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津から伊賀へ 
〜三重県、地域の多様性を見つめる〜

2020年2月24日、三重県の県庁所在都市・津市から伊賀上野へと回りました。
歴史的には「伊勢」と「伊賀」という別の令制国に区分された地域は、それぞれに豊かな地域性育んでいました。


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ページ公開:2022年5月30日

津市街地を歩く 〜安濃津にゆかりのある旧城下町〜

 2020年2月23日、滋賀県内の甲賀・日野を巡っていた私は、夕刻より三重県内へと移動して、日没前に県庁所在地の津市内、津駅前の投宿先に到達しました。JR線と近鉄線が乗り入れる同駅は県庁所在都市のそれとしては繁華街としての密度がやや小さいように感じられました。それは津市の中心部がここから南、安濃川を渡った橋内地区であり、津駅周辺エリアが自家用車利用が中心の地域柄にあって、域外への窓口としての位置づけが優位であることが影響していることを実感させました。そのため、ホテルや駐車場、全国チェーンの飲食店などが比較的多く立地しているのも頷けました。

お城公園

お城公園
(津市丸之内、2020.2.24撮影)
丑寅櫓

津城址・丑寅櫓
(津市丸之内、2020.2.24撮影)
お城公園

お城公園・お堀
(津市丸之内、2020.2.24撮影)
高山神社

高山神社
(津市丸之内、2020.2.24撮影)
津松菱

津松菱と国道23号
(津市丸之内、2020.2.24撮影)
岩田川

岩田橋から見た岩田川
(津市丸之内、2020.2.24撮影)

 津駅西口にあるホテルからは、窓の向こうに伊勢湾の水平線を間近に見通すことができました。その「近い」海へと続く穏やかな町並みに、この町が古来より重要な港として交流した「安濃津」のあった(と比定される)場所に存在してきたことに思いを馳せました。港湾としての安濃津は15世紀末に発生した明応の大地震と津波により壊滅したとされており、津の直接的な市街地の起源は、戦国期に安濃川と岩田川の間に築城された津城と、藩政期以降に大きく整備された城下町にあります。翌24日は、朝から車を駅前のホテルから津城に程近い市役所の駐車場へと移動させて、津市街地の散策から活動を始めました。現在の城跡は本丸を中心とした部分が残るのみで、本来は二重の堀を擁する堅牢な平城としてそれは存立していました。現在の市街地へと続く城と城下町を完成させたのは江戸時代に津藩主として入場した藤堂高虎で、高虎は参宮(伊勢)街道を城下へと引き入れて宿場町として機能させることで町場を繁栄させました。

 お城公園となっているかつての本丸跡は、石垣と土塁、復元された丑寅櫓、そして西半分に残る内堀がかつての面影を残す他は、日本庭園と西洋式の公園となって供されていました。周辺は市役所をはじめ、裁判所や警察署などが立地する官庁街となっていまして、東側を貫通する国道23号の大きさも相まって、現代的な県域中心都市としての都市景観が形づくられるエリアとなっていました。歩道にアーケードが架けられた国道を横断し、津松菱を一瞥しながら岩田橋の北詰を東へ、岩田川に沿って歩を進めました。津港へ続く県道は、やがて極楽橋に差し掛かります。橋が越える水路は一見して船泊のような形状の小さな入江のようになっていますが、これはかつて津城下町の東を画した堀川の痕跡です。堀川の大部分は埋め立てられ、そのわずかな残余が現在岩田川に面する小湾状の地形となって残されているのでした。さらに東へ歩きますと、伊勢湾に面した津港へと至りました。岩田川の河口近くに昔からの小さな港があり、外洋に面して新しい港湾である「津なぎさまち」が完成しています。港を背景とした家並みと漁船、そして伊勢湾に臨む現代的な埠頭の風景が交錯する景観は、この地域がかつて有数の港町として繁栄した歴史に思いを馳せました。

堀川跡

堀川跡
(津市東丸之内、2020.2.24撮影)
津なぎさまちの海岸風景

津なぎさまちの海岸風景
(津市なぎさまち、2020.2.24撮影)
津なぎさまち

津なぎさまち
(津市なぎさまち、2020.2.24撮影)
大門の風景

大門の風景
(津市大門、2020.2.24撮影)
津観音

津観音
(津市大門、2020.2.24撮影)
国道23号

国道23号・アーケードが連なる
(津市大門、2020.2.24撮影)

 津なぎさまちを確認した後は、港エリアと市街地とを連絡する大通りである「フェニックス通り」を西へ戻りました。現代的な町並みの中に、旧城下町特有の寺院がまとまった地区もあって、そうした痕跡を辿りながらの彷徨は、津市における歓楽街・繁華街として知られる大門地区へと及びました。津観音と呼ばれる恵日山観音寺大宝院(えにちざんかんのんじだいほういん)の門前に発達した町場です。一部が旧伊勢街道でもある門前の通りは歩行者専用道路になっており、改訂名散策を楽しむことができるようになっている一方、商店街としては斜陽化が否めない印象で、津観音の立派な結構を見通す町並みとしてはどこか物足りなさを感じさせました。かつては三重県下でも有数の繁華街であったようで、往時はアーケードも擁していたとのことです。

 現代の津市街地の大幹線である国道23号沿いへと戻り、アーケードが連なる市街地を辿りながら、自家用車を駐めていた市役所へと戻りました。多くの地方都市における都市構造の変遷の例に漏れず、モータリゼーションによる人流の変化やそれに伴う都市機能の多様化・分散化の影響が、この津の市街地においてもよく洗われていたように感じられました。


