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四国遍歴、河谷と海岸の悠然
〜2014年冬、四国を巡る〜


 前半からのつづき
脇町の町並み、そして室戸へ

 冬の雨はその夜中降り続いていて、徳島の町を濡らしていました。翌朝まだ水分を含んでいる路面を踏みしめながら歩いた徳島市街地は、城下町の佇まいを残しながらも現代都市として成長した輝きにあふれていました。天気は急速に快方に向かい、市内でレンタカーを調達し眉山山頂にある眉山公園を訪れた頃には晴天になって、まだわずかに霧に霞む市街地を美しく俯瞰することができました。吉野川の悠然とした流れ、その三角州に発達した市街地、小松島市との境界をなす日峰山(ひのみねさん)へと視線を移しますと、低く昇った太陽の日差しが眩しく目に入りました。瞬くように流れる吉野川の中流域と、きらめくような太平洋の先にある地の果てを、この日は目指そうとしていました。

徳島市街地俯瞰

眉山から望む徳島市街地
(徳島市眉山町、2014.12.29撮影)
日峰山を望む

眉山から日峰山を望む
(徳島市眉山町、2014.12.29撮影)


吉田家住宅
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
脇町

脇町、出格子のある風景
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
虫籠窓と井戸

虫籠窓のある町屋と井戸
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
脇町

脇町・南町の景観
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)

 美馬市脇町は、徳島県北部を貫流する吉野川の中流域の左岸川に発達した都邑です。脇町は古くから吉野川に沿って徳島方面へ進む撫養(むや)街道と、讃岐街道との交点にあたる交通の要衝でした。徳島藩初代藩主蜂須賀家政が阿波に入封された際、筆頭家老の稲田氏にこの脇町の整備を担当させ、吉野川の水運を生かした阿波藍の集散地として発展した経緯があります。南町と呼ばれる一角に重厚な町屋造の家並みが続いていまして、1988(昭和63)年に国の伝統的建造物群保存地区」の指定を受けて、古い町並みの保存が積極的に行われています。平入で二層の切妻造の町屋が軒を連ねる風景は、藍の商売で財をなした往時の繁栄を感じさせるにあまりあるものでした。そして、その栄華を象徴しているのが、その豪奢な商家に付属している「うだつ」の存在です。

 うだつ(卯建)とは、隣家との境界に取り付けられた土造りの防火壁のことです。本来は火災の延焼抑止という実用的な構造物であるうだつですが、やがて裕福な商家が富の象徴として競ってその華美を競うようになり、家屋の装飾としての意味合いが強くなっていきました。そうした「うだつ」が多く上がる風景は、すなわち脇町がいかに経済的に興隆していたかを示すものであるというわけです。虫籠窓や出格子、蔀戸などの、町屋の特徴的な構造についても表示板で丁寧な説明がなされていまして、その質実剛健な風情と共に、江戸時代の商業都市の空気を心ゆくまで堪能することができました。

市観光文化資料館

美馬市観光文化資料館
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
卯建

卯建(うだつ)
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
吉野川

吉野川
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
吉野川

吉野川、沈下橋が見える景観
(美馬市脇町、2014.12.29撮影)
ゴロゴロ浜

ゴロゴロ浜
(高知県東洋町、2014.12.29撮影)
室戸岬

室戸岬
(室戸市室戸岬町、2014.12.29撮影)

 脇町の繁栄は明治期に入り繭や生糸も取り扱うなどして続きました。町並みの一角には旧脇町税務署の建物をモチーフに再現した擬洋風の建築である観光文化資料館もあって、そうした歴史を伝えていました。卯建の町並みを見学した後は、町の南のほど近いところを流れる吉野川の堤防へと進みました。四国三郎の異名を持つ吉野川は、四国山地へとつながる山々の裾をなぞるように、悠然とした流れを目の前に見せていました。振り返りますと先ほどまで歩いていた脇町の家々の屋根が見えていまして、舟運と結びついた町場の姿を実感させました。谷底平野の只中に、豪華な意匠をふんだんにちりばめた町屋が立ち並ぶ市街地を形成していた脇町は、相当に目立つ存在であったことでしょう。領内にこうした都市を抱えたことが、徳島市街地の発展の礎にあったことは想像に難くありません。現在に続く伝統産業の多くが、こうした藩政期における諸藩の産業振興策にその源流を持ちます。現代の地域発展を見通す上でも、こうした歴史に学ぶことも多いのではないかとも感じられました。

