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関東の諸都市・地域を歩く


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#47 桶川から北本へ 〜中山道に連接した市街地群〜

 2008年1月19日、埼玉県桶川市から北本市へと至る行程のフィールドワークを行いました。前項の上尾から北へ、旧中山道筋を進んだ格好となります。中山道のルートを承継しながら現在は旧街道筋の東を併走する国道17号のほか、鉄道網においてもJR高崎線が並行しておりまして、旧街道筋と幹線鉄道網とが別セクターをなしている旧奥州街道(日光街道)筋とは対照的です。そのため、ほとんどの市街地は中山道の旧宿場町やその間の宿をその成長の端緒として持っています。旧宿場町が成長した上尾の市街地から北へ、次の宿場であった桶川までの間は、現在の幹線交通たるJR高崎線に沿って住宅地化が進み、現代都市としての市街地景観が連続していきます。

 フィールドワークをスタートさせた桶川市役所は2階建ての建築から相当の年月を経たと思われる小ぢんまりとした印象の建物で、中央の駐車スペースを取り巻くようにコの字型に展開する数棟の庁舎は、建築後の需要増によって建て増しが行われていったものでしょうか。桶川市のホームページ等から得られる情報では、最も古い北側の庁舎は1960(昭和35)年竣工とのことで、市では新庁舎建築に向けての検討も行った経緯があるようです。市役所は旧桶川宿を基盤とする中心市街地からはJR線を挟んで反対側(西側)に立地しています。市役所建設当時は建物もまばらな市街地外縁部に建てられたかもしれない市役所は現在、周囲が新興住宅地域へと変貌した中、老朽化と狭隘化の進む姿を見せていまして、この地域における都市化がいかに急激なものであったかをかえって物語っているかのようにも感じられます。跨線橋を超えて東側にある桶川小学校の北側には、桶川宿北端の「上の木戸」付近に建てられていたという「松山道道しるべ」が佇みます(松山は現在の東松山市のことですね)。

桶川市街地

桶川市街地の景観
(桶川市西一丁目付近、2008.1.19撮影)
桶川市街地・小林家

桶川市街地・旧旅籠(小林家)の建物
(桶川市寿一丁目、2008.1.19撮影)
町屋造

旧穀物問屋(矢部家)、町屋造の建物
(桶川市寿二丁目、2008.1.19撮影)
桶川駅東口

桶川駅前通り(東口)の景観
(桶川市寿一丁目/南一丁目、2008.1.19撮影)

 程なくして到達する埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線が、かつての中山道筋を行くルートです。周辺で栽培された紅花や麦の集散地として栄えた桶川は、江戸から10里あまりと当時の人々の一日の行動距離にあたる場所に位置していることも相まって、宿場町として大いに栄えていたといいます。参勤交代制度確立直後の1637(寛永14)年に58件であった宿場の戸数は、幕末の天保年間(1840年頃)には347戸にまで達していたとのことです。現代の桶川の市街地は、片側一車線の車道に歩車道境界ブロックによる歩道があり、歩道から屹立する電柱に電線が張られる構造に街灯や街路樹が重なって、コンクリート造の店舗や住宅が統一感無く立ち並んでいまして、現代の中小都市が呈する市街地景観の典型であるように映ります。

 しかしながら、そんな町並みの中においても、往時の面影を残す本陣遺構をはじめ、かつては旅籠であった小林家や穀物や紅花の問屋として栄えたという矢部家の町屋造りの建物などもまた穏やかに残されているのも印象的でした(今回は訪れていませんが、市街地南側には現在も旅館として営業している「武村旅館」の建物も旧宿場町としての桶川を象徴する存在です)。中小の商店や住宅が軒を連ねながら中層のマンションも点在する景観は旧街道筋からJR桶川駅前まで伸びていきます。鉄道の開通で宿駅機能は失いながらも、鉄道駅と密接にかかわりながら一定の中心性を維持させてきたであろう桶川の近代史をそのまま髣髴させる景観であるように思います。橋上駅舎の東西連絡通路を通り到達した東口は、桶川マインや市民ホール・さいたま文学館、数棟の高層マンションなどを擁する現代的な景観が展開していました。

桶川駅(西口)

JR桶川駅前(西口)の景観
(桶川市若宮一丁目、2008.1.19撮影)
天神社

天神社
(北本市本宿二丁目、2008.1.19撮影)
多門寺

多門寺
(北本市本宿二丁目、2008.1.19撮影)
北本駅

JR北本駅前(東口)の景観
(北本市北本一丁目、2008.1.19撮影)

 桶川駅東口から公団住宅の間を抜け、整然と区画された住宅地を進んで市役所に戻り、北本へと向かいます。JR線より西に位置する市役所から東へ進み、線路を横断して県道164号へ出ますと、多門寺の交差点に至ります。交差点の東側には多門寺と天神社とが並んで佇んでおりまして、この地域の昔ながらの雰囲気を感じさせてくれます。多門寺にある樹齢200年という県天然記念物のムクロジの木は冬枯れの姿を夕焼けのオレンジ色の中に染めていた一方で、天神社の境内には紅梅の花がほころんでいまして、季節は春に向かって着実に歩を進めていることを感じます。桶川とは対照的にまとまった商店街のような集積性は無く、昔からの住宅や新しい店舗などがゆったりと展開する街道筋を南しながら本宿交差点にたどり着きますと、付近に「中山道 北本宿」と刻まれた石碑と、木製の表示板が整えられていました。

 「中山道と本宿(もとじゅく)」と題された説明版は、ここが江戸初期に中山道の宿場町が形成されるも程なくして宿場は現在の鴻巣位置に移ったこと、宿場の移転後は「本(元)宿村」となり、これが現在の「北本」の地名の由来となっていること(同郡内に「元宿村」があり区別するために「北本宿村」と「北」が付加され、「宿」の字が略された)、宿場の移転後もこの地域には茶屋が残り、「間の宿」的な位置づけとなって今日の北本の町並みの基礎となったことが記されていました。説明版には大正期や1960(昭和35)年頃の、中山道筋に植えられたという松並木が穏やかに残された古い写真も添えられていました。それらの写真たちが、そういった松並木がほぼなくなり、現代的な都市近郊の郊外地域としての景観が卓越するようになっても相対的に分散的な町並みを見せる北本の今とのつながりとどこか感じさせているようにも感じました。

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