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四国遍歴、河谷と海岸の悠然
〜2014年冬、四国を巡る〜

2014年末に、四国地方を久しぶりに巡りました。
高速バスで高松に入り、金刀比羅宮へ、そこから徳島、室戸岬を回り高知、松山へと進む行程の中で感じたことは、
都市と山間部、沿岸部が多様な姿を見せる、四国のありのままの美しさでした。


新町川の景観
(徳島市東船場町二丁目、2014.12.29撮影)


道後温泉本館
(松山市道後湯之町、2014.12.30撮影)

訪問者カウンタ
ページ設置:2017年12月30日


高松市街地と金刀比羅宮再訪

 2014年12月28日、前日東京を出発した高速バスで到着した高松駅前は、薄曇りの空の下にありました。この日は冬らしい冷え込みの朝を迎えていまして、瀬戸内の温暖な印象の高松も漂う空気が冷たかった記憶があります。瀬戸大橋ができるまでは本州の宇野駅との間を結んでいた「宇高連絡船」へのアクセスのため、高松駅は岸壁に向かい合う形のいわゆる「終着駅」の体をなしています。同航路が廃止された現在でも、徳島、高知、松山方面への特急列車の起点となっている高松駅は、四国最大のターミナル駅として機能しています。駅周辺は「サンポート高松」として再開発され、シンボルタワーやホテルをはじめ、周辺離島などへの航路が集約する高松港とも融合したリノベーションが行われています。

JR高松駅

JR高松駅
(高松市浜ノ町、2014.12.28撮影)
サンポート高松

サンポート高松の景観
(高松市浜ノ町、2014.12.28撮影)
海水池

海水池
(高松市浜ノ町、2014.12.28撮影)
玉藻公園

玉藻公園・水門
(高松市玉藻町、2014.12.28撮影)
玉藻公園

玉藻公園・艮櫓
(高松市玉藻町、2014.12.28撮影)
高松港

高松港・桟橋から屋島を望む
(高松市サンポート、2014.12.28撮影)

 高松駅に隣接して高松城跡があります。1559(天正16)年に生駒親正が築城、藩政期は徳川光圀の兄松平頼重が藩主となり江戸時代を通じて同氏11代の居城となりました。北は瀬戸内海に面し、その他三方は海水を引き入れた堀を巡らせた、日本三大水城のひとつとしても知られます。城跡は1955(昭和30)年に高松市の「玉藻(たまも)公園」として解放されています。公園の名前は高松城の異称玉藻城に由来しています。駅前にはこうした海とのかかわりで存立した歴史を踏まえ、海水を引き入れた、その名も「海水池」が整備されていまして、瀬戸内の情景を再現しています。

 香川県の木と花に指定されるオリーブがしなやかな姿を見せる駅前から、中央通り(国道30号)を渡り、日の出(午前7時)より開門している玉藻公園へと進みました。史跡高松城跡として国の史跡指定を受ける公園内は、月見櫓・水手御門・渡櫓や艮櫓などの重要文化財指定を受ける藩政期からの遺構も残り、堀や石垣などの構造物も相まって、城跡としての往時の姿を生かした庭園としての美観に満ちていました。屋根付きの鞘橋を渡った先には天守閣跡があって、天守台からは瀬戸内海とつながる水城として知られた公園内を一望することができました。園内の松並の先にはサンポート高松の現代的な町並みが広がって、城下町から近代都市へと飛躍した高松の歴史を存分に感じることができました。披雲閣(旧松平家高松別邸)と庭園を見学しながら、高松港周辺の風景を確認した後、高松琴平電気鉄道(琴電)高松築港駅から琴平へと向かいました。ホームは高松城の石垣や内堀に接しており、海とつながる堀には海水魚も棲息していることなどを説明する表示がなされていました。

琴電琴平駅

琴電琴平駅
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
高灯籠

高灯籠
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
大宮橋と鳥居

大宮橋と鳥居
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
表参道・石段

表参道・石段
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
一之坂鳥居

一之坂鳥居
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
大門

大門
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)

