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奄美大島・星空の下の小宇宙(シマ)

前編からの続き
「シマ」と自然とをめぐる

 名瀬で一泊した翌8月26日は、まずはレンタカーで奄美大島の西側を進む県道をレンタカーで辿り始めました。この日も晴天で、東海上にほぼ停滞していた台風の影響によるスコールに時々遭うという、前日さながらの陽気でした。奄美大島は全体的に丘陵性の地形であることはすでにお話ししました。それゆえに長大な砂浜海岸はほとんど存在せず、集落は、海に迫る岩壁を侵食した小河川がわずかに作る平地に点在する形をとります。隣の集落との間は険しい山によって隔てられているため相互の交流は乏しく、それぞれの集落はそれぞれが小国家のような共同体をつくり、それを奄美では「シマ」と呼ぶことも前項までに説明してきたとおりです。モータリゼーションの進展と高度経済成長、離島振興政策などにより陸上交通が大幅に改善された現在は、かつて「シマ」と呼ばれた集落を連絡するように主要道路が貫通しています。名瀬の市街地から西へ、地方公共団体である大和村や宇検村の一集落となって存立する「シマ」の雰囲気と、奄美大島の雄大な自然とを体感することが奄美大島での二日目の最初の目的でした。


国直サンセットパーク

国直サンセットパークから国直集落を見下ろす
(大和村国直、2016.8.26撮影)
国直の海

国直の海
(大和村国直、2016.8.26撮影)
海岸付近のアダン

国直集落・海岸付近のアダン
(大和村国直、2016.8.26撮影)
国直集落の景観

国直集落の景観
(大和村国直、2016.8.26撮影)
土俵

国直地区にある土俵
(大和村国直、2016.8.26撮影)
国直集落

国直集落の景観
(大和村国直、2016.8.26撮影)

 名瀬市街地から西へ、前日夕日と星空とを眺めた大浜海浜公園への分岐を曲がらず車を大和村方面へ走らせます。峠と、集落のある海岸沿いとを交互に通過しながら、大和村へ入りました。大和村に着いてから最初に到達する国直集落は、美しい砂浜と「シマ」時代を想起させる村落景観とが印象的な場所でした。峠を越えて集落へと降りていく手前には、海岸風景を見下ろせるポケットパークがあり、そこには1959(昭和34)年頃に撮影された集落の俯瞰写真が掲げられていました。東シナ海から南に入り込む思勝湾内にある国直の海岸はとても波静かで、明るい空の色そのままの海の色は、まるでそこに陽の光が閉じ込められているかのようでした。海岸と集落の間には、防風のためのアダンが植えられ、また、屋敷の周囲にも防火や防風を目的としたフクギが生垣のように植栽されています。ハイビスカスが咲き乱れる集落景観は沖縄のそれを思わせます。多くの集落には集会所のような公共施設の一角に土俵が設けられています。これは旧暦の八月に執り行われる豊年祭で執り行われる奉納相撲のためのものです。豊年祭はそれぞれのシマごとに行われる奄美における伝統的な農耕儀礼です。この後も、集落を訪れるたびにこうした祭祀に関係した施設を確認することができました。

 大和村役場のある開饒神社(ひらとみじんじゃ、日本における糖業の元祖・直川智翁を祀る)や伝統的な高倉が保存される「群倉(ぼれぐら)」を確認した後、奄美大島の最高峰・湯湾岳の山懐に整備された森林公園・奄美フォレストポリスへ向かいました。この森林公園のある場所は福元盆地と呼ばれ、那覇世(琉球王朝時代)から大和世(薩摩藩統治時代)にかけては、大和村辺りから宇検村方面へ陸路進む場合の中継地として20数戸の人家があった場所であったのだそうです。ここを流れる川は住用川の上流部にあたり、太平洋側へ流下します。景勝地として知られるマテリヤの滝は深閑とした森の中に快い水流を迸らせていました。この滝のある場所だけ森が開けて光が射し込んでいたために、「本当に美しい太陽の滝つぼ:マティダヌコモリ」と呼ばれていたのが、「マテリヤの滝」の名前の由来であるようです。この後、湯湾岳へ上る登山道も登ってみました。周囲は一面の山林で、彼方に東シナ海の海面を見通すことができました。島で最も高い山の上であることもあって、上空は雲に覆われており、時折俄雨が降る天候になっていました。



