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#11 尾花沢市から東根市へ 〜銀山温泉と地域の小中心をめぐる〜 2015年10月17日、山形県北部をめぐるフィールドワークは新庄市内の諸地域の訪問を終えて、さらに南下、猿羽根(さばね)峠を超えて内陸中部の村山地方へと至りました。大半の水田は刈り入れが終わっていましたが、一部に黄金色の稲穂が残っている場所があって、そのきらめくような穂波の向こうに、山頂部がうっすらと雪化粧した鳥海山を望むことができました。
村山地方最北の尾花沢市に入ってからは針路を東へとって、奥羽山脈の山懐に大正ロマン漂う旅館街が形成されていることで知られる銀山温泉へと向かいました。川からはやや高い位置にある駐車場からは、道路を下って銀山川に沿って展開する温泉街へと下っていきます。時刻は午後2時前でしたが、山間の湯治場は徐々に山の影が下りてきていまして、頭上の明るい青空とのコントラストが印象に残りました。中央を流れる銀山川の両側に、大正末期から昭和初期にかけて建てられたという木造多層の旅館が軒を連ねていまして、温泉街としての風情を存分に感じさせながらも洋風に設えられた旅館は、まさに「和モダン」を感じさせるぬくもりに溢れていました。 銀山の名は、その名前のとおり、この場所にかつて銀山が開かれたことに由来しています。1456(康生2)年に銀鉱が発見されたという伝承が残り、江戸時代初期には「延沢銀山」として採鉱が最盛期を迎えました。しかし、1647(正保4)年より産出量が減少、1671(寛文11)年までには閉山同然となり、その後は以前より湧出していた温泉を利用する湯治場へと転換していきました。温泉街を抜けて川を遡りますと、清流に沿ってかつての銀山跡の遺構が残ります。晩秋の山は鮮やかに色づき始めていまして、最大で2万人ほどが居住したという銀山としての歴史に思いを馳せました。
銀山温泉周辺の自然を体感した後は、銀山温泉も属する尾花沢市の市街地を概観しました。日本最北の幕府代官所としても栄えた尾花沢の町並みは、羽州街道の宿駅としての基盤を感じさせながらも、松尾芭蕉がおくのほそ道の行程の中でおよそ10日間も逗留したという史実も相まって、在郷の中心集落としての穏やかな風景に包まれていたように感じられました。尾花沢での滞在期間中、芭蕉が7日間宿泊したと伝えられる養泉寺の西側には坂道があって、その西側に広がる水田の向こうには鳥海山の山容を望むことができました。 朝方の濃霧に視界を遮られた光景からは一変して穏やかな晩秋の陽気に恵まれた山形探訪の最後に訪れたのは、東根市の龍興寺沼公園周辺でした。「東根城址の郷」として一体的な整備がなされている一帯には、山形県内でも有数の古さを誇る「善光寺の鐘」や、樹齢1500年以上ともされて日本一ともされる歴史をもつ「東根の大ケヤキ」といった事物があって、いにしえ時代への思いを馳せることのできる景色が連続していました。東根の大ケヤキが根を張る場所は東根小学校の校内で、ここは1347(正平2)年に小田島長義が築いた東根(小田島)城後にあたります。周辺には酒造元の建物や寺院が残り、城郭の堀を承継する池が豊かな自然景観を構成していまして、美しい歴史文化的景観を演出していました。東根の大ケヤキは東根城築城前からこの地に根付いていまして、今日も地域を見守っていました。
晩秋の山形は、実に多様な表情を見せながら、それぞれの地域において個性豊かな姿を見せてくれいたように思いました。地域を巡りながら感じたことは、各地域が独自の特性を生かしながら、存立して発展のために尽力した即席の上に成り立っているという輝かしい物語の存在でした。 |
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