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奄美大島・星空の下の小宇宙(シマ)

 2016年8月、奄美大島と加計呂麻島を訪れました。残暑の中、数々のこの地域らしい風景に出会うことができました。あまたの星が輝く星空の美しさに触れながら、魅力にあふれた「しま」(奄美大島では集落のことをこう呼びます)の集合体である奄美大島の素晴らしさに触れる道筋となったように思います。

大島海峡の夕日

油井岳展望台から見た大島海峡の夕日
(瀬戸内町阿木名、2016.8.26撮影)
夜空

大浜海浜公園の夜空(夏の大三角)
(奄美市名瀬小宿、2016.8.25撮影)
訪問者カウンタ
ページ設置:2016年10月10日

笠利から名瀬へ

 航空機の窓の向こう、島影は唐突に現れました。羽田空港を飛び立ち、鹿児島空港で乗り継いだ航空機からは、桜島や開聞岳、屋久島などの島々がとてもよく見えていました。屋久島の西側を通過してからは、しばらく大海原とそこから沸き立つような雲、屈託のない青色を見せる大空との連続でした。やがて航空機はその島に着陸するためにそれらのなめらかな青や白に別れを告げて緩やかに旋回し、海岸に寄り添うように建設されている空港に降り立ちました。


奄美大島上空

奄美空港着陸前、笠利町節田付近を撮影
(奄美大島上空、2016.8.25撮影)
さとうきび畑

笠利半島西海岸、さとうきび畑が見える風景
(奄美市笠利町地内、2016.8.25撮影)


笠利崎灯台
(奄美市笠利町用、2016.8.25撮影)


笠利崎灯台付近の海岸風景
(奄美市笠利町用、2016.8.25撮影)

 奄美大島の面積は約712平方キロメートルで、これは主要四島や北方領土を除けば、沖縄本島(約1,200平方キロメートル)、佐渡島(約855平方キロメートル)に次ぐ面積です。人口は6万3千人あまり(2015年現在)で、鹿児島と沖縄の中間に位置する奄美群島(奄美大島から与論島にかけての島々の総称)の中心的な位置を占めています。ここで、奄美群島の歴史を簡単に跡付けておきます。8〜9世紀ころまでは、階級社会以前の共同体が形成された時代であり、奄美ではこの時代を「奄美世(あまんゆ)」と呼んでいます。その後、奄美は按司(あじ)という首長たちが構成する階級社会に移行していき、この期間は「按司世(あじゆ)」と呼ばれます。1400年代に入ると、奄美群島は南の琉球王朝の支配下に入るようになり、「那覇世(なはゆ)」の年代へ進みます。さらに、藩政期に至って、1609(慶長14)年に薩摩藩・島津氏の征縄役の結果、奄美群島は琉球から分割されて薩摩藩に直属することになり、1871(明治4)年の廃藩置県を迎えるまで約260年間の長きにわたり封建制度による統制の時代を経験することとなります(この時期は「大和世(やまとゆ)」と称されます)。なお、第二次世界大戦後に、1946(昭和21)年に日本本土から分離されて米国軍政府下に置かれ、1953(昭和28)年に本土復帰するという経緯を経ています。

 奄美空港は島の北西部、奄美市笠利町の沿岸部を埋め立てて建設されています。奄美大島の土を踏んだのは2016年8月25日。日本の遥か南海上を西進していた台風10号の遠い影響で、空港周辺は風が強く、晴天ながらも時折スコールのような通り雨が路面を濡らしていました。笠利地区は奄美大島の北東端、西接する龍郷町との間の地峡部を挟んで突き出す半島状の地形の上にあります。なお、同地区は2006(平成18)年3月に旧名瀬市、旧住用村と合併し現在は奄美市の一部となっていまして、同じ奄美市内ながら、旧名瀬市域とは龍郷町を間に挟んだ飛地となっています。空港近くでレンタカーを調達し、丘陵が海に迫るような半島の西海岸を回って、島の最北端の笠利崎へ。切り立った断崖の上に建つ笠利埼灯台(現地では、地名から「用岬の灯台」の名で親しまれている)の袂からは、コバルトブルーからアクアブルーに輝く大海原を快く眺望することができました。