開饒神社
(大和村思勝、2016.8.26撮影)
群倉

群倉
(大和村大和浜、2016.8.26撮影)
マテリヤの滝

マテリヤの滝
(大和村名音、2016.8.26撮影)
奄美フォレストポリス

奄美フォレストポリス内の原生林
(大和村名音、2016.8.26撮影)
湯湾岳付近から東シナ海を望む

湯湾岳付近から東シナ海を望む
(大和村内、2016.8.26撮影)
宇検集落の景観

宇検集落の景観
(宇検村宇検、2016.8.26撮影)

 湯湾岳周辺の散策後は再び海沿いの道に下り、大和村のさらに西隣の宇検村の海岸沿いを軽快にドライブしました。眼前には奄美群島内で最大の無人島である枝手久島があり、その島を湾口に浮かべる焼内(やきうち)湾の北岸を宇検村の中心部に向けて進む格好になりました。焼内湾は東西に奄美大島に切れ込む細長い入り江で、波穏やかな湾内ではクルマエビの養殖が行われています。湾奧の村中心部から太平洋側の奄美市住用町方面へ抜ける県道を通り、住用地区へ。国道58号を名瀬方面へ戻りますと、西表島に次ぎ日本で二番目の規模のマングローブ原生林が右手に見えてまいります。この日訪れていた奄美フォレストポリス園内を流れていた住用川と、役勝川とが合流する河口部に広がるマングローブ原生林は、約71ヘクタールもの広さ(国定公園の特別保護地区の指定範囲)があります。原生林の一角にある展望所から、この雄大な自然林を眺めました。緑鮮やかな周囲の丘陵地と、目眩るめくような青空、そして住用湾へと緩やかにつながる川の流れとが、マングローブの森を輝かせているように感じられました。この場所を訪れた午後2時前後は正午前に満潮を迎えた後徐々に干潮に向かう時間帯であったため、干潮時に出現する干潟はまだほとんど確認できませんでした。

 マングローブ原生林を出た後は、奄美大島南部、瀬戸内町の美しい海岸を訪問しました。国道58号を南へ、険しい山を長大トンネルで抜け、伊須湾の南岸を通るルートに入り、しばらく東進してから南に峠を越えて、大島海峡に面する蘇刈地区に入り、その後は海に隣り合うような道路を東へ進みました。奄美大島最南端の皆津崎へとつながるこのエリアには、特徴的な2つの海岸-ホノホシ海岸とヤドリ浜-があります。ホノホシ海岸は太平洋岸にあり、海岸が一面丸みを帯びた玉石に覆われていることが特徴です。この日は台風の影響で荒波が轟音とともに押し寄せていましたが、弾ける白波は玉石の群れを容赦なく押し流していたものの、晴天の下の海は明るい空色を呈していて、南国の暖かさが波浪の猛々しさをやわらかく包み込んでいました。ヤドリ浜は、ホノホシ海岸とは反対側、大島海峡に面する穏やかな砂浜です。対岸には加計呂麻島の島影が大きく広がります。「ヤドリ」とは雨風をしのぐ程度の簡素な小屋のことであるようで、このあたりのさとうきび畑では繁忙期にはそうした小屋に住み込んで作業をしたのだそうで、ヤドリが立ち並ぶことからこの名前が付いたといわれています。ホノホシ海岸では荒れるに任せていた海はここでは本当に穏やかそのままの容貌を見せていたことが印象的でした。

住用マングローブ原生林

住用マングローブ原生林
(奄美市住用町石原、2016.8.26撮影)


伊須湾岸の道路を進む
(瀬戸内町伊須、2016.8.26撮影)
ホノホシ海岸

ホノホシ海岸
(瀬戸内町蘇刈、2016.8.26撮影)
ヤドリ浜

ヤドリ浜
(瀬戸内町蘇刈、2016.8.26撮影)
嘉鉄俯瞰

嘉鉄集落の俯瞰風景
(瀬戸内町嘉鉄、2016.8.26撮影)
古仁屋市街地俯瞰

高知山展望台から見た古仁屋と対岸の加計呂麻島
(瀬戸内町古仁屋、2016.8.26撮影)