 讃岐平野を南西方向に縦断する列車でおよそ1時間10分ほどで琴電琴平駅へ到着しました。小規模な寺院風の駅舎に隣接して金刀比羅宮北神苑と呼ばれるスペースがあり、木製では日本で最も高い灯籠(高灯籠)があります。東讃岐が発願し多くの寄進を集めて1860(万延元)年に完成を見たもので、頑強な石積みの上に立つ灯籠は高さ約27メートル、灯籠の火は遠く丸亀沖の船舶にも届くよう設計されたと伝えられます。これから向かう「こんぴらさん」の名で親しまれる金刀比羅宮は、海上交通の守り神として広く信仰されています。この巨大な灯籠の存在も、こんぴらさんに対しいかに多くの人々が篤い信心を抱いていたかを示しています。

 こんぴらさんを訪れるのは、1999年3月以来です(拙稿「四国、春の踊る場所」参照)。香川県の中央やや西寄り、象頭山(ぞうずさん)の中腹に鎮座するこの神社へは、土産物屋などが立ち並ぶ表参道から数えて785段もの石段を登り詰めなければたどり着くことができません。琴電琴平駅が面する大通りは東に近接するJR琴平駅からまっすぐにつながっていまして、その通りが金倉川に架かる大宮橋のたもとには大鳥居が建てられていまして、列車を利用し訪れる参詣者を迎えていました。なお、JRと琴電のほか、琴平へ向かう鉄路は最盛期にはもう2路線が存在していたというのですから驚きです。大宮橋を渡り、突き当たった昔ながらの町並みが残る商店街を左へ歩きますと、こんぴらさんへの表参道にたどり着きます。表参道沿いには虫籠窓と白壁の町屋の建物も多く残っていまして、今も昔も参拝客の足音が途切れることがなかったであろう歴史を偲ばせていました。

大門からの俯瞰風景

大門前から参道を望む
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
掲載の参道景観

境内の参道景観
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
石段

石段と奉納された石燈が続く
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
石段

本堂へ続く石段
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
金刀比羅宮

金刀比羅宮
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
讃岐平野眺望

本殿から讃岐平野を眺望(中央の山は飯野山)
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)

 表参道は数段から十数段ほどの石段を登ってはゆるやかな坂を進むという形で土産物街を続いていきますが、およそ100段を数える場所に一乃坂鳥居があり、傍らには、1844(天保15)年に、岡山の講により奉納された重要有形民俗文化財「備前焼狛犬」があります。この鳥居からは「一之坂」と呼ばれるやや急な坂へと移り変わります。沿道には1858(安政5)年に備後国(現在の広島県)因島浦々講中の寄進により建設された灯明堂があり、内部には釣灯籠が設置されています(こちらも重要有形民俗文化財)。そして、365段の石段を登りますと、ようやく二層入母屋造・瓦葺の壮麗な大門へと至ります。先に紹介した高松藩初代藩主松平頼重の寄進によります。大門からは俗を離れ、その内部は神域となります。大門の周辺にも寄進されたたくさんの灯籠が並んでいました。大門を背に振り返りますと、表参道沿いの商店街の家並みの彼方に、なめらかな山容の山々に囲まれた讃岐平野を見通すことができました。

 神域に入ってからは、寄進された夥しい数の石燈が並ぶ参道を、300段近い石段を上りながら歩を進めました。広葉樹に照葉樹が混じる社叢は暖地系の植生を反映していまして、温和な讃岐の風土を思わせました。琴電琴平駅を出てからおよそ50分、やっとのことで本殿前まで到達することができました。この日は薄曇りで遠方の見通しが十分でなく、手元にある写真を確認しても天気がよいときは視認できる瀬戸内海や瀬戸大橋は判別できませんでした。しかしながら、讃岐富士と呼ばれる飯野山の独特な姿を始め、降水の少ない気候を反映した「溜め池」が多く存在する讃岐平野の眺望は存分に展望することができました。およそ15年ぶりに参拝したこんぴらさんに、地域の安寧と無事を祈願しました。


琴平の町並み

琴平の町並み
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)
JR琴平駅

JR琴平駅
(香川県琴平町、2014.12.28撮影)


高松市街地・アーケード商店街(田町)
(高松市田町、2014.12.28撮影)
瓦町駅

琴電・瓦町駅を望む
(高松市南新町、2014.12.28撮影)
栗林公園・飛来峰からの眺望

栗林公園・飛来峰からの眺望
(高松市栗林町一丁目、2014.12.28撮影)
栗林公園の景観

栗林公園の景観
(高松市栗林町一丁目、2014.12.28撮影)