あやまる岬

あやまる岬
(奄美市笠利町須野、2016.8.25撮影)
あやまる岬

あやまる岬付近の海岸風景
(奄美市笠利町須野、2016.8.25撮影)
土盛海岸

土盛海岸
(奄美市笠利町宇宿、2016.8.25撮影)
さとうきび畑の景観

さとうきび畑の景観
(龍郷町赤尾木、2016.8.25撮影)

 笠利崎を後にして、この地域屈指の景勝地である「あやまる岬」へ向かうべく、県道を南へドライブを進めました。東海岸は海岸段丘による平坦な地形が広く展開していて、さとうきび畑としてその多くが利用されています。奄美大島は、米軍基地が多く残りその影響が濃厚な沖縄本島とは対照的に、手つかずの自然や昔ながらの文化が多く残されていることが魅力の一つであるように思います。あやまる岬は、そんな自然と文化とを濃密に感じさせる場所です。あやまる岬という不思議な語感の地名の由来は、この岬周辺の、綾織の手鞠のようななだらかな地形にあると伝えられています。遥か沖の台風の影響から波が高く、海岸付近のリーフが作る浅瀬には激しい白波が立っていましたが、海は青空の色をいっぱいに受けてどこまでも青く、南国の長い夏の色彩をどこまでも表現していました。

 笠利崎からあやまる岬を経て海岸沿いを進む県道は、のびやかな丘陵地帯を抜け、小ぢんまりとした佇まいの集落をいくつか通り、きらめくような海の色をガラス越しに見せながら、颯爽と延びていきます。集落の生垣にはハイビスカスが亜熱帯の当地らしい極彩色を見せていれば、さとうきびが日差しを受けてさざなみのように行き過ぎます。「ブルーエンジェル」と形容される美しいビーチである土盛(ともり)海岸を観賞した後、県道から島を縦断する幹線道路である国道58号に出て、島の中心都市・名瀬へ向かいました。奄美大島は急峻な地形が多く、各所に急勾配でカーブの多い峠越えの難所が存在していました。現在ではそのほとんどがトンネルによりショートカットされ、南北の往来はかなり容易になっています。「奄美クレーター」とも呼ばれる赤尾木湾を右手に西へ、屋入(やにゅう)トンネルで龍郷町の中心部を通過し、本茶(ふんちゃ)トンネルを抜けますと、名瀬市街地の東の入口となる浦上地区へ。中心市街地へはさらに和光バイパスでトンネルを抜けることとなりますが、私は海岸沿いを進む旧道を進んで、静かな湾に面する名瀬市街地へ入りました。



名瀬市街地を歩く

 2016年8月25日、正午過ぎに奄美空港に到着し、島北東部の笠利地区をめぐっていた私は、夕刻、島の首都ともいうべき名瀬の市街地へ入りました。北側に広がる東シナ海に湾口を向けて、南へ大きく入り込む形の名瀬湾は、その湾奧の名瀬港をまさに「天然の良港」として機能させています。物流・交通・観光の拠点として多くの船舶が行き交います。名瀬を含む奄美市の人口はおよそ4万3千人で、一般的な都市としてはその数字は大きい方ではありません。しかしながら、奄美群島を統括する政府や県の機関が多く名瀬市街地に集中し、その中枢管理機能は小規模な県庁所在都市級と目されます。そうした中世を背景として、名瀬港を囲むように密度の高い市街地が発達しました。名瀬のアーケード街や歓楽街、繁華街は多くの観光ガイドや地誌書などで「本土並み」と形容されるほどです。高い集積度の市街地へは海である北を除く三方から主要道路が入る形となりルートが限られるため、夕刻はかなりの渋滞が発生していました。

 この日投宿するホテルにチェックインした後、夕方の名瀬の町を歩いてみることにしました。ホテルの窓から眺める名瀬の町は、大小の建物群が狭い平地に押し込まれるように立ち並ぶ一方、町を取り囲む丘陵は緑が鮮やかで都市化はそれらの丘陵地へはあまり及んでいないようでした。島に入ってから晴天を遮るように時々降っていたスコールは、市内を歩いている時も時折激しい降りとなって、アスファルトを潤していました。8月下旬とはいえ夏の期間が長い奄美ではまだまだ初秋とは言えない陽気で、残暑という表現も当たらないのではないかと思われるほどの暑さの中、離島では最大級の都会を歩きます。歓楽街である屋仁川通りの様子を確かめながら本町通を東へ、南の大島支庁前まで続く支庁通りと北へ続くサンサン通りとが交わる交差点からは、アーケードのある商店街「ティダモール(中道通り商店街)」が連接しています。本町通りからこの中央通りへ続くラインが、名瀬の伝統的な町場であったようです。所々にシャッターの下りた店舗などもあって地方都市の現状を感じさせるアーケード街は、過度に観光向けの店があるわけではなく、純粋に名瀬や奄美大島の住民が買い物に訪れるための商店街のように見えました。このことも、この町が奄美大島の中心都市であることを端的に示しているようにも思われました。

