の地域であった。近代以降、山陽本線等の主要な幹線道路が麻里布エリアを通過し、昭和に入ってからは沿岸に軍関係の施設や基地が設けられて中心性が向上したことに伴い、1940(昭和15)年に岩国、麻里布を含む地域が合併、岩国市が発足、麻里布エリアが岩国市における中心市街地となった歴史を踏まえる必要がある。近年は高速道路や新幹線がこの本来の岩国エリアの至近を通過するようになっているものの、岩国エリアが旧城下町と錦帯橋を中心とした、観光と歴史的風土を指向する傾向に大きな変化は認められないようである。高速バスは当然のことながら高速道路を経由するため、終着の岩国駅へ向かう前に錦帯橋前のバス停に到着する。こうした事情も、時間を有効活用の観点から高速バスを選択させる方向へとはたらくこととなった。 錦帯橋のバスセンターは、錦川の左岸、まさに錦帯橋の東詰に程近い場所につくられていた。川沿いの県道を渡ると間もなく、五連のアーチが印象的な錦帯橋の躯体がまっすぐに目に入ってきた。川幅の広い錦川を跨ぐためしばしば洪水の被害に見舞われてきた橋は、強固な橋台の上に鮮やかなアーチ状の形状とすることで流失のリスクを抑え、1674(延宝2)年にほぼ現在の形状に近い形となって再建された後、修理を繰り返しながら1950(昭和25)年の台風による破壊まで270年以上もの間地域をつなぐ橋として存続してきた。曲線を描くため、直線距離では193.3メートルであるが、橋面に沿った長さでは210メートルの距離が生じる。橋の袂で往復分の入橋料を納めて、6.6メートルの高さがあるという橋台の上の橋を渡った。木造の橋から見下ろす錦川の流れは穏やかで、冬の季節風の冷たさがまだ残る晴天の日射しをやわらかくその水面に受け止めていたのがたいへん際立っていた。周囲の山並みのスカイラインと錦帯橋の曲線とのコントラストもどこまでも目に快い。
橋を渡った先は、藩政期に岩国領の陣屋として、ローカルな政庁が置かれていた地区にあたる。山城であった岩国城(横山城)は江戸時代に入り棄却され、現在山上には模擬天守が建設されている。その山の麓、かつての陣屋の置かれた地区は「土居」と呼ばれ、一部に内堀や長屋門、武家屋敷などが現存して、藩政期の面影を残してる。土居の遺構全体としては、かつてこの場所に校舎を構えていた岩国高校の敷地であった区画と合わせて都市公園「吉香(きっこう)公園」として整えられて、市民や観光客らの憩いの場として供されている。岩国城の模擬天守へはロープウェイで向かった。山頂からは錦帯橋の架かる岩国城下町の町並みを眼下に収めながら、錦川の蛇行する流れがわずかな平地を形成する先に、まるで鏡のようにしずかにたなびく瀬戸内海と、水面にいくつも浮かぶ島々が春の霞の中にしっとりと佇む風景を眺望することができた。 再び吉香公園へと下り、岩国の歴代藩主である吉川氏を祀った吉香神社や、白山比刀iしらやまひめ)神社、そして内堀の櫓跡に明治に入り建造された錦雲閣、昌明館付属屋及び門(吉川家七代経倫の隠居所遺構)などの建造物をめぐりながら、基地の町としての印象とは対角にある、歴史的な風情が濃厚な本来の岩国の雰囲気を味わった。吉香公園の西側の山裾には紅葉谷公園と呼ばれる穏やかな木々に包まれた一角があり、いくつかの寺院が慎ましやかに樹冠の下に佇んでいた。吉川家の墓所もあって、藩政期における城下の景色がしなやかに残されて、往時を生きた人々の息づかいが聞えてくるような叙情さえ感じた。洞泉寺(とうせんじ)は、吉川氏歴代の菩提寺で、境内には樹齢300年を超える臥竜の梅。まだ冷たい空気にさらされながらも、枝の先に可憐に咲いた一輪の梅が、間近の春を報せてくれていた。
錦帯橋を再び渡って、下級武士や町人の住まう町であった、バスセンターのある錦川左岸の町並みへと戻る。吉香公園を中心とした、かつての土居のエリアは政庁並びに上級武士の居住した地域で、横山と呼ぶのに対し、対岸のこの地区は錦見(にしみ)と呼ばれている。緩やかに円弧を描く錦川の流れの内側は整然とした区画となっており、その構造は江戸時代から大きな変容はないのだという。その格子状の町割りの町並みを歩くと、随所に歴史を感じさせる町屋や武家屋敷を彷彿とさせる邸宅などもあって、伝統的な江戸期の城下町の姿をとどめていた。この地域の氏神である椎尾八幡宮 (しいのおはちまんぐう)は、1626 (寛永3)年)、藩主吉川広正による建立と伝わる。社殿へと続く石段を上り、俯瞰する家並みは、これまで歩を進めてきた岩国そのままのたおやかさを呈していて、しなやかな山並みのつくる風景の中にきれいに横たわっていた。 自然と信仰の島・宮島へ 〜厳島神社と弥山原生林、季節の移ろい〜 錦帯橋周辺の穏やかな岩国の町並みを散策した後はバスで現代の岩国の中心たるJR岩国駅へと進み、そのまま山陽線を利用して宮島口駅まで乗車した。山陽線のこの区間を利用するのは、おそらく学生時代、当時暮らした仙台から普通列車のみを乗り継いで九州へと進んだ時に遡ると思われる。岩国市から県境を越えて大竹市へと進む沿岸は重化学工業地帯となっていて、背後に迫る厳島の島影と好対照をなす風景は、その10年以上前に車窓から見た時の感傷と何ら変わることのない新鮮さに満ちていたように思う。宮島(公称としては「厳島」)はこれまで何度か訪れているが、JRと宮島松大汽船のふたつの航路が高頻度でフェリーを運航する光景はもはや日常となっていて、世界遺産として内外から多くの人々を惹きつける神域の今を改めて実感させた。
