Japan Regional Explorerトップ > 地域文・東北地方 > とうほくディスカバリー・目次
←#12のページへ | #14のページへ→ | ||||||||
#13 福島県浜通り・新地駅の周辺を歩く 〜復興と地域を見つめる〜 2016年12月24日、この月の10日に震災以来5年9ヶ月ぶりの運転再開となった、JR常磐線の区間に乗車し、福島県沿岸部・浜通り地域の北端に位置する福島県新地町の新地駅を訪れました。冬の太平洋岸らしい晴天と、季節風の吹く気候の下、旧所在地から内陸側に移設された大規模な工事によって新築された駅舎は、真新しいシルエットを冬空に隣り合わせていました。
JR常磐線は東北線の岩沼駅から太平洋岸へ分岐し、宮城県の沿岸部と福島県の沿岸部(浜通り)を連絡する幹線路線として、地域の重要な足として機能してきました。2011年3月の東日本大震災により発生した大津波により、宮城県と福島県の県境を挟む区間で駅舎が流失するなどの甚大な被災を受けて、一部区間を内陸に移設し、地域の再開発計画と一体化した路線の再建が進められていました。新地駅の周辺でも、交流施設や防災拠点などを建設する震災復興事業が駅の周辺に計画されているようで、新しく整備された駅前ロータリーの周辺には広大な区画整理用地が広がっていました。駅前から国道6号へと進むアクセス道を歩きますと、程なくして急な下り坂へとさしかかります。津波被害を想定し、駅周辺がかなりの高さで盛り土がなされていることによるものと思われました。 内陸には、阿武隈高地北部の穏やかな山並みが遠望できます。道の両側は広大な田園地帯で、海を望む低地がこうした山々から豊かな水の涵養を受けて、水田として利用されてきた経緯を確認することができます。水田として利用される低地は、阿武隈山地から続く丘陵が浸食されて形成されたもので、その沖積地を取り囲むように内陸から張り出した丘陵性の台地上には瑞々しい森があって、その台地の縁に沿って集落が形成される風景は、我が国にあっては一般的に認められる農村地域における土地利用の形態を反映していました。交通量の多い国道6号を横断し、そうした台地の際にある集落の方向へ歩を進めました。「新地城址」の標識を見つけ、家々の間を上る坂道を辿ります。台地上には、戦国期(1566(永禄9)年頃)に、戦国武将相馬氏によって築かれたと伝えられる新地(蓑首)城址の遺構を説明する表示が掲げられていました。伊達氏と相馬氏との抗争の場となっていたこの城柵は、浜通り地域にしばしば認められる、小丘陵上に設けられた防衛拠点のひとつであるようでした。はるか昔の城跡の高台からは、眼下の集落の家並みと、彼方に広がる田園風景、そして茫洋たる太平洋を一望できました。
下りの列車で再び仙台方面に戻る予定にしていたので、新地城址の標識にもう1つ書かれていた右近清水(平成の名水100選)へは向かわず、新地駅へと戻りました。津波被災に備えて高架になっている新地駅周辺の鉄路の様子を遠望しながら、近い将来、このまちの新たな賑わいの拠点となっているであろう駅周辺の風景を想像しました。 |
|||||||||
←#12のページへ |
#14のページへ→ |