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関東の諸都市・地域を歩く


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#61 鴻巣市街地散策 〜旧中山道・宿場町の面影〜

 2009年12月13日、埼玉県県央部に高崎線に沿って連接する都市群の1つ、鴻巣市を訪れました。群馬県東部に居住する私にとって、JR熊谷駅から都内へ出ることも少なくなく、鴻巣は熊谷に近接するまちとして比較的身近な存在です。地勢的には現在のさいたま市の中心市街地(大宮や浦和)が乗る洪積台地(大宮台地や北足立台地と呼ばれるようです)の北端に位置し、この南北に細長く伸びる台地上を進んでいた旧中山道の宿場町として栄えてきた端緒を持ちます。大宮台地を削って乱流を繰り返した荒川のかつての本流である元荒川にも程近い市役所に自家用車を止め止めて、宿場町を基礎に成長した市街地へと向かいました。



国道17号

(鴻巣市東三丁目、2009.12.13撮影)


けやき通りの景観
(鴻巣市本町二丁目付近、2009.12.13撮影)
鴻巣駅西口

JR鴻巣駅前の景観(西口)
(鴻巣市本町一丁目、2009.12.13撮影)
勝願寺

勝願寺
(鴻巣市本町八丁目、2009.12.13撮影)

 市役所のあるあたりは運動・文化施設や運転免許センターが立地し、住宅団地も形成されるなど新興の市街地景観を呈しています。市街地をバイパスする国道17号沿線は典型的な郊外型の商業立地が見られまして、高度経済成長期を経て市街地が台地上から低地へと次第に拡大してきた経過が見て取れます。市役所から市街地方面へは緩やかな上りとなっていまして、低地から台地上への高低の変化が実感できます。そして、主要交通路はなるべく水害が避けられる台地上を選んで取り付けられた経緯を感じ取ることができるわけです。また、郊外地域の市街化も必ずしも均質的に広がっているというわけではなくて、市街地、なかんずく鴻巣駅を中心に同心円状に展開しているようにも見えます。このことは、鴻巣市の成長が東京大都市圏への通勤や買物といった日常行動と少なからぬ関係があることを示唆します。

 鴻巣駅と市街地とをつなぐ「けやき通り」と名付けられた街路を進み、旧中山道を承継する県道164号へと到達しました。途中「ひな人形と花のまち こうのす市」と掲げられたアーチがあり、雛人形とパンジーのイラストが添えられていました。鴻巣は江戸期に京都・伏見の人形師が移り住み作り始めたことをきっかけとして、人形生産の中心としても知られるようになりました。また、花卉栽培も盛んで、市内には花卉市場も稼働しています。中心市街地へと進む前に、地域の都市軸の中心として機能しているJR鴻巣駅へ向かいました。鴻巣駅東口には比較的規模の大きいロータリーが整備されておりまして、再開発ビル「エルミこうのす」も完成し、現代的な駅前景観として整えられていました。駅の南、鉄路を高架で越える県道27号を越えた位置には、浄土宗勝願寺。冬の曇天下の午後、境内にはまったく人影はありませんでしたが、明治・大正期に再建されたという本堂や山門は重厚な雰囲気を醸していて、静かさがかえって寺院の荘厳さを際立たせているように感じました。

元市商店街

元市商店街の街並み
(鴻巣市本町八丁目付近、2009.12.13撮影)
人形町

人形町の街並み
(鴻巣市人形一丁目、2009.12.13撮影)
鴻巣市街地

鴻巣市街地の街並み
(鴻巣市本町二丁目付近、2009.12.13撮影)
鴻神社

鴻神社
(鴻巣市本宮町、2009.12.13撮影)

 勝願寺山門から旧中山道へ向かう参道的な街路を進んで旧道に出て、しばらく南進しますと、切妻平入りの町屋が点在する元市商店街をへて、人形町へと至ります。周囲の住居表示も人形(1〜4丁目)となっており、人形作りが地域の伝統として生きていることを実感させます。何より道路沿いには雛人形を取り扱う店が集まっていまして、年越しを前に羽子板を店頭に並べている店舗も見受けられました。日本各地の多くで全国規模にチェーン店を出す店舗が認められ、商店街の個性が徐々に失われてきている感のある現代において、こうしたローカルな産業が息づく様子に遭遇しますと、どこかあたたかい気持ちになれます。

 人形町の風景を確認しながら来た道を戻り、鴻巣宿を今に伝えるさまざまな町屋の姿を楽しみました。現存する建物の多くはおそらく近代に入ってからの所産がほとんどであろうと思います。しかしながら、そうした昔風の建物に高度経済成長期以降に建てられた現代の建築が混じりながら構成される市街地はどこか古くからの町場としての凄みを感じさせます。町並みの北には、鴻神社が鎮座します。1873(明治6)年に、近在の3社を合祀して造営された神社で、当初は社号を鴻三社としたものの、その後さらに鴻巣町内の神社を合祀したことから現在の名前へと改称したものであるようです。境内には鴻巣の地名の由来ともなっている伝説の説明が掲げられていました。それによりますと、昔木の神と呼ばれた大樹があり、人々はその何を避けるために供え物をしていたものを、ある時コウノトリがやってきて巣を作った。そこへ卵を飲み込もうと大蛇が現れたが、コウノトリは大蛇と戦い退散させたそうです。それ以降、木の神が人を害することがなくなったので、人々は木のそばにお宮を建てて、鴻の宮と呼び、この地を鴻巣と呼ぶようになったとのことです。

 鴻巣宿は1602(慶長7)年までは南の北本市内に位置していたものを、幕府の宿駅整備に伴い現在の鴻巣の場所に移された経緯を持つことは、以前の桶川・北本の項で触れています。上尾、桶川、北本、鴻巣、間の宿であった吹上そして熊谷と、中山道の宿駅であった地域がそれらの町場を基礎に都市を構成し、現代に及んでいることは、富国強兵を旗印に邁進した明治政府が主要輸出品であった生糸や絹織物を貿易港であった横浜へ輸送する必要から現在の高崎線に当たる路線がいち早く整備されたことが少なからず影響しています。東京大都市圏へのベッドタウンとしての地域性もある鴻巣の市街地が、新しさを伝統とをバランスよく保持していることは、存外この地域が持っているわが国でも希有なストロングポイントであるといえるのかもしれません。

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