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関東の諸都市・地域を歩く


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#27 土浦市街地をめぐる 〜県南に光る中心性〜

 土浦市役所は中心市街地の南、桜川を挟んだ高台にありました。霞ヶ浦に向かって緩やかに展開する平地とそれを穏やかに取り巻く台地の連なりは、関東平野東部において広く見られる地形です。市役所下の道路を北へ、都心へのアクセス性からか高層マンションが建設中の街路を進み、車両の通行ができない匂橋を越えて、中心市街地へと入っていきました。桜川は霞ヶ浦への川口が近いこともあって、川幅も広く、緩やかに水のラインをつくっています。橋の上から眺める市街地のスカイラインも、頭上に広がる大空も、どこまでも爽快で、屈託のない輝きに溢れているように感じられました。桜川左岸の桜町地区はある方面では名の知られた街区であるようですね。

 土浦駅から西へ延びる大通りとなっている県道土浦境線を、駅方向へと進みます。駅前にさっそうと登場した超高層マンション「プレミアムレジデンス」が屹立する中、穏やかな町屋などを含んだ商店街は次第に密度を上げていきます。駅前は、再開発ビルとして建設された複合商業施設「ウララ」を中心として、バス乗り場やペデストリアンデッキなどが整然と整備された空間となっています。人通りも多く、ここだけ見れば活気があるように見える土浦駅周辺も、地域の視点からは懐疑的な評価も少なくないようです。再開発ビルの完成の後に、丸井、西友、小網屋(地元資本)という3つの百貨店及び大型スーパーが閉店に追い込まれていることとの関連です。土浦市は茨城県南部の広域的な拠点都市として、人口規模(約14.3万人)では計りきれない中心性を有する都市として、現在の都市基盤を築いてきました。茨城県南部地域を管轄する行政機関の多くは土浦に置かれています(自動車ナンバー「土浦」もその例ですね。いわゆるご当地ナンバー制度の導入により西半分が「つくば」ナンバーになる見込みですが、登録事務所自体は土浦・つくば両ナンバーとも土浦にある事務所の所管です)。ご案内のとおり、近年は土浦市の西に研究学園都市を母体とした「つくば市」が成立し中心性を高め、郊外型商業構造の成長に、「つくばエクスプレス」の開業も重なって、つくば市の拠点性はますます向上しているようです。駅前の繁華な様子からはピンとこなかったものの、土浦へのそうした見方の意味が次第に明らかとなっていきます。

桜川

桜川から市街地を望む(匂橋より)
(土浦市下高津一/桜町二、2006.10.9撮影)
土浦駅方向

県道土浦境線・土浦駅方向
(土浦市桜町二丁目、2006.10.9撮影)
ウララ

土浦駅前・再開発ビル「ウララ」
(土浦市桜町一丁目/大和町、2006.10.9撮影)
ウララ北側

ウララ北側、亀城通り方面
(土浦市大和町、2006.10.9撮影)
土浦ニューウェイ

土浦ニューウェイ
(土浦市中央二丁目、2006.10.9撮影)
土浦城下絵図

亀城公園内・土浦城下町絵図表示板
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)

 ウララの北、キーテナントとなって駅前に残ったイトーヨーカ堂の周辺もまた駅前再開発の効果かきれいに整理されています。周辺ではマンションの建設が進められている場所もあります。程なくして、高架道路「土浦ニューウェイ」が道路の上に合流してまいります。1985(昭和60)年に開催された国際科学技術博覧会(つくば万博)に併せて計画された新交通システムのルートの一部として使用する予定であったものの、それが頓挫したために、シャトルバスなどを通す道路として同年完成しました。万博終了後は自動車専用の一般道路となっています(通行は無料)。現代的な高架道路が通過する様子は、この規模の都市にあっては稀有な景観です。ニューウェイが通過する下にショッピングモール「モール505」があります。そして、土浦城跡である亀城公園に向かって商店街も形成されています。アーケードも敷設された商店街は、空き店舗も多く、人通りもまばらです。周辺はマンション建設などの住宅供給が盛んであるために、どこかミスマッチが感じられます。