 金比羅山からの帰路は、鳥居前町として成長し繁栄を維持してきた、琴平の町並みの中をJR琴平駅まで歩きました。一之橋を渡りますと、金刀比羅宮と共にあった人々の息づかいや温かさが染みこんでいるようなアーケード街が続いていました。広くはない通りいっぱいに建てられた鳥居をくぐって、寄棟の簡素な作りと車寄せの三角屋根が美しい擬洋風建築のJR駅へ。高松駅へ戻り、随一の規模を誇るアーケード街を抜けて訪れた栗林公園は、降り出した雨の中、「木石の雅趣が日本三名園よりも優れる」と評された、極上の庭園美を曇天に霞む紫雲山の下で見せていました。


徳島市街地、眉山の麓に広がる町並みを歩く

 高松と琴平とを彷徨した活動を終え、JR高松駅から特急列車に乗り、徳島へと向かいました。香川県の東部はこの訪問時点までは未踏の地で、車窓からの眺望だけとはなりましたが、高松の郊外や屋島の山容、穏やかな瀬戸内海に向かって開けたのびやかな田園風景をしばらく眺めていました。列車は県東端の引田を過ぎてからは急激にその高度を上げた鉄路に従って讃岐山脈に分け入り、吉野川流域の徳島県へと進みました。都道府県境の多くは令制国時代の境界線を踏襲していますが、讃岐と阿波を分かつ山脈はまさに障壁のように立ちはだかっている印象で、この「国境」が1000年以上もそこにあり、現代でも運用され続けている理由を見た思いがしました。列車は四国三郎の名を持つ大河吉野川を渡り、徳島駅へと到達しました。

JR徳島駅

JR徳島駅
(徳島市寺島本町西一丁目、2014.12.28撮影)
眉山

眉山を望む
(徳島市東大工町、2014.12.29撮影)
阿波おどり会館

阿波おどり会館
(徳島市新町橋二丁目、2014.12.29撮影)
錦竜水

錦竜水
(徳島市寺町、2014.12.28撮影)
寺町

寺町の景観
(徳島市寺町、2014.12.28撮影)
新町川

新町川
(徳島市西船場町四町目、2014.12.28撮影)

 都市にはその町の顔となるランドマークが似合うように思います。都市の発達にはいくつかの端緒があって、交通の要衝であるとか、広大な後背地を持つとか、前日訪れた琴平のように著名な史跡や観光地などに寄り添う立地であるとか、人々が集住することによるメリットが生じる場所に市街地が形成され町並みができあがります。幹線道路を作る際、遠方の目立つ山を基準にしたり、中心に特徴的な建造物を置くことはよく行われていることで、一見して都市基盤とは直接的には関係の無いそれらの「アクセント」が多くの都市において認められることは、やはり本能的に都市に生きる住民がそれを必要としていることを意味しているのでしょう。徳島の場合、それは眉山(びざん)にあたります。広い流域を持つ吉野川の河口部にあって、美しい山並みを見せる眉山が寄り添う徳島の町は、まさにその場所になるべくして成った都会であるといえるのかもしれません。多くの商業施設やホテルなどが林立する駅前から延びる大通りは、まっすぐに眉山を登るロープウェイの駅までつながっています。

 徳島に到着した28日の夕方は雨が本降りの状態になっていまして、市街地の散策や眉山への登頂には生憎の天気となっていました。駅前の商業地や、伝統的な商店街でアーケードもある新町地区などを一瞥しながら投宿先のホテルへ向かいこの日の活動を終えました。

そごう前

国道192号・そごう前
(徳島市藍場町一丁目、2014.12.29撮影)
新町橋通りの景観

新町橋通りの景観
(徳島市元町一丁目、2014.12.29撮影)
元町交差点

国道192号沿いの都市景観
(徳島市元町一丁目、2014.12.29撮影)
徳島城跡・鷹の門

徳島城跡・鷹の門
(徳島市徳島町城内、2014.12.29撮影)
徳島城跡

徳島城跡・堀の景観
(徳島市徳島町城内、2014.12.29撮影)
徳島城跡から眉山を望む

徳島城跡から市街地、眉山を望む
(徳島市徳島本町一丁目、2014.12.29撮影)

