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関東の諸都市・地域を歩く
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#100 志木市内散策 〜新河岸川から荒川へ向かう地域をまわる〜 初夏、野山の木々がいっせいに緑色を濃くする季節、埼玉県から東京都にかけての武蔵野台地上では、雑木林がみずみずしい新緑に彩られます。2016年5月1日、快晴の東武東上線・志木駅を降り立ち、商業施設やマンションが林立する駅前を北へ、慶応志木高校の西側を進みます。ユリノキ通りを越えて、「けいおうふれあいの森」と呼ばれる林の下を進みます。慶応志木高校の寮の跡地位あった森を緑地として再整備したもののようで、台地に刻まれる谷地沿いに気持ちのよい木影を落としていました。森には慶応志木高校の校地を抜けて続く野火止用水跡の暗渠が斜面に沿って続いていまして、用水路の跡をたどりながら、斜面から低地に向かって展開する住宅地の様子を一瞥しました。
斜面を下りた先には、新河岸川の土手へと到達しました。新河岸川は上流に位置する川越城下町と江戸とを結ぶ舟運で栄えた歴史があることは、上福岡の項でもご紹介しました。現在の川は直線的な流路となっていますが、かつては複雑に蛇行していました。河床の跡は流域に多く残されていまして、志木市と富士見市、朝霞市の市境も、一部がこの昔の流れを踏襲し複雑な形となっている場所も見受けられます。木々や草原に覆われた新河岸川の土手の上を、快い青空の下を歩きます。宮戸地区は朝霞市の範囲となります。穏やかな斜面林の緑を右手に、水が張られ始めた水田の端を歩き、地域の鎮守である宮戸神社へ。高台に位置する境内からは、現代的な住宅地となっている地区を見通すことができました。宮戸橋で新河岸川を渡り、再び志木市域へと入り、新河岸川と荒川に挟まれた宗岡地区へ。宗岡三小と宗岡二中へと進む道路は江戸時代の堤防を踏襲しています。周囲は畑地となっている場所もありますが、多くは宅地となっていまして東京近郊における市街地化の態様を感じさせます。下ノ氷川神社は、1351(観応2)年に上宗岡にある氷川神社を分祀し創建された来歴を持ち、宗岡地区の開拓史を今に伝える史跡です。社殿は上ノ氷川神社に向かい合うように、北に向かって造営されています。 宗岡地区を歩き、荒川の堤防へと到達しました。秋ヶ瀬橋の西詰からは、しばらく堤防上を上流に向かって散策を進めます。堤防の内側、荒川の流れまでの間までの「堤外」にも、広大な水田が広がっていまして、雲ひとつない清々しい大空の下を、気持ちのよく歩を進めていきます。東側は、広々とした堤外の水田の向こうに、さいたま新都心をはじめとした、さいたま市側の都市のスカイラインを望みます。西側は住宅地の間に水田のある、現代の志木市の風景が展開します。明治期の地勢図を確認しますと、宗岡地区は水田の中に住宅が点在する、いわゆる散村の形態を持った農村地域であったようです。そうした地域が徐々に宅地化され、水田と宅地とが混在する現在の風景へと移り変わったのでしょう。水害時の際に避難するため、盛り土の上に建設された倉状の建物である「水怐vも多く残されていまして、地域の歴史を今に伝えています。堤外にも「横堤」と呼ばれる、堤防に直交して川に突き出すように建設された堤があります。この施設も洪水の流れを弱め、水を一時的に蓄えておく役目があるものであるようです。
土手をしばらく歩いた後、中ノ氷川神社(産財氷川神社)付近で堤防を下りて、宅地となっている地域を西へと戻りました。宗岡小学校に隣接する市立郷土資料館の傍らには一里塚の石塔が佇んでいます。小学校北側の市道はかつて奥州街道(甲州道とも呼ばれた。五街道のひとつの奥州街道とは別の道路)と呼ばれた、奥州と関東、甲州を結ぶ重要な道路で、一里塚はその街道沿いに設けられたものであることが、案内板に記載されていました。宗岡地区を南北に貫く親水プロムナードである「せせらぎの小径」をたどりながら、新河岸川左岸の旧堤防(江戸時代)に再び合流して、北へ歩きました。古い堤防の周辺は水田が認められる一方で多くが住宅地となっていまして、時代の移り変わりを感じさせます。富士下橋付近は「いろは親水公園」として供されていまして、これまで辿ってきた藩政期の堤防の内側に昭和時代に築かれた堤防があり、さらに川に近い場所に平成時代の堤防があるという構造を目にすることができます。内側の2つの堤防の間は先述の親水公園で、増水時にはここに水を導く仕掛けとなっているようで、新河岸川と柳瀬川の合流点が近いということを考慮したものであることが想起されました。 新河岸川と柳瀬川の合流点近くに架かるいろは橋を渡り、志木市役所を右手に見ながら、2つの河川に挟まれた親水公園の中洲ゾーンと呼ばれる一角へ進みます。ここには、村山快哉(かいさい)堂と呼ばれた旧薬店の蔵造りの店舗が移築されています。1993(平成5)年まで、志木市本町で薬屋業を営んでいた商家の遺構で、緑と水に囲まれた現在地において地域の歴史を今に伝えていました。栄橋で柳瀬川を越えますと、藩政期より奥州街道沿いの宿場町として町場を構成してきた本町へと導かれます。明治時代に自治体合併により「志木宿」と名付けられる前は、引又宿と呼ばれる宿駅でした。新河岸川と柳瀬川の合流点に位置することから、河岸における水上交通と陸上交通の要衝として勃興した経緯を持ちます。なお、「志木」の名の由来は、、『新編武蔵風土記稿』などに「志木郷」という地名が認められたことから県が命名したものであるようです。現在の本町、市場通りの町並みには、水車跡や潜り門の遺構ほか、蔵造りの建物が点在していまして、往時の姿を残していました。
志木駅前から台地を下り、新河岸川から荒川のほとりへと進んだ今回のフィールドワークでは、水運で栄えた河川の歴史と、低地に発達した農村地域が都市化によって大きく様変わりしてきた風景とを存分に感じることができるものとなりました。初夏の穏やかな気候にも恵まれて、随所に美しい緑にも出会うことができ、輝きの季節へと階段を上り始めた生命の躍動を目に焼き付けました。 |
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