Japan Regional Explorerトップ > 地域文・関東甲信越地方 > 関東の諸都市地域を歩く・目次

関東の諸都市・地域を歩く


#42(吉川編)のページ

#44(伊勢崎編)のページへ→

#43 春日部市街地をめぐる 〜日光街道筋に栄えた宿場と水運の町〜

 2007年11月4日、草加、吉川と巡ってきた私は、自家用車を走らせ、夕闇の迫る春日部市街地へと到達しました。緩やかにカーブを描く市役所の建物はオレンジ色の夕日をいっぱいに受けて、周囲の市街地の夕景を映していました。区画整理によって街路が整えられた市役所周辺は、業務系と住居系の建物が比較的ゆったりと展開しているエリアで、新興市街地の典型的な姿を呈していました。駅前へ続く目抜き通りは人通りも多く、飲食店も多く立地していまして、ここが東京大都市圏の拡大において現役で成長過程にある駅前であることを感じさせました。埼玉県東部エリアの主要幹線のひとつである東武伊勢崎線と、東京大都市圏外縁の環状交通の一端を担う東武野田線の結節駅としての拠点性も大いに影響しているように思います。

 春日部駅周辺の住所地名を見ますと、市名が「春日部」の表記であるのに対し、主として駅の東口側に展開する住居標示が「粕壁」の表記をとっていることが特徴的に目に映ります。読みはともに「かすかべ」です。この「春日部」や「粕壁」はこの土地が時代の変遷の中でさまざまに表現されてきた表記のひとつで、大まかに跡付けますと、元来は「春日部」で、近世に日光街道の宿場町が栄えた時代には「粕壁」となりそのまま近代を迎え、1944(昭和19)年に当時の粕壁町と内牧村が合併する際に表記が「春日部町」となり今に至っているもののようです。その一方で住所地名の「粕壁」の方はそのまま受け継がれて、今日の「春日部市粕壁」などの住居表示に生きているということのようです。


春日部駅西口

春日部駅西口
(春日部市中央一丁目、2007.11.4撮影)
春日部駅東口

春日部駅東口
(春日部市粕壁一丁目、2007.11.4撮影)
道標

田村家と道標
(春日部市粕壁東二丁目、2007.11.4撮影)
大落古利根川

大落古利根川と春日部市街地遠景
(春日部市粕壁二丁目、2007.11.4撮影)

 春日部駅は2路線が交差する構造もあって利用客の多い駅であるものの、地上駅でかつ駅の東西を結ぶ自由通路もないことから、乗換や駅の東西の往来には相当な迂回を要するようで、高架化等の利便性向上を求める声が多いようです。歩行者は駅前から浅草方面に約200メートルの場所にある地下道によって駅の東西を行き来する必要がありました。新興市街地である西口に対し、東口は先述のとおり日光街道の旧粕壁宿を基礎とした、春日部の伝統的な中心市街地が展開しています。駅舎が比較的簡素で平面的なつくりとなっており、また駅前広場もコンパクトで周辺に高い建物が多くないことも相まって、行き交う人々の多さの割にはゆったりとした穏やかな都市近郊の駅前といった表情を見せていました。

 駅前の大通りを北北東方向に進み、旧日光街道筋である県道を横断して歩きますと、程なくして大落古利根川に架かる大利根公園橋へと至ります。橋にはアーチ状のモニュメントや多くの彫刻が設置されて、町を美しくシンボライズしています。古利根川に設けられた水運によって成長した粕壁の町並みは、ゆるやかに水をたたえる古利根川に寄り添うように展開しています。旧日光街道筋に戻り、町並みを散策します。県道沿いは駅前と比べてマンションや店舗などが入る中層の建築物が多く、現代的な町並みとなっていることが印象的です。近年では空間的に広がりがある西口の成長が目立つものの、東口の都市的な密度は、近隣の多くの都市の中心市街地と比較しますと十分な規模を保っているように見受けられます。これはひとつには東西の流通性が十分でない春日部駅が東口エリアにとってエッジとして機能し、相対的に東口の商業機能の維持に関係しているのではないかとの憶測も成り立つような気がいたします。

粕壁の町並み

旧粕壁宿、ロビンソン百貨店前
(春日部市粕壁東一丁目、2007.11.4撮影)
粕壁の町並み

旧粕壁宿、文化会館前交差点付近
(春日部市粕壁東一丁目、2007.11.4撮影)
粕壁三丁目付近

粕壁三丁目付近の景観
(春日部市粕壁三丁目、2007.11.4撮影)
最勝院

最勝院
(春日部市粕壁三丁目、2007.11.4撮影)

 現代的な町並みの中にも、土蔵造りの蔵も多く点在していまして、宿場町や河岸として存立し、近現代を生きてきた粕壁の歴史的な雰囲気も多く残されています。そんな歴史的な要素を象徴しているのが、田村家前に建てられている道標です。1834(天保5)年2月に刻まれたこの道標には、「南西い八つき(岩槻)」「北日光」「東江戸 右乃方陸羽みち」と記されていまして、粕壁が当時から重要な交通の結節点であったことを今に伝えているようです。マンションや業務系・商業系の建物の集積性は、市街地のほぼ中央に立地するロビンソン百貨店や市民文化会館辺りを中心として、駅前側よりはむしろ国道4号方面の方が相対的に高いように感じられるのは、春日部市周辺が大都市圏に近接し相対的に自家用車による移動の一定の制約性が存在するエリアから、自家用車による移動の卓越する大都市圏郊外エリアへと移り変わる遷移的な位置づけにあることを反映しているのかもしれないと思いました。

 日も徐々に落ちた薄暮の粕壁の町を西北西へ再び駅前方向に戻り、駅へと続く大通りを横断して旧街道筋の西側へと歩を進めました。このエリアは大通りの広さに比して町並みはやや落ち着いた風情で、粕壁宿の歴史的な雰囲気がより濃厚に残されているように感じられました。街道筋の西端には、最勝院が佇みます。付近にはこの最勝院のほか、妙楽院、成就院、玉蔵院、普門院などの寺院が鎮座し、粕壁の町では寺町と呼ばれる家並みであったようです。最勝院西側の墳丘は、南北朝期にこの地域を治めた春日部重行を葬ったものと伝えられ、春日部重行はこの地域の呼び名「かすかべ」の由来となったともいわれているようです。この穏やかな佇まいを見せる寺町では、再開発事業が進められており、そうした景観に大きなインパクトが加わろうとしているようでした(この文章を書いている2009年7月現在では、26階建て超高層マンション「BELISTAタワー春日部」と、公共公益複合施設(保育所・子育て支援センター等の公共施設と、民間のスポーツクラブが入居する複合施設)が完成しています)。

市役所への帰路は、地元では「大踏切」と呼ばれる、県道2号(さいたま春日部線)の踏切を経由し西口方面へ向かいました。ひっきりなしに通過する電車のために度々遮断機が下りる「開かずの踏み切り」として知られる踏切の前では、多くの人々や車両が足止めをされていました。将来的に線路が高架化され、鉄路による隔離性が取り払われたとき、春日部の市街地、特に駅を挟んだ東と西の諸地域はどのような変遷を経るのか、現在の両地域の趨勢や、再開発事業との関連も含めて、たいへん興味のあるところです。

#42(吉川編)のページ

#44(伊勢崎編)のページへ→

関東を歩く・目次へ    このページのトップへ    ホームページのトップへ

Copyright(C) YSK(Y.Takada) 2009 Ryomo Region,JAPAN