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関東の諸都市・地域を歩く


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#44 伊勢崎市街地のすがた 〜市街地の変遷を読み解く〜

 2008年1月3日、2008年最初のフィールドワークを地元太田市に程近い伊勢崎市街地でスタートさせました。午後からの行動でしたのであまり広範囲の移動はせず、市役所から新伊勢崎駅前を通り、伊勢崎駅前を通過しながら中心市街地をめぐりつつ市役所へ戻るという行程となりました。市役所ではこの年の秋の完成を目指し、庁舎東側に「東館」の新築工事が進められていました(2008年11月に開館、2009年8月現在は、1968年竣工の本館の耐震改修工事が施工中)。市役所は中心市街地を南に迂回するバイパス道路に面して建てられており、高度経済成長に伴って手狭になった市役所が中心市街地からこの場所へ移転してきたストーリーが想起されました。後に調べてみますと、果たして、伊勢崎市の旧市役所は中心市街地の西友のあった場所にあったようです。

 市役所東の信号を北へ、国道462号から県道14号へとつながる細い北北西〜南南東の道路と、区画整理により整然と画された新造の道路とが交錯する道路を北へ進みます。周辺は概ね住宅地の中に低層の事業所や商店が点在する風景で、ここが市街地化された歴史が相対的に浅いことが垣間見えます。アイオー信用金庫前まで来ますと徐々に市街地の密度が増して、中心市街地としての景観が次第に整ってまいります。この交差点を東へ進むと、市役所への最寄となる東武伊勢崎線・新伊勢崎駅です。付近にはマンションの立地も認められる一方で、駅舎は小ぢんまりとした寄棟の建物で、行き交う人々も少なく、広大な駅前広場がかえってその清閑振ぶりを強調していました。駅前には多くの自転車が駐輪されており、主に学生などによって、朝晩を中心に多く利用される光景が目に浮かびました。

新伊勢崎駅付近

東武伊勢崎線・新伊勢崎駅付近の景観
(伊勢崎市中央町、2008.1.3撮影)
本町四丁目

本町通り(本町四丁目交差点、西方向)
(伊勢崎市本町、2008.1.3撮影)


西友付近の景観(現在は閉店)
(伊勢崎市本町、2008.1.3撮影)
JR伊勢崎駅

JR伊勢崎駅
(伊勢崎市曲輪町、2008.1.3撮影)

 新伊勢崎駅前を後にして、ベイシアとNTTの間の街路へと入りました。付近は一般の商店は比較的少なくて、モルタル壁の切妻の工場や倉庫のような建物や、駐車場などが立地していまして、ここが古くからの中心市街地の外縁にあたり、近代以降は主に産業的な土地利用が先行した地域であったように見受けられます。その推測が正しいとしますと、あるいはそれゆえにベイシアなどの大型店舗が立地しやすい条件が整っていたのかもしれません。このことは、伊勢崎市の産業とも大いに関連がありますので、後に触れることにしたいと思います。ベイシア前を再び北へ折れ、県道2号(本町通り)に出ますと、そこは「古河街道」とも呼ばれた伊勢崎市街地の目抜き通りとなります。通りには商店が軒を連ねていまして、商業地としての一定の集積性も十分です。本町四丁目の交差点を北に少し入った場所には、先述した市役所跡地に誘致されたという西友が立地しています(註:西友伊勢崎店は2009年3月に閉店)。

 西友前から北へ進み、伊勢崎線の踏切手前あたりに一部だけ拡幅された道路のあるあたりから西へ入り、JR伊勢崎駅方面へと歩きます。JR伊勢崎駅周辺は鉄路の連続立体交差事業とともに大規模な市街地再開発事業が展開される予定のようで、空き地や新築中の住宅、既存のやや古い住宅地や事業所などがモザイク上に分布する住商工混在地域の体をなしていました。JR伊勢崎駅前への県道沿い及びその周辺も小規模ながら商店街が形成されていまして、タクシーや一般車両の駐車場のような形状の駅前広場の前に、中央西側に塔屋状の構造を有する寄棟のJR伊勢崎駅の駅舎が穏やかな姿を見せていました。簡素な洋風建築の駅舎は1934(昭和9年)の竣工で、同時期、両毛線の主要駅にいっせいに採用された駅舎であったそうです。現在は多くが高架化等により解体または移設されて、両毛線内で残されたこの種の木造駅舎は、主要駅では伊勢崎駅と足利駅を残すのみとなっているのではないかと思われます。この伊勢崎駅も前述のとおり高架化事業が進行中です。