 2つの美しい浜辺を体感した後は、大島海峡沿いを西へ取って返し、国直集落で感じたような「シマ」の情景を彷彿とさせる嘉鉄地区の風景を目に焼き付けながら、瀬戸内町の首邑で、奄美大島では名瀬に次ぐ中心性を持つ古仁屋の町を目指しました。2日目はこの古仁屋での宿泊となります。古仁屋は目の前の加計呂麻島をはじめ、同じ瀬戸内町内となる与路島・請島へのフェリーが発着するほか、鹿児島と喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島を結ぶフェリー便も就航する海上交通の要衝です。商店や飲食店、ホテルなどがある程度集積しており、「シマ」というよりも、名瀬のような「都市」としての基盤を十分に備えている町場です。町の背後の丘陵にある高知山展望台からは、加計呂麻島を後背地にして市街地を広げる古仁屋の町や、大島海峡の美しい風景を眺望することができました。

 逗留先のホテルでのチェックイン後、リアス式海岸の風景美で知られる大島海峡のかなたに沈む夕日を見ることができる眺望スポット、油井岳展望台へ向かいました。南国の太陽はいまだに真夏の力を存分に発揮していて、夕方の山上を吹き行く風と虫の音だけが、そんな「残暑」の熱気を緩和させて、秋の気配を演出していました。この日は雲の少ない夕暮れで、日の入りに向かって徐々に太陽はその色彩を黄色からオレンジ色に変化させて、海峡と島々の織りなすたおやかな風景をよりいっそう輝かしいものに昇華させているようでした。加計呂麻島や与路島を介して、その奥には徳之島もうっすらとその存在を見せていました。九州から南へ、台湾へと数珠つなぎに連接していく「島の架け橋」。その橋を通って古来より多くの人や文化が行き来してきた歴史をも内包する、素晴らしい夕景であったように感じました。明日は、目の前に横たわる加計呂麻島を辿るフィールドワークへと出発します。




高知山展望台から見た大島海峡
(瀬戸内町古仁屋、2016.8.26撮影)
古仁屋

古仁屋市街地
(瀬戸内町古仁屋、2016.8.26撮影)
古仁屋の街並み

コーラル橋から見た古仁屋の街並み
(瀬戸内町古仁屋、2016.8.26撮影)
コーラル橋

古仁屋・コーラル橋
(瀬戸内町古仁屋、2016.8.26撮影)
油井岳展望台

油井岳展望台から見た大島海峡
(瀬戸内町阿木名、2016.8.26撮影)
油井岳展望台

油井岳展望台から見た大島海峡の夕日
(瀬戸内町阿木名、2016.8.26撮影)


加計呂麻(かけろま)の奇蹟

 奄美大島第二の「都会」古仁屋での宿泊を経た翌27日は、午前8時10分に出港する「フェリーかけろま」にレンタカーごと乗り込み、奄美大島の南に寄り添うように佇む加計呂麻島・生間(いけんま)港へ向かいました。加計呂麻島は、島の南に浮かぶ与路島や請島とともに行政的には奄美大島南部の瀬戸内町の範域で、フェリーも町が運航しています。加計呂麻という、どこか異国を感じさせる名前の由来は、奄美大島の「影の島」だからとも、奄美大島の一部が「欠けた島」からとも言われているようです。鋸の歯のような海岸線が特徴のリアス式海岸が大島海峡の両岸に展開する風景は、穏やかな海峡の佇まいも相まって、極上のきらめきに満ちていました。海も晴れ渡る空からの日差しを受けて瞬いています。

 フェリーはおよそ20分で加計呂麻島東部の生間(いけんま)港に到着しました。フェリーはここから西の、島の中ほどにある瀬相(せそう)へも寄港します。加計呂麻島は東西に細長い形をしているうえに複雑な海岸線と起伏の多い地形のために陸路での移動に時間を要します。人口約1,300人の島に2つの船着場があるのはこのような背景によるものなのでしょう。生間地区には、小規模ながらも町場があるものと想像していました。しかしながら、実際はシマ的な集落に小さな埠頭が付加されているといった印象の場所でした。

古仁屋遠景

古仁屋遠景
(フェリーかけろま船上より、2016.8.27撮影)
生間港遠景

生間港遠景
(フェリーかけろま船上より、2016.8.27撮影)


安脚場戦跡公園・金子手崎防備衛所跡
(瀬戸内町渡連、2016.8.27撮影)
安脚場戦跡公園から大島海峡を望む

安脚場戦跡公園から大島海峡を望む
(瀬戸内町渡連、2016.8.27撮影)