伊賀上野の町並み 〜上野城を中心とした古い家並みをゆく〜

 津市街地の散策を終えた私は、一路三重県西部の伊賀地方へと自動車を走らせました。伊賀エリアは三重県の中北部を占める旧伊勢国とは別の、伊賀国としてひとつの独立した令制国でした。そこが廃藩置県の過程で三重県の一部となったのは、伊賀国が津藩領でありその範囲がそのまま県に置き換わったことによるものです。藩政期は津藩初代藩主藤堂高虎が築城した伊賀上野城が拠点となり、城代家老が伊賀地域を治めていました。それほどに上野盆地一帯が他地域との一定の隔絶性があったということなのだと想像します。

旧上野市庁舎

旧上野市庁舎
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
伊賀上野城

伊賀上野城
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
伊賀上野城からの眺望

伊賀上野城より北側を眺望
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
伊賀上野城からの眺望

伊賀上野城から市街地を眺望
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
伊賀上野城・高石垣

伊賀上野城・高石垣
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
俳聖殿

俳聖殿
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)

 伊賀上野城に程近い、旧上野市庁舎に程近い駐車場に自家用車を駐めて、上野の市街地の散策を始めました。駐車場の近くには、旧上野市庁舎の建物が残ります。建築家・坂倉準三の作品として近代か建築としての価値が高い建築として保存に向けての取り組みが進む建物とのことですが、訪れた際は廃墟然とした雰囲気が異様な印象を受けました。木津川と支流の服部川のつくる台地上にある伊賀上野城跡である上野公園内を進みます。城跡に再建されている天守は、地元出身の政治家・川崎克氏が資材を投入して完成させたもので、1935(昭和10)年に落成しています。天守の上階からは、鈴鹿山地の南端へと続く山地の南に広がる上野盆地の低平な大地と、南に穏やかに展開している伊賀上野の市街地とを眺望できました。本丸の西側には日本で二番目の高さと言われる高石垣があります。その高さは約30メートルで、水面上はおよそ24メートル。大坂側を堅牢な石垣にしているあたりに、当地の地勢上の特質が見て取れるような気がいたしました。

 城跡は上野公園となって一般に供されていまして、緑豊かな園内には当地出身の松尾芭蕉を顕彰する八角堂である俳聖殿や、忍者博物館などの史跡・施設もあって、公園全体として地域の歴史や文化を体感できるようにもなっていました。上野公園を出て西側へ進みます。先ほどまでは見上げていた高石垣を堀越しに見上げながら、上野市街地散策へと歩を進めました。三重県内に現存する小学校校舎としては最古、1881(明治14)年建築の旧小田小学校本館の洋風建築を概観した後は、高架で町並みを縦断する国道163号をくぐり、「小六坂の竹林」の呼ばれる竹林へ。竹林には歩きやすい散策路が整備されていまして、開化寺や鍵屋辻といった史跡への快適なルートの一部となっています。鍵屋辻は日本三大仇討の一つとして知られる「伊賀越鍵屋辻の決闘」の舞台として知られ、上野城下西において多くの街道が収斂する交通の要衝でした。

伊賀上野城・高石垣

伊賀上野城・高石垣を望む
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
旧小田小学校本館

旧小田小学校本館
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
小六坂の竹林

小六坂の竹林
(伊賀市小田町、2020.2.24撮影)
開化寺

開化寺
(伊賀市小田町、2020.2.24撮影)
鍵屋辻

鍵屋辻
(伊賀市小田町、2020.2.24撮影)
坂道の見える風景

城下町西側、坂道の見える風景
(伊賀市上野西大手町、2020.2.24撮影)

 小六坂の竹林から鍵屋辻を経て、市街地の中心部へと歩きます。郊外エリアは上野盆地の低平な地形を反映して穏やかな田園地帯が卓越する伊賀ですが、上野の町は城を中心としたまさに「城下町」としての佇まいを色濃く残しています。鍵屋辻から城下町へと続く道は上り坂となっていて、町自体が周辺の低地よりも一段高い場所に開かれていることを実感します。金傳寺と浄蓮寺の間の路地を進み、切妻平入の昔ながらの町屋が点在する町並みを歩きます。虫籠窓や格子戸なども随所に認められまして、伊賀が畿内に程近く、その影響を多く受けてきたことを実感します。国道を渡り伊賀鉄道の列車を一瞥した後で東へ、伊賀上野城の西大手門跡の石柱を南に折れて穏やかな巷を歩きます。区画は概ね直線的に整理されていますが、所々に鉤の手やクランク状に曲がる場所もあって、防御を意識したつくりになっているのが印象的でした。

 廣禅寺から赤井家を経て、町の南の外れにあたる愛宕神社方面へ。町名の中には「上野忍町(しのびちょう)」と名付けられる一角があり、そこはかつて忍びの衆と呼ばれた伊賀者の屋敷があった場所であったことからの命名であることが解説されていました。愛宕神社の近傍には、蓑虫庵(みのむしあん)が残ります。芭蕉の門人・伊賀連衆の高弟、服部土芳の居宅です。芭蕉五庵とされる草庵の中で唯一現存するものであるそうで、その名は庵開きの祝いとして芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」に因みます。茅葺きで瓦葺きの庇がアクセントなっているその小庵