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2015年11月21日、中国山地の山中、たたら製鉄の里を彷徨した私は、その後中国道などを経由して瀬戸大橋の袂にある景勝地・鷲羽山展望台へとやってきました。時刻は既に夜7時を回り、眼前の瀬戸内海は闇に包まれていました。その中を瀬戸大橋の主塔とメインケーブルが闇夜を突き抜けるように光の列を形づくっていました。そのラインの先には四国側の街明かりもあって、夜景をさらに魅力的なものにしていました。陸上交通手段の飛躍的進歩の前、長らく大量輸送手段の主軸は水上交通が担っていました。その主要な舞台のひとつであった瀬戸内海の上を鮮やかに横切る瀬戸大橋の姿は、瀬戸内の美しい風光もあいまって、その新旧のマストランジットの共演をダイナミックに描き出していました。
その日はレンタカーを借りた岡山駅前に戻って車を返却、新幹線と在来線を乗り継いで兵庫県西端の都市・赤穂へと向かい宿泊しました。赤穂と言えば、忠臣蔵の舞台としてあまりに有名です。藩政期の赤穂はこの赤穂事件で知られる浅野家をはじめとした複数の藩主が治める、瀬戸内に面した城下町でした。現在の赤穂は、兵庫県西部にある小地方都市といった風情で、その一方京阪神方面からは新快速列車で直接到達することのできる大都市圏域の最外縁部を構成する地位委という側面も持ちます。JR播州赤穂駅前は大規模店舗が集積する商業地と言うよりは、この町を訪れる人々を純粋に迎える玄関口という機能に徹しているような慎ましさが、かえって猥雑すぎず、良質な旅情を誘うような風景であるように感じられました。
お城通り交差点の傍らには、「息継ぎ井戸」と呼ばれるつるべ井戸があります。1701(元禄14)年に起きた江戸城松の廊下における刃傷事件を受け、藩士が江戸から早駕籠で4日半かかって赤穂に到着、この井戸で水を飲み登城したという伝承があります。交流広場と名付けられた小スペースから南の市街地には城下町時代の町割りを反映した田町筋や花岳寺通りといった路地の佇まいもあり、徐々に古い町並みが往時を思い起こさせる景色へと移り変わっていきます。花岳寺は元禄事変後は歴代藩主の菩提寺となっていた古刹で、義士三十三回忌の際に彫刻された四十七士の木像が安置されています。門前はまさに昔ながらの商店街と言った印象で、忠臣蔵に関係した史跡としてここを訪れる人々を多く歓待していることが想像されました。
赤穂城は1648(慶安元)年から13年の歳月をかけて建設されたという、変形輪郭式の平城です。堀に突き出すように大手隅櫓があり、石垣が精悍な意匠を見せていまして、財政規模が限られる中で丁寧に時間をかけて築城した経緯が偲ばれます。大手門を入り、枡形を経て三の丸の武家屋敷が立ち並んでいたエリアへと進んでいきます。郭内には近藤源八宅跡長屋門や大石邸長屋門が残されていまして、武家地の態様を今に伝えていました。赤穂浪士を祀る大石神社を訪問した後は、二の丸そして本丸へと進みました。復元された城門や再整備が行われた本丸庭園などがあって、藩政時代の藩庁としての姿が少しずつ整えられようとしている姿を確認しました。 |
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