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関東の諸都市・地域を歩く


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#26 真岡を歩く 〜のびやかに展開する町並み〜

 町並みを散策するとき、チャンスがあれば高いところからなるべく町を見るよう心がけています。端的にその地域の特徴とか、美しさとかを見ることができるためです。展望台とか、ビルの上とか、丘陵の上などのみならず、歩道橋の上や眼下を俯瞰できる崖の上など、見通しがききそうな場所を見つければなるべく足を運んで、そこから見える風景を確認するようにしています。視点を変えますとそこまで歩いてきた地域への印象がそのとおりであると確認することができたり、また、新た魅力を発見することができたり、さまざまな発見があります。真岡の市街地散策は例によって市役所に車を停めてスタートさせまして、五行川沿いに南下、真岡駅を通過後駅西側の市街地を概観しながら市役所北の道を東へ戻るというルートでした。この過程で芳賀城跡につくられた城山公園へ立ち寄り、真岡市街地を俯瞰しました。城の壕を受け継ぐ行屋川の落ち着いた景観の向こうにのびやかに展開する真岡の町並みがたいへんに爽快で、大きく印象に残りました。

 真岡市役所は市街地を穏やかに貫流する五行川に程近い場所にあります。川を挟んで両側に公共施設や行政機関が集積しています。北側の土地区画整理が施行されたと思われる住居表示実施街区と併せ、整然とした、ゆったりとしたスペースとなっているようです。五行川の川辺は空も広く、周辺もオープンな空間が卓越しており、緑色に満ちた堤防はたいへんすがすがしい空気に包まれています。散策やペットの散歩などに訪れる人々も多く見られました。周辺市街地ののびやかさを演出しているのは、この川の存在であるように感じられます。水の流れも軽やかで、四季折々に姿を変えながらうるおいと与えているであろうことが伝わってまいります。架け替え工事が進められている田町橋のほとりでは、コスモスなどの秋の花がさわかやな風に揺れていました。

五行川

五行川の景観
(真岡市荒町、2006.9.30撮影)
田町橋

田町橋とコスモス
(真岡市荒町、2006.9.30撮影)
真岡駅

真岡鉄道・真岡駅
(真岡市台町、2006.9.30撮影)
高寺下交差点

高寺下交差点から東方向
(真岡市並木町一/三丁目、2006.9.30撮影)

 真岡の町の起こりも、中世期における城と関係があるようです。現在の真岡小学校の敷地がその城跡の中心で、宇都宮氏のもとで武勇を馳せたと伝えられる芳賀氏の居城として1577(天正5)年に築かれたものであるとのことです(築城の年代等には諸説あるようです)。その後江戸期は幕府領となり、1795(寛政7)年に代官陣屋(真岡陣屋と呼ばれたそうです)が置かれ、芳賀地域を含む関東各所の535か村、8万4000石余の所領を管轄したのだそうです。真岡市街地は城があり、五行川のつくる段丘上にある「台町」と川沿いの「田町」、そして市役所周辺の「荒町」と3つの町場によって構成されているようです。高台の「台町」と低地の「田町」という対比が、地形状の特徴と符合しています。台町と田町との境界、台地と低地とを分ける崖線には行屋川の流れがあり、情緒ある景観をつくっています。行屋川は芳賀城の外濠(五行川を外堀とみなし、行屋川を内堀とする資料もあるようです)で、堅牢な芳賀城の往時を忍ばせます。

 熊野女体神社のある高台と、城跡へと続く高台の間の低地を西へ入る通りを進みますと、真岡駅前へ出ます。SLが走る鉄道として知られる真岡鉄道だけあって、真岡駅の駅舎はSLを模したものとなっていました。駅西側に進みますと、周辺は広々とした、新たに開けた市街地という印象です。歩道橋が敷設された高寺下交差点は、ここから東へ進めば真岡の旧市街地方面へも続く位置にあることから、現代の真岡における新旧市街地の接点として機能するノード(結節点)となっているようです。荒町地区の北部エリアと同様の、市街地外縁における信仰区画整理エリアとなっている地域にあって、広幅員の道路が交差し、交通量も比較的多くなっています。ベイシアと福田屋のある一帯は商店や飲食店が多く集まり、真岡市街地における繁華な町場となっています。

行屋橋

行屋橋西詰付近、高札場を模した説明板
(真岡市台町、2006.9.30撮影)
行屋川

行屋川と海潮寺山門
(真岡市田町、2006.9.30撮影)
市街地俯瞰

真岡市街地の俯瞰(城山公園より)
(真岡市台町、2006.9.30撮影)
街灯

座繰機を模した街灯
(真岡市荒町、2006.9.30撮影)

 
真岡鉄道の踏切を東へ越えますと、道の両側は次第に崖上に切り立つようになり、田町地区へと下っていく様子が顕著に見て取れます。沿道には座繰機で綿糸を紡ぐ女性が描かれ、「真岡もめん」と書かれた標識が掲げられていました。真岡は近世以降木綿の栽培地域であったことを生かし、「もめんの里」としてアピールしています。行屋橋の手前には、高札場を模した説明表示が設置されていました。芳賀城(真岡城)の歴史と、高札場及び市制施行50周年記念事業についての説明が掲げられていました。ここから西側の崖の上下が、芳賀城跡の一部をその敷地とする城山公園となります。ここから田町交差点、そして田町交差点で交差する南北の通り、さらに市役所などが立地する荒町方向が旧市街地における主要な町場を構成した範域であるようです。このエリア内には海潮寺や般若寺などの寺社も佇んでいまして、行屋川の風情ともあいまって、穏やかな町場を形成しています。

 城山公園に入り、崖に取り付けられた緩やかな遊歩道を進み、崖上へと至りました。そこには、どこまでもたおやかで、そしてのびやかな真岡の市街地風景が広がっていました。これまでの真岡市街地散策において感じた、広々とした雰囲気や、落ち着いた風合いなどをすべて包含し、総括するような、穏やかさです。これまで、高台に設けられた城から発展した町場を訪れてきました。そして、それぞれの場所について、このまちを開いた人々あるいはこの町に関わりのある人々がどのように市街地をここから眺めていたのかと想像してまいりました。もちろん、中世においては防御性が最優先されるわけで、そこに城下町を擁することは付随する属性でしかなかったかもしれません。しかしながら、近世以降城が都市を統括・管理する行政機能を有することになってからは、そこは権威者の居所であり、また地域にとってはその町のランドマークとしてシンボライズされる側面が少なからずあったのではないかと想像します。近代以降はそうした地域のよりどころとしての役割がさらに大きくなったのではないでしょうか。そう思いますと、城山公園から俯瞰するのびやかな市街地の風景がほんとうに美しく、またかけがえのないものであるように感じられます。高度経済成長期以降、工場の誘致や県都宇都宮都市圏との結びつきの強化で着実な成長を遂げてきた真岡の町は、この穏やかな佇まいのなか、やすらぎに満ちた地域として歩んでいくこととなるのでしょうか。先にお話した綿の座繰機をモチーフにした街灯と、実をつけたかりんの街路樹が穏やかな通りを東へ、市役所への帰路を歩きながら真岡の未来を考えていました。

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