 一方、眼前を悠々と行き過ぎる吉野川を見ますと、四国全体の地形の特質にも思考が進みます。高知県の北部に源を発する吉野川は、直線的には土佐湾の方が近いところを、わざわざ四国を横に穿つように東へ流れ、徳島へと流れていきます。高知県内に目を移せば、四万十川も海に近い場所を通過しながらも内陸川に迂回するように進み河口へ進む流域を持っています。これは地殻の動きで南北方向に圧縮するような力が働いているため山地が基本的に東西方向に発達する四国では、東西方向の方が浸食が容易なためで、こうした地形的な特質が急峻な山地を構成し、阿波、讃岐、伊予、土佐という、個性的な地域を生む要因となりました。

室戸岬灯台

室戸岬灯台を望む
(室戸市室戸岬町、2014.12.29撮影)
室戸岬

室戸岬周辺の散策路
(室戸市室戸岬町、2014.12.29撮影)
室戸岬

室戸岬・アコウの木
(室戸市室戸岬町、2014.12.29撮影)
太平洋

太平洋岸の風景
(室戸市内、2014.12.29撮影)

 脇町訪問後は、再び徳島市へ戻り、レンタカーを一路南へを走らせました。徳島県中央部は険しい山間部となっており、これから向かおうとしている室戸岬へ向かうには、遠回りのようでも一度徳島市を経由して沿岸を進んだ方が早いとの判断からでした。徳島までは高速道路も利用できるため、この日の内に高知市内でレンタカーを返却する予定にしていたこともありました。徳島県は、吉野川河口付近に比較的広大な平野が広がるほかは、概して山がちな地形が広がる県域を持ちます。こうした地形的な特徴はひとえに前述した、地殻変動の影響によるものですが、そうした特質は沿岸部の随所に風光明媚な風景を生み出しまして、国道55号を進む行程を、そうした太平洋を望む風景と、わずかな平地に発達した町並みと、山間に分け入るときのみずみずしい山肌の色彩とに交互に出会えるものにしていました。徳島駅を出発して沿岸部を並行して進むJR牟岐線は、徳島県最南の海部まで通じており、その先も阿佐海岸鉄道によりわずかに高知県に入った甲浦(かんのうら)まで通じていますが、高知県側へは直通することはできませんでした(高知側は奈半利まで列車が通じています)。

 午前11時少し前に脇町を出て、高知県東南の太平洋に着き出した室戸岬へ到着したときには時刻は午後2時30分近くになっていました。室戸岬へ車を降りたとき、まず最初に空気の暖かさに驚かされました。海は春のようなかがやきを呈したマリンブルーを呈して宝石のようなきらめきを秘めた日の光をいっぱいに受けていまして、海岸段丘をつくる背後の山並みはどこまでもみずみずしさに満ちた亜熱帯性の植生に覆われ、冬らしい寒さだった高松から徳島までの行程とはその気温が一転していました。室戸世界ジオパークにも認定される岬周辺は奇岩も多く、散策路を歩きながら、温暖な空気と雲ひとつ無い穏やかな空と、透明感に満ちた海とに抱かれながら、一足早い春を満喫しました。


吉良川

吉良川・いしぐろの見える町並み
(室戸市吉良川町、2014.12.29撮影)
吉良川

吉良川・水切り瓦の見える風景
(室戸市吉良川町、2014.12.29撮影)
吉良川

吉良川の路地風景
(室戸市吉良川町、2014.12.29撮影)
御田八幡宮

御田(おんだ)八幡宮
(室戸市吉良川町、2014.12.29撮影)
吉良川

吉良川の田園風景
(高松市、2014.12.29撮影)
桂浜

桂浜の夕景
(高知市浦戸、2014.12.29撮影)
坂本龍馬像

桂浜・坂本龍馬像
(高知市浦戸、2014.12.29撮影)
JR高知駅

JR高知駅
(高知市栄田町二丁目、2014.12.29撮影)