 リアス式海岸の矮小な入江に30の集落が点在する加計呂麻島は、シマの残像をより明瞭に感じられる地域です。加計呂麻島のメインルートは島の北岸を縦貫する県道です。そこから小道が枝葉のように延びて、それらのシマ(集落)との間を連絡しています。最東端の安脚場(あんきゃば)集落には、戦跡公園が整備されています。南西諸島の中間という要衝性と、リアス式海岸が天然の良港であることから、大島海峡周辺には近代以降軍事的拠点が数多く配置されました。

 安脚場地区は、太平洋側からの入口にあたるため、海峡に侵入しようとする潜水艦を監視する施設がありました。現在でも弾薬庫や防備衛所などの施設が残されており、こうした歴史を後世に伝えるために、周辺一帯が戦跡公園して保存されています。園内を歩きますと、そこは鮮やかな山並みやどこまでも澄んだ青色を呈する大海原が美しいとても平和な風景が広がる場所でした。波濤の砕ける音や蝉の鳴き声などがその安らかさを引き立てているようで、その静かさそのものが戦争の時代の儚さを紡ぐ旋律のように胸に響きました。戦跡公園へ向かうルートの手前の海岸には、安脚場集落があって昔ながらの姿を見せていました。

徳浜集落俯瞰

「くじらの見える丘」から徳浜集落を望む
(瀬戸内町諸鈍、2016.8.27撮影)
大屯神社

大屯(おおちょん)神社
(瀬戸内町諸鈍、2016.8.27撮影)
諸鈍・デイゴ並木

諸鈍・デイゴ並木
(瀬戸内町諸鈍、2016.8.27撮影)
於斎のガジュマル

於斎のガジュマル
(瀬戸内町於斎、2016.8.27撮影)

 安脚場から西へ少し戻り、南海岸へ抜ける峠道を進んで請島側の諸鈍(しょどん)集落に到達、そこから東南にルートを採り、東南端にある徳浜集落へ。山中を進み、集落へと下る手前に「くじらの見える丘」と書かれたプレートの置かれたスペースがありました。12月から4月頃にかけては鯨を望むこともできるというその高台からは、彼方まで澄み切ったマリンブルーの大海原と、緑に囲まれたような徳浜集落とを鮮やかに俯瞰することができました。
 
 徳浜の静かな浜辺を確認した後、島で最も多くの人が居住する諸鈍集落へ立ち寄りました。平家の落人・平資盛(たいらのすけもり)一族が、土地の人々と交流を深めるために伝えたのが始まりと伝承される伝統芸能「諸鈍シバヤ(国指定重要無形民俗文化財)」で知られます。地区に鎮座する大屯(おおちょん)神社には平資盛が祀られています。海岸には樹齢300年余りのデイゴ85本が並木をつくっており、地域のシンボル的な存在となっています。ハイビスカスの生垣やサンゴの石垣などとともに、そのデイゴの並木は、透明感のある浦に臨む南国の風景をのびやかに演出していました。並木は5月から6月にかけて真紅の花に包まれます。


於斎

於斎の海岸風景、中央は請島(左右は加計呂麻島の一部)
(瀬戸内町於斎、2016.8.27撮影)
伊子茂まもる君

「伊子茂まもる君」と伊子茂の海
(瀬戸内町伊子茂、2016.8.27撮影)
西家の石垣

西家の石垣
(瀬戸内町伊子茂、2016.8.27撮影)
西阿室・カトリック教会

西阿室・カトリック教会
(瀬戸内町西阿室、2016.8.27撮影)
アシャゲ

アシャゲ(奥の建物)と土俵
(瀬戸内町嘉入、2016.8.27撮影)
トネヤ

トネヤ(左写真と道路を挟み向かいにある)
(瀬戸内町嘉入、2016.8.27撮影)

 諸鈍から生間のフェリー乗り場前に出て、県道を西へ向かいます。諸数(しょかず)や勝能(かちゆき)、押角(おしかく)といったシマを抜けて、吞之浦集落辺りから県道を南へそれて、太平洋岸の於斎(おさい)集落へと出ました。於齋は南に開いた伊子茂湾の奥に佇む静かな集落で、波静かな碧海の向こうには加計呂麻島の南に浮かぶ2つの有人島のうちの一つ請島を望むことができます。集落の東側には大きなガジュマルの木があり、地域のシンボルとなっています。於斎地区から海岸沿いを南下し、請島やもう一つの人の住む島で請島の西に位置する与路島への海上タクシーが発着する伊子茂(いこも)集落へ。「伊子茂まもる君」と呼ばれる交通指導員風の人形が立ち見守る小学校の佇まいは、ソテツの木が目を引く懐かしい雰囲気でした。山際には島の役人や戸長などを勤めた西家の屋敷跡があり、堅牢に積まれた石垣が森に埋もれるようにして往時を偲ばせていました。

