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関東の諸都市・地域を歩く


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#119 鶴ヶ島市の諸地域をめぐる ~武蔵野と郊外とが交錯する風景~

 2017年1月7日、早朝から訪れていた越生を後にした私は、そのまま東武線を乗り継いで、近傍の鶴ヶ島市を訪れました。鶴ヶ島市は坂戸市の南に位置する都市で、1991(平成3)年9月に市制施行した比較的新しい市です。関越自動車道と圏央道のジャンクションの名前として記憶している方も多いかもしれません。東武東上線の若葉駅より南へ、スーパーマーケットのほかは中低層の住宅地域となっている街並みを進みました。

若葉駅前

東武若葉駅前(西口)
(鶴ヶ島市藤金、2017.1.7撮影)
若葉駅前の高層住宅

若葉駅前の高層住宅
(鶴ヶ島市藤金、2017.1.7撮影)
住宅地と畑地の見える風景

住宅地と畑地の見える風景
(鶴ヶ島市藤金、2017.1.7撮影)
旧川越街道の並木

旧川越街道の並木
(鶴ヶ島市脚折、2017.1.7撮影)

 駅南口から正面に進む通りは南西から西へ方向を変えて脚折町四丁目交差点方面へ進みますが、この日はその駅前通りから一筋南の市役所へと向かう市道を歩きました。沿道は概ねマンションと戸建てが混在する住宅地となっていまして、時折畑地が認められる風景に従前の土地利用を彷彿させました。住宅地は市域を縦貫する関越自動車道のガード下を越えて広がっています。同自動車道のこの区間が開通したのは1975(昭和50)年とのことなので、住宅地はそれ以降に高速道路の両側一帯に広がっていったことが類推できます。高速道路は市街地を避けて、用地取得が容易な山林や農地をルートにすると考えられますので、鶴ヶ島における宅地化が比較的最近に、速いペースで進行したことが理解できました。

 市役所の手前、県道114号に至る少し北側に、落葉樹が並木となって続く道路に至りました。同県道の北側にはみ出すようにある形状から、旧道筋であるように考えていますと、「川越街道案内板」と題された表示板が近傍の公園に設置されてるのを見つけました。この道路は戦国期には整備されていた街道であったようで、川越から越生へと続く往還として藩政期から近代、そして現代へと、主要な交通路であり続けたものであることが説明されていました。街道にはケヤキやクヌギ、ヒノキ、ナラなどが並木として植樹され、雑木林のようになっていたということで、見つけた並木のある通りは「川越街道」と通称された歴史のあるこの道筋の往時の雰囲気を今に伝えていました。

畑地と住宅地

畑地と住宅地、武蔵野を思わせる風景
(鶴ヶ島市三ツ木付近、2017.1.7撮影)
高徳神社境内

高徳神社境内
(鶴ヶ島市三ツ木、2017.1.7撮影)
高徳神社

高徳神社
(鶴ヶ島市三ツ木、2017.1.7撮影)
慈眼寺の黒這松

慈眼寺の黒這松
(鶴ヶ島市三ツ木、2017.1.7撮影)

 旧川越街道の道を道なりに東へ、交通量の多い県道を渡って進んだ先には、美しい杉木立に覆われた高徳神社が鎮座していました。高徳神社は1913(大正2)年に、近隣の太田ヶ谷、三ツ木、藤金、上広谷、五味ヶ谷の各地区内に鎮座していた神社を合祀して創立したものです。その凛とした佇まいは、地域の発展を願った当時の人々の息づかいが感じられるような精悍さを見せていました。高徳神社からは圏央道に沿って西へ歩きます。この辺りまで来ますと畑地が卓越するようになり、大型ホームセンターなど現代的な土地利用が認められる中にあっても、雑木林と集落と畑地が点在する、武蔵野らしい風景が随所に広がります。三ツ木地区の慈眼寺には市指定天然記念物の黒這松があって、地域の住民に信仰された古刹の風情を印象づけているように感じられました。

 地下水が湧き出しかつては地域の農地を潤していたという逆木(さかさぎ)の池(戦国期に戦場から逃れた兵士がこの池で事切れ、彼が逆さに刺した杖がやがて芽吹いて柳の大木になったという伝説に因みこう呼ばれるようになったといわれる)を一瞥しながら、圏央鶴ヶ島入口交差点へ進みますと、国道407号に沿って豊かな杉並木がつづいているのが目に留まりました。日光街道杉並木と呼ばれています。この「日光街道」は、五街道の一つのそれではなく、八王子千人同心が日光勤番のために辿った道筋である、「日光脇往還」や「千人同心街道」などと呼ばれた街道です。寛永年間(1624~1644)に、川越藩主松平伊豆守が整備したという杉並木は、その後も地元の人々による管理や植樹が行われて、今日まで美しい杉並木が残されました。並木道の周辺には茶畑もあって、ゆるやかに市街化が進行しながらも、のびやかな農村地域であった当地の姿を存分に感じることができます。新田開発時に篤農家として尊敬され、代官として尽力した川崎平右衛門定孝の陣屋跡もあって、地域の開拓史にも触れることができます。

逆木の池

逆木の池
(鶴ヶ島市三ツ木新町二丁目、2017.1.7撮影)
日光街道の杉並木

日光街道の杉並木
(鶴ヶ島市高倉、2017.1.7撮影)
川崎平右衛門陣屋跡付近の茶畑

川崎平右衛門陣屋跡の茶畑
(鶴ヶ島市高倉、2017.1.7撮影)
才道木日光街道の道しるべ

才道木日光街道の道しるべ
(鶴ヶ島市脚折、2017.1.7撮影)

 街道をさらに進み、国道と分かれた先の脚折才道木交差点には、「才道木日光街道道しるべ」が残されています。この交差点は先に触れた川越街道との交点であり、交通上の重要なノードであったことが分かります。明治期の地勢図を見るとこの交差点一帯はナラの雑木林が広がっていたようです。そうした暗がりのような森を進む旅人には、それは貴重なガイダンスであったことでしょう。交差点を西へ進んだところで、やってきた坂戸駅行きのコミュニティバスに乗って同駅へと進んでこの日の活動を終えました。埼玉県内では若い部類に属する鶴ヶ島市は、1970年代以降に人口が急増したまちです。今回の訪問を通して、武蔵野の雑木林と畑地が広く展開する台地上に、急激に宅地化が進んだ地域の姿をしっかりと確認することができました。


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