 翌29日の早朝、この日の行動を始める前に、まだ薄暗い靄に包まれるような徳島の市街地を散策しました。ホテルのある新町地区から北へ、眉山ロープウェイの山麓駅を兼ねる阿波おどり会館の前を通って、その北側の寺町へ。城下町では城下の一角に寺院を集約し、有事の際の防衛拠点とするなどの施設配置がよく行われますが、徳島城下においてもその役割は同様であったようです。初代藩主蜂須賀家政が城下町を建設するにあたりこの一帯に6宗派24の寺を置いたもので、2013(平成25)年現在は23の寺院があって、眉山の風景の中に落ち着いたたたずまいを見せています。眉山周辺には湧水群があって、市民の飲み水としても利用されてきました。そのなかのひとつである錦竜水(きんりゅうすい)の水場が寺町にあります。徳島城下町は吉野川が形成する三角州の右岸側、眉山と城山に挟まれた小河川が流れる中州(内町(うちまち)地区と呼ぶようです)に位置しており、水の確保の面でも水運の面でも、また防御の面でも町を作るのに適した場所であったのでしょう。寺町の静かな景観の中を進みながら、徳島の町のことについて、思いを巡らせました。

 寺町から新町川を渡って国道192号を進み、徳島そごうが入る駅前再開発ビル前の元町交差点に架かる歩道橋より駅前周辺の景観を望みます。前述のとおり駅前から眉山山麓までを貫く道路は現代的なビル群の向こうに眉山の山容を望む、まさに町の玄関口としてふさわしい修景が施されています。中央分離帯には椰子の木が植えられていまして、訪れる人に南へ来た高揚感を与えています。駅周辺と国道192号に沿って集中する高層建築物群は、圏域中心都市としての中心性を存分に感じさせました。幕藩時代、徳島は日本でも十指に入る人口を擁する城下町であったことはあまり知られていません。中心市街地の密度に、藍産業で存立した都市の往時を重ね合わせました。

城山

城山
(徳島市徳島本町一丁目、2014.12.29撮影)


徳島市役所前、JR牟岐線の列車
(徳島市徳島町城内/幸町一丁目、2014.12.29撮影)
新町川

新町川・両国橋より
(徳島市東船場町二丁目、2014.12.29撮影)
籠屋町

籠屋町のアーケード街
(徳島市籠屋町二丁目、2014.12.29撮影)
紺屋町

紺屋町の町並み
(徳島市紺屋町、2014.12.29撮影)
両国橋

両国橋付近の景観
(徳島市両国橋、2014.12.29撮影)

 国道を東へ進み、徳島駅から東進するJR牟岐線をアンダーパスで越えて徳島中央公園へ。城山を中心に徳島城が置かれていた場所で、現在はその城跡を中心に都市公園として供用されています。徳島城は1585(天正13)年に先述した蜂須賀家政により、北(助任川)と南(旧寺島川、現在のJR線路敷)を川によって画された天然の要害である城山に築城されました。東側には堀を建設し防御としています。公園の入口には鷲の門が1989(平成元)年に復元されており、堀割や石垣の佇まいも相まって、城郭としての風致を残しています。城主が暮らし、政庁として機能した表御殿の跡地には市立博物館が建設され、傍らには庭園も保存されて、藩政時代の文化を今に伝えています。

 国道に架かる歩道橋から、城山の姿と、中心市街地のビル群越しに眉山を眺望しました。江戸時代は城山を中心とした藩庁とそれを取り囲む武家屋敷地区、新町川沿いに町人地といった市街地構成をとっていた徳島の町並みは、現在よりもより水辺と山に寄り添うような町場としての風景が目に入るのだろうと想像されました。徳島市役所近くの歩道橋で再び牟岐線の鉄路を越えたところ、ちょうど気動車の車両が通過していきました。徳島県は47都道府県で唯一「電車」が走らない県としても知られていることを思い出しました。その後は両国橋で新町川を渡って、紺屋町や東大工町周辺の歓楽街や商業集積地域を通りながらホテルへと戻りました。紺屋町の広く作られた通りは阿波踊りの演舞場のひとつとして設計されたものであるようで、その道路の広がりはさながら祭りの熱気を帯びているようでした。

 後半へつづく


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