武家門

同聚院山門「武家門」
(伊勢崎市曲輪町、2008.1.3撮影)
旧時報鐘楼

旧時報鐘楼
(伊勢崎市曲輪町、2008.1.3撮影)
広瀬川と赤城山

新開橋から見た広瀬川と赤城山
(伊勢崎市若葉町/曲輪町、2008.1.3撮影)
本町通り

本町通り(本町二丁目交差点〜本町三丁目交差点間、西方向)
(伊勢崎市本町、2008.1.3撮影)

 駅周辺の住居標示は「曲輪町(くるわちょう)」。曲輪とは、城や砦の石垣などで囲まれた内側の区画を示す言葉で、城下町や城跡などによく見られる地名です。伊勢崎市街地は中世以降現在の市立図書館や北小学校のある一帯に成立していた「赤石城」と「呼ばれる城郭がありました。藩政期にはその場所に陣屋が置かれて、いわゆる城下町としての町場が形成され、今日の伊勢崎市街地の礎が築かれたものと思われます。駅前の交差点を西に入り、曲輪町一句公民館前を過ぎて、「武家門通り」と呼ばれる細い街路を南に入ると、程なくして「同聚院(どうじゅういん)の武家門」前へと到達します。寺院の山門としては珍しく武家屋敷に見られる薬医門の形式をとるこの門は、同院の寺域が元来郭内にあたり、伊勢崎藩の初代藩主であった稲垣長茂の屋敷門であったと推定されるのだそうです。伊勢崎に残る最古の木造建築物です。北小学校の南には旧時報鐘楼が復元されています。1915(大正4)年に、横浜の貿易商・小林桂助(伊勢崎出身)が建造したものがそのルーツとなっています。

 旧時報鐘楼の南には伊勢崎織物会館の敷地があります。伊勢崎は古くから養蚕業と機業が発達し、近代を「伊勢崎銘仙」によって知られる一大織物産業のまちとして過ごしました。その隆盛は現在のJR両毛線の前身となる路線が桐生や足利といった機業地を結んで明治期にいち早く整えられたことに寄っても窺い知ることができます。伊勢崎市街地が持つ今日の集積性を持つ都市としての基盤は、まさにこの時期の工業都市としての成長によるところが大きいといえるのでしょう。広瀬川越しに夕日に映える赤城山の風景を見ながら本町通りを東へ進みます。正月三が日ということもあるのかもしれないものの人通りの少ない歩道と、対照的に渋滞の続く車道とのコントラストは、厳しい現状に直面した中小都市の中心市街地の例に漏れないことを如実に示しているように思われました。しかも、人通りのまばらな様子と不釣合いな町並みの重厚性は、伊勢崎の市街地が高度成長期の中葉まではその趨勢を保っていて、70年代以降急速に進行したモータリゼーションとそれに付随した商業の郊外化によって急速に現在の状況に追い込まれてきたのではないかと推測いたしました。

 近年は前橋市へと続く駒形バイパス沿線の郊外型商業地域や、相次ぐ巨大ショッピングモールの開店により、自家用車による郊外型のライフスタイルがさらに加速され、定着化されつつあるようにも思われます。現在伊勢崎駅を中心とした連続立体交差事業に伴う再開発事業が進捗しています。ここでいかに伊勢崎らしいまちづくりが進められるかが注目されるという、使い古されて久しい表現をとらざるを得ないのが少々心残りに感じられます。夕闇迫る市街地から伊勢崎市役所へ戻る帰路、伊勢崎市街地が経た変遷に思いをめぐらせながらふと思いついた率直な感想でした。

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