 室戸岬への散策後は、土佐湾岸を北へ、高知方面へと車を走らせました。途中、脇町と同様に重要伝統的建造物群保存地区の指定を受ける室戸市吉良川(きらがわ)地区に立ち寄りました。吉良川町は、藩政期より林業が盛んで、これを背景とした木炭(備長炭)生産が発展し、それらを扱う商家や回船問屋が集積して町場が形成された歴史があります。小規模ながら、そうした歴史を感じさせる平入の町並みが穏やかに残されていまして、「いしぐろ」と呼ばれる、台風に備えた石垣塀や、横から降りつけるような雨から家屋を守るために壁面に3段から5段水平に突き出した瓦の庇である「水切り瓦」、この地域独特の「土佐漆喰」など、随所にこの地域ならではの意匠を確認することができました。海に向かってゆるやかな坂道を上った先の御田八幡宮からは、やわらかな町並みと太平洋の水平線、そして背後のたおやかな山並みや田園風景を眺望できました。


松山市街地・道後周辺概観

 徳島から脇町、室戸を経て冬から春の空気に身を委ねながら進んできた12月29日は、その後も高知県内を西へレンタカーを走らせて、午後5時15分過ぎ、ようやく高知市内の桂浜へと到着することができました。その間には、促成栽培のビニルハウスやいくつかの小都市群の様子などをフロントグラス越しに確認し、高知県東部の地勢を概観しましたが、室戸市吉良川町を除いては、土地を歩くことはかないませんでした。1999年3月以来の桂浜は、次第に夕闇に包まれる中で訪れている人も少なく、白砂青松の美しい砂浜の先にオレンジ色に変わりつつある空をしばし眺めました。高台にある坂本龍馬像はおだやかに、海の彼方を刮目していました。桂浜に立ち寄った後は、高知市街地へ入りレンタカーを返却、高知駅前に進み、松山行きの高速バスを待ちました。1999年に訪れた時とはその構造を一変させた高知駅は、2008(平成20)年に高架化され、より現代的な駅舎へと生まれ変わっていました。バスは高知道から松山道へと進み、松山市中心部の大街道バス停で下車、そこからほど近い投宿先へと向かいこの日の活動を終えました。

大街道

大街道周辺の景観
(松山市大街道二丁目、2014.12.29撮影)
勝山町電停付近

勝山町電停付近
(松山市一番町一丁目、2014.12.30撮影)


道後商店街入口
(松山市道後湯之町、2014.12.30撮影)
道後温泉本館

道後温泉本館
(松山市道後湯之町、2014.12.30撮影)


道後周辺の景観
(松山市道後湯月町、2014.12.30撮影)
石手寺への県道沿い

石手寺への県道沿いの風景
(松山市道後姫塚付近、2014.12.30撮影)

 松山は人口51万人あまり、四国で最大の人口規模を持つ都市です。高松が四国の玄関口として本州とのアクセス性において相対的に優位にあるため、四国を統括する中枢管理機能は高松市を志向する傾向があるものの、松山にもそうした機能の一部は立地していまして、高松と共に四国を代表する準広域中心都市であるといえます。町の中心の丘陵上に築城された松山城を中心に発達してきた城下町であるとともに、日本三古湯のひとつとして古くから開かれた道後温泉でも知られます。12月30日は、昼前に広島へ向けて出航するフェリーに乗船する予定にしていまして、それまでの間、可能な限り松山市街地を回ってみることにしていました。

 最初は、午前6時より開館している道後温泉へ向かいます。松山市街地は伊予鉄道による路面電車が路線を延ばしていまして、その一部は郊外へも連絡しています。そのため、それらの路線が修練する松山市駅が、JR松山駅よりも多くの利用があり、実質的に市の中心駅として機能しています(四国全体でも、松山市駅は最多の乗降者数を誇ります)。その路面電車を利用して道後温泉駅へ向かい、アーケードとなっている商店街を抜けて、重要文化財指定を受ける道後温泉本館へと到達しました。時刻は7時30分を回る頃でしたが、この時間帯でも多くの人々が訪れていまして、入浴を楽しんでいました。