屋仁川通り

屋仁川通り
(奄美市名瀬入舟町、2016.8.25撮影)
ティダモール

ティダモール
(奄美市名瀬末広町、2016.8.25撮影)
本町通り・ティダモール入口の交差点

本町通り・ティダモール入口の交差点
(奄美市名瀬末広町、2016.8.25撮影)
おがみ山

おがみ山の景観
(奄美市名瀬金久、2016.8.25撮影)

 アーケードが途切れますと周囲は住宅地域へと移り変わります。国道58号和光バイパスの完成により郊外地域とのアクセス性が向上した永田橋通りは一際交通量が多い印象です。市街地の南に接する高台には「おがみ山公園」があります。おがみ山は漢字で書けば「拝山」となり、名瀬の住民にとって神聖な森あるいは信仰の対象として大切にされてきた場所であるようす。市街地を一望できる広場が設けられており、現在における名瀬の町のシンボルです。亜熱帯の木々が生い茂る森の中を進む坂道を上り、展望広場から港へ向かう名瀬の市街地を眺望しました。重層の建築物が多く集中する眼前の名瀬市街地は、その人口以上の中枢性を持つとご紹介しましたが、そのことを如実に証明するような俯瞰風景でした。

 先に、奄美では伝統的に共同体が形成されてきたことをお話ししました。丘陵性の地形で集落ごとの隔絶性が強い奄美では、各集落内で社会が完結する共同体が発達した経緯があり、その地域社会を「シマ」と呼んできました。シマでは集落を見下ろすような位置にある特定の丘陵地を神が降り立つ「カミヤマ」として神聖視しました。祭祀を執り行う際、神はこのカミヤマに降り立ち、「立神」と呼ばれる海上に浮かぶ小島が天に帰るときの依代とみなしていました(「立神」はすべてのシマに存在するわけではありません)。この「カミヤマ」と「立神」を結んで神聖な道筋を「カミミチ」と規定、そのルート上に公共的な祭祀施設を配置し(このことについては後述します)、それらがシマ(集落)の村落構造の骨格を成していました。現在でこそ中枢都市となった名瀬も、元来は「金久」と「伊津部」という、島内の他のシマと同列の2つの集落でした。おがみ山はまさにここでいう「カミヤマ」であり、名瀬湾内には立神と呼ばれる小島が存在しています。近代以降、奄美地域を統括する機能が名瀬に設置されたことを契機として、ありふれたシマのひとつであった地域は大きくその姿を変えて、奄美大島にはこれまでに存在していなかった「都市」へと変貌しました。


おがみ山より名瀬市街地を俯瞰

おがみ山公園より名瀬市街地を俯瞰
(奄美市名瀬金久、2016.8.25撮影)
名瀬港と立神

名瀬港と立神(沖に見える小島)
(奄美市名瀬金久、2016.8.25撮影)
支庁通り

支庁通り
(奄美市名瀬幸町、2016.8.25撮影)
大浜海浜公園

大浜海浜公園・夕日
(奄美市名瀬小宿、2016.8.25撮影)

 刹那激しさを増したスコールをやり過ごした後、おがみ山を下りて、大島支庁や奄美市役所のある一帯を通過しながら支庁通りを北へ取って返し、屋仁川通り近くのホテルに戻りました。その後再びレンタカーで町を出発し、夕刻の帰宅ラッシュで混雑する道路を西へ、名瀬市街地の西方、東シナ海を望む景勝の地である大浜海浜公園へと向かいました。夕焼けから夕闇へ、ゆっくりと過ぎる時間の中で、海岸の風景はドラスティックにその色合いを変えていきました。そしてすっかり日が落ちた空には、数え切れないほどの星々が散りばめられるようにひしめき合っていました。人生でこれほどまでの美しい星空を見たことはなかったと思います。天の川をしっかりと確認できたのも初めての経験でした。翌日は、この夜の感動を胸に残しながら、島の南部へと足を延ばしました。

 後編へ続く




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