 土浦城の別名から名づけられた亀城通り(国道125号線)を進み、中央一丁目の交差点へと至ります。ここで亀城通りと交差する道路は旧水戸街道を承継する道筋です。交差点から西へ入った旧中城町界隈は、江戸天保年間(1830〜43年)建築と推定される茨城県内でも屈指の重厚さを誇る町屋建築「矢口家住宅」をはじめ、土浦まちかど蔵・大徳などの豊かな風合いを残した建造物が数多く立ち並んでいまして、歴史的な風情を演出しています。内堀を公園の水辺として再活用した亀城公園は、土浦市街地のシンボル的なスポットです。公園中央に残る太鼓櫓は1656(明暦2)年に城門を改築したものであるそうです。公園内には東櫓と西櫓の建物もそれぞれ復元されていまして、現代的な公園の中に城下町時代の面影を今に伝えています。土浦城は平安時代、平将門がここに砦を築いたことに始まるともいわれ、戦国時代(永享年間[1429〜40年])に若泉氏により築城されたものが現代に直接つながる土浦城の初出となります。後に信太氏、菅谷氏と城主の変遷を経て、織豊期には結城秀康の支配下、藩政期は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わるなど、めまぐるしい経過を辿りました。土屋政直が再び入城し、以後明治維新に至るまでは土屋氏(9万5000石)の居城となていました。明治以降は、本丸跡は土浦県庁、新治県庁、新治郡役所、自治会館などに利用された後、現在は二の丸跡の一部とともに亀城公園となっているものです。「亀城(きじょう)」とは、多くの堀によって取り囲まれた城が水に浮かぶ亀のように見えたところからそう呼ばれたとのことです。現在の亀城通りからモール505へ至る緩やかなカーブはかつての堀をベースにしているようで、中世築城時までは桜川の流路であったのだそうです(築城に伴い桜川の流路が付け替えられた)。

矢口家住宅

矢口家住宅
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)
旧水戸街道

旧中城町(旧水戸街道)の景観
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)
太鼓櫓

亀城公園・太鼓櫓
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)
亀城公園

亀城公園・内堀
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)
西櫓

亀城公園・西櫓(復元)
(土浦市中央一丁目、2006.10.9撮影)
旧本町

旧本町・直角に曲がる街路
(土浦市中央二丁目、2006.10.9撮影)

 中央一丁目交差点に戻り、旧水戸街道筋を北へ進みます。このルートは国道354号線となっています。街路が直線的ながらも時折直角に折れ曲がる形態をとったり、右に左に小刻みに折れ曲がっていたり(鉤の手)していまして、城下町の都市構造が垣間見られます。明治期から大正期、昭和初期にかけても繁華な商業地であったであろうことも、町屋やモダンなテイストを残す商店の佇まいなどに認めることができます。新川手前には、市指定史跡の「北門の跡」の石碑があります。水戸街道北の守りとして、門内側のS字の街路とともに重要な役割を果たしたという堅牢な門は、明治初めに撤去されたのだそうです。往時の建造物は残存していなくても、街路網は驚くほど城下町時代のそれを如実に残していまして、城下町としての歩みと風情とを感じさせました。関東鉄道本社のある場所は、かつて関東鉄道筑波線の新土浦駅があった場所と符合するようです。廃線跡は「つくばりんりんロード」の愛称でサイクリングロードして供用されているようでした。
その後亀城公園の北西を通過する国道を戻り、旧水戸街道が大手町地内を経由しながら旧中城町から旧田宿町へクランク状に続く部分を受け継ぐ街路を通って、ニューウェイをくぐって市役所方面へと向かい帰路に就きました。

 土浦は明治期における郡役所や県庁の立地をみてきたように、近代以降も茨城県南部の広域的な拠点都市として中心性を持つ都市でした。東京大都市地域への通勤圏の外縁部に位置することから衛星都市的な部分も加えた土浦は、圧倒的な都市基盤を有しながらも、近隣の新興都市群の台頭やモータリゼーションによる郊外化の進展等による影響を受けて、自らの立ち位置を模索している状況下にあるように感じられます。土浦の中心性について本稿冒頭部分ではやや消極的な評価を行った部分があります。実はそのことは私が町を歩いた実感とは少し異なっています。実際は、超高層マンションを含む相次ぐマンション建設や駅前の繁華な様子、亀城公園及び周辺旧市街地の昔ながらの穏やかな街並みに触れて、土浦の都市としての並々ならぬ凄みを強烈に感じ取ったフィールドワークでした。しかしながら敢えてこのような書き方をしたことは、土浦の町の現状についてそのような評価を行っているサイトが少なくなかったことも加味しています。土浦の町に暮らし、土浦の町が今よりももっと輝きを誇った時代を知る地域の皆さんの、土浦への強い愛着、愛情がこもった危惧であるのかもしれません。土浦の力はそのようなものではない。茨城県南地域にきら星のごとく中心性と歴史性。それは後にも先にも土浦でしか実現し得ないものであると信じます。

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