 伊子茂集落から花富(けどみ)集落を経て峠を西に越えて、カトリック教会のある西阿室(にしあむろ)集落の様子を一瞥した後、島の西海岸のシマを訪問しました。奄美地域の集落はかつては一つひとつが独立した共同体であり、神が降臨する山(カミヤマ、拝み山)と、天界へと神が帰る土台となる海上の岩(立神)とを一直線上に結んだ「カミミチ」と呼ばれる小路によって集落(シマ)が構成されることは、これまでにご紹介しました。奄美ではそうしたカミミチの上に「トネヤ」や「アシャゲ」と呼ばれる小屋が建設されていることが多く、そこは前出の豊年祭や旧暦9月9日の祭礼(クガツクンチ)の祭などの祭礼の場となります。嘉入や須子茂、阿多地の各集落ではそうしたトネヤやアシャゲが伝統的な姿でよく保存されていて、シマの原風景を色濃く残しています。トネヤやアシャゲのある広場は「ミャー」と呼ばれ、先述の土俵もこのミャーにあることが多いようです。シマ(集落)の中心にあり公共的性格の強いミャーには地区の集会所が設置されていることもまた多いようでした。ハイビスカスの生垣やデイゴの並木、そして請島や与路島の向こうに徳之島の島影も望める美しい南国の海の輝かしさに照らされて、これらの集落は寡黙ながらも一際鮮烈な風景に包まれていました。

ハイビスカスの生垣

ハイビスカスの生垣
(瀬戸内町須子茂、2016.8.27撮影)
実久・サンゴの石垣

サンゴの石垣
(瀬戸内町実久、2016.8.27撮影)
実久の海

実久の海、奄美大島を望む
(瀬戸内町実久、2016.8.27撮影)
実久三次郎神社

実久三次郎神社
(瀬戸内町実久、2016.8.27撮影)
瀬相港の景観

瀬相港の景観
(瀬戸内町瀬相、2016.8.27撮影)
大島海峡と加計呂麻島

大島海峡と加計呂麻島
(フェリーかけろま船上より、2016.8.27撮影)

 阿多地から再度峠を越えて大島海峡側に出て県道を西へ進み、最西端の実久(さねく)集落へ。奄美大島を望む海は「実久ブルー」と称賛される最上級の青色に染まって、この世のものとは思えないほどのきらめきと透明感とに溢れていました。奄美大島から加計呂麻島をめぐる中で数多くの美しい海に遭遇してきましたが、ここの海の美しさは格別でした。沖の奄美大島に近い海峡の海は群青色を呈し、そこから浜辺に近づくにつれて空色、水色、そして砂浜を透かす淡い翡翠色へと変化し、夏空のような空の下、清々しい青いグラデーションを形づくっていました。集落の入口の高台には実久三次郎神社があります。鎮西八郎為朝(源為朝)が保元の乱で敗れ伊豆大島に流された後、琉球へ渡ったという伝説は、喜界島や奄美大島などの島々に残されています。実久三次郎神社は為朝が実久に立ち寄った際、地元の娘との間に生まれた実久三次郎を祀ったといわれています。

 美しい海と伝統的な色彩を残すシマ(集落)、そして緑輝く鮮やかな自然に包まれた加計呂麻島は、まさに生命と大地と歴史とがのびやかに融合した奇蹟の島であるように感じられました。実久から県道を東へ戻って古仁屋へのフェリーが発着する瀬相に向かい、約25分の航海を経て古仁屋へと戻りました。初秋とは思えない熱量を帯びた太陽に照らされて、島も海も白い色のヴェールをかけられているかのように見えます。海上から眺める古仁屋の町はとても大きくて、それは奄美大島の南部をはじめ、加計呂麻島・請島・与路島といった人の住む島の中心都市としての趨勢を感じることができる風景でした。古仁屋に到着後は国道58号をひたすら北進し、名瀬へ戻りこの日の活動を終えました。

 エピローグへ続く




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