本州と厳島とを隔てる海峡は「大野瀬戸」と呼ばれる。かき養殖の筏も多く見られるその海域はとても穏やかで、遠望する厳島神社の大鳥居の足許を徐々に水面の下へと誘おうとしていた。岩国の町並みを歩いていたときから続いていたのだが、この日は冬型の気圧配置が強まっていたようで、晴天を基本線としながらも、時折北側から薄い雲が流れ込むと日が陰るというような陽気となっていて、季節風の風速もやや強めの一日であった。空から降りる日の光の光量が変化する度に、海の色彩もそれに呼応するように輝きの度合いを変えていく。古来より信仰の島として崇められ、原生林が多様な植物相を見せる厳島は、そうした自然の造形を易しく受け止めながらも、その神々しい山体をどっしりと目の前に構えているように感じられた。島影は時に春色に照り、モノクロの水墨画の中に溶け込み、また乳白色のヴェールに包まれながら、冬から春へと移り変わる時間軸の中で、実に多様な姿を、船上から見せてくれていた。 2月の連休の最中の宮島は、名産のかきを大々的に取り扱う「かき祭り」が開催されていて、普段でも多い観光客が、この日はさらに膨らんでいたように感じられた。フェリーターミナルから海岸沿いに進む厳島神社の参道を歩きますと、静かな波打ち際の向こうに高度にベッドタウン化が進んだ対岸の風景が重なるが、その現代的な景色もこの日は時折冬の寒気を含んだ薄雲に覆われていた。大鳥居は干潮時には間近にまで歩いて行くことができ、市尾がだんだんと満ちゆく中で、改めてその大きさを俯瞰し、世界遺産・厳島神社の社殿へ徒歩をすすめた。満潮時には海水が入り込む回廊を辿りながら、大鳥居を望む平舞台へ。その刹那、空がみるみるうちに鈍色へと移り変わって、雪が舞い始めた。日本海側から中国山地の脊梁を越えて流れ込んだ一瞬の冬の情景は、その場面を切り裂くように降り始めた日光によって再び遮られ、またもとの青空が頭上を温かく染めた。神社を出て、傍らを流れる御手洗川沿いには満開を迎えたロウバイがあり、微かに芳香を漂わせていた。
厳島神社からは、秋には紅葉で美しく染まるであろう紅葉谷川のつくる谷筋を登り、宮島ロープウェーの紅葉谷駅へ。ここから少人数のユニットが巡廻する方式と、多人数を載せるゴンドラが交送する方式とを併用するロープウェイからは、暖帯林から針葉樹林まで、多様な植物相を呈する弥山の原生林の様子を概観することができる。弥山(みせん)は、古来より信仰の対象として崇敬されてきた歴史は既に触れた。ロープウェイの終着駅である獅子岩駅周辺は小規模なピークとなっており、展望台が設けられ瀬戸内海の風景を眺望することができる。ここから弥山の山頂まで大小の岩石が随所に露出する山道を30分ほど進む必要がある。その途上は、弥山原始林と呼ぶ、瀬戸内における極相林としてのしなやかな森と、花崗岩からなる山体を反映した巨石のある風景が続き、そのトレイル数多くの人々を惹きつけた霊的な自然景観を満喫することができる行程である。弥山本堂に隣接する霊火堂には、「消えずの火」と呼ばれるろうそくの火が灯され続けており、幾星霜の時を超えて承継された祈りの光は驚くほど繊細さに溢れているように感じられた。 山頂にある展望台は午後4時で入場できなくなるため、時折急登となる山道をその頂へと急いだ。浸食されやすい花崗岩からなる厳島の地質を象徴するように、いくつもの奇岩により構成される頂上の展望台からは、麓の厳島神社周辺の町並みから対岸の市街地を経て広島市街地へと続く眺めをはじめ、江田島をはじめとした瀬戸内海の多島海の美景を余すところなく見通すことができる。その風景に寄り添うように輝きを見せる弥山原始林の光景は、いまだ冬の寒さを溶け込ませた夕景に滲む幻想的な肖像の神々しさも相まって、この島が瀬戸内、さらにはこの島国全体に向けて放つ極上の情景をつまびらかにさせてあまりあるものであった。
山麓に戻り、幾度とない土石流に見舞われてきた紅葉谷の砂防施設を庭園風に設えて、実利と修景を両立させたことでも知られる一帯を辿り、五重塔や千畳閣、穏やかな町並み、そして数時間前まではそのたもとまで多くの人々が訪れていた大鳥居を満ちた海の上に眺めながら、桟橋へと戻り、フェリーで対岸へと帰りました。瀬戸内海の島々と酒蔵の町並み、小京都然とした城下町の美観と、瀬戸内の海と山を介した多様な都市の姿を訪ねた今回の訪問は、改めて文化的、そして経済的にも我が国における大動脈として機能してきたこの圏域のすごみを実感させるものとなりました。 |
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