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関東の諸都市・地域を歩く


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#41 草加の町並み 〜日光街道筋を辿る〜

 2007年11月4日、初冬の草加市街地は快い青空の下にありました。自動車を駐車した草加市役所の周辺は戸建ての住宅や商店が密集する中に中層のマンション建築も多く認められ、ここが東京に至近の土地であることを改めて実感させます。市役所が東側に面する道路は旧日光(奥州)街道筋で、市役所の敷地の東南に佇む地蔵堂は旧草加宿の南端であったといわれています。草加宿は千住宿に続く日光街道筋の2番目の宿場でした。近世初頭、江戸と奥州各地とをつなぐ街道は、千住から越ヶ谷までの間が低湿地が多く通行に不向きであったため、河川に沿って大きく迂回をしていました。やがて交通量の増加に伴い幕府は両宿場間を最短で結ぶ新道を整備し、その中間に近隣の村々からなる新しい宿(草加宿)の設置を命じました。一説には1606(慶長11)年に、宿篠葉(しゅくしのは)村の大川図書という人物が人々と相談し、刈り束ねた草を土につき固めて街道を造ったのが日光道中や草加宿の始まりで、草加の地名もこの「草」を「加」えたところからきているともいわれているのだそうです(草加市ホームページの記述を一部参考にしました)。

 旧街道筋を北へ進みます。周囲は中層のマンションが林立しながらも、蔵や町屋造りの建物が意外と多く立地していまして、低層の雑居ビルや個人商店などのつくる下町的な商店街の景観にそれらが溶け込んで、どこか懐かしい雰囲気を感じさせるような印象です。名物の「草加せんべい」を売る商店もいくつか認められました。草加市街地を貫通する道路は、1937(昭和12)年に開通した県道足立越谷線(県道49号、後述の草加バイパス開通に伴い、1973(昭和48)年に国道から県道に降格)へシフトし、さらに1967(昭和42)年に市街地西方に完成した国道4号草加バイパスへと移り変わりました。そうした早くから幹線道路としての役割を終え、中心市街地におけるローカルな道路への位置づけとなった変遷が、草加における昔ながらの宿場町の雰囲気を今に伝える一要素となっているようにも思われました。

地蔵堂

市役所前の地蔵堂
(草加市高砂一丁目、2007.11.4撮影)
市街地

草加の市街地景観
(草加市高砂一丁目付近、2007.11.4撮影)
草加駅前

東武伊勢崎線草加駅前“AKOS”
(草加市高砂二丁目、2007.11.4撮影)
草加市街地

草加市街地の景観
(草加市住吉一丁目付近、2007.11.4撮影)

 東武伊勢崎線・草加駅へと近づきますと、町並みは急激に現代化されて、駅を軸とした再開発の過程が如実に現れてきます。駅東口は再開発事業により町並みが整備され、AKOS(アコス;「Akro of Soka」(草加の核)の意味。草加のローマ字表記「SOKA」を逆にした形に意味を加えたものでしょうか?)と呼ばれる再開発ビルが1992(平成4)年2月に、丸井とイトーヨーカドーを各店舗として開業しています。駅前ロータリーの中央には、「草加岩清水」と呼ばれる独特の形状をした噴水があり、せんべいを焼く女性「おせんさん」の像など、現代的ながらも草加の地域性を感じさせるモニュメントが配置されていました。

 再び日光街道筋の商店街に戻り、穏やかな町並みの中を進みます。歩道が緑色にカラーリングされ、このあたりは南から北への一方通行路となっていまして、道幅が相対的に狭いながらも、やや落ち着いて町を散策することができるように思われます。電線が道の両側に絡みつくように進み、高度経済成長期以降立てられた商店や事業系の建物が並ぶ、ともすれば雑然とも感じられるような風景を、スプロール的に建築された中層のマンションが間に入ることにより、「中心市街地景観」としての一形態が完成しているように見えてしまうのもどこか不思議な感覚です。もちろん、そうした効果が生まれるのも、現代の町並みの中に残されている町屋風の建築物が健在であるためであることは言うまでもありません。新しいマンションの前がセットバックされ、街路樹を植栽して一定の空間を生み出す工夫がなされていることも特筆されます。

神明宮

神明宮
(草加市神明一丁目、2007.11.4撮影)
札場河岸

札場河岸
(草加市神明二丁目、2007.11.4撮影)
草加松原

草加松原
(草加市神明二丁目、2007.11.4撮影)
草加松原

草加松原・望楼より俯瞰
(草加市神明二丁目、2007.11.4撮影)

 町並み修景事業の一環として設置された「おせん茶屋」と呼ばれる小公園や、草加市街地にあって大きな伽藍を備える東福寺、宿場町の北端に鎮座する宿の鎮守・神明宮の杜を概観しながら進みますと、街道筋は自動車の通りが繁華な県道に合流し、県道と綾瀬川とに挟まれた「草加松原」へと誘われます。綾瀬川舟運の船着場であった「札場河岸」は石段が復元され、往時の雰囲気を偲ぶことができるようになっていました。江戸時代より名勝と謳われてきた草加松原は、現在緑あふれたたおやかな散策路として、変わらぬ松並木が行く人を迎えています。松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭、「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」にちなんで名づけられた太鼓橋の「百代橋」や望楼など、特色ある景観が松原に溶け込んでいました。

 市民に寄って復原・維持されてきたという草加松原の緑は、宿場町の面影を今に伝える草加の町並みとともに、現代都市の中に豊かに息づいているように思われました。草加市街地では、「今様・草加宿」をテーマとして、町のオリジンである日光街道筋と草加宿の姿を現代のまちづくりに活かす取り組みが進められているようです。現代都市の利便性を保ちながら、草加の町が近世以来紡いできた歴史性をまちのうるおいとしていく姿はたいへん興味深いものであると感じましたし、フィールドワークの中でも随所にそのエッセンスを感じることができました。松原団地駅に向かい、自家用車を止めた市役所までの帰路に利用した東武線からの景観は大都市圏近郊の都市の姿そのもので、草加のまちの懐の深さをかえって印象づけているようにも思われました。

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