石手寺・山門

石手寺・山門
(松山市石手三丁目、2014.12.30撮影)
石手寺・三重塔

石手寺・三重塔
(松山市石手三丁目、2014.12.30撮影)
石手寺

石手寺
(松山市石手三丁目、2014.12.30撮影)
松山市駅前電停

松山市駅前電停
(松山市湊町五丁目、2014.12.30撮影)
松山市駅

松山市駅
(松山市湊町五丁目、2014.12.30撮影)
松山銀天街

松山銀天街入口
(松山市港町四丁目、2014.12.30撮影)

 温泉街の雰囲気を楽しみながら南へ進み、穏やかな水路と柳の木が配された県道沿いを東へ、四国八十八ヶ所霊場第五十一番札所である石手寺(いしてじ)へ。728(神亀5)年に聖武天皇の勅願により安養寺として創建後、813(弘仁4)年に石手寺と改められたとされます。当時の領主河野伊予守息利(やすとし)の長子の髪信貴いしじへ翌29日の早朝、この日の行動を始める前に、まだ薄暗い靄に包まれるような徳島の市街地を散策しました。ホテルのある新町地区から北へ、眉山ロープウェイの山麓駅を兼ねる阿波おどり会館の前を通って、その北側の息方(やすかた)が出生後三歳まで弘法大師筆の「衛門三郎再来」と書かれた小石を左手に握っていたと伝えられていることが寺名の由来とされます。国宝の山門(仁王門)をはじめ、本堂など重要文化財指定を受ける事物も多く、歴史ある佇まいを伝える境内では、新年を迎える準備が進められていました。

 道後温泉駅から再び路面電車を利用し、先述した市内最大のターミナルである松山市駅へと進みました。構内には市内観光の目玉のひとつでもある「坊ちゃん列車」(蒸気機関車を模したディーゼル機関車で牽引する路面電車)が停留していまして、観光客の視線を受けていました。駅ビルはいよてつ高島屋の店舗となっていまして、屋上の観覧車がランドマークとして目を引きました。駅付近には「まつちかTOWN」と呼ばれる地下街があるほか、東側には松山銀天街と呼ばれるアーケード商店街があって活気ある繁華街を形成していました。銀天街はその東端で大街道商店街と接していまして、松山市を代表する一大ショッピングゾーンを構成しています。大街道を北へ歩を進めますと、電車通に面して三越やホテルが立地していました。



松山銀天街
(松山市湊町四丁目、2014.12.30撮影)
大街道商店街

大街道商店街入口
(松山市湊町三丁目、2014.12.30撮影)
大街道商店街

大街道商店街
(松山市大街道一丁目付近、2014.12.30撮影)
松山城

松山城
(松山市丸之内、2014.12.30撮影)
松山城から見た中心市街地

松山城から見た中心市街地
(松山市丸之内、2014.12.30撮影)
松山観光港

松山観光港フェリーターミナル
(松山市高浜町五丁目、2014.12.30撮影)

 大街道から北へさらに町並みを進みますと、松山城へ上れるロープウェイとリフトの乗り場があります。広島港と結ばれる松山観光港は市の郊外に位置するため、そこへ向かう時間をにらみながらの駆け足の訪問となりましたが、松山城へと登城して、眼下に広がる松山市街地を俯瞰することができました。観覧車を載せた特色ある松山市駅周辺を軸として高層建築物が集まる中心部を囲むように、松山平野を埋める市街地は、温和な瀬戸内の気候そのままの柔和な雰囲気を持っているように感じられました。

 高松から徳島、高知、そして松山へと、それぞれに特色のある市街地や山並み、海の風景をめぐってきた今回の四国周遊は、脊梁たる四国山地を背景に各が豊かな文化と色彩を成熟させてきた4つの地域の姿を十二分に溶け込ませた風土に寄り添うものであったように思います。そうした道のりの中で特に印象として残ったのは、吉野川の河谷や室戸岬周辺で感じた海岸がどこまでも悠然とあってこの大地を支えているといった感慨でした。自然と都市とが軽やかに隣り合い輝く大地を後にした高速船は、波穏やかな瀬戸内海を進み、対岸の広島へとさっそうと航海を始めていました。

 四国遍歴、河谷と海岸の悠然
〜2014年冬、四国を巡る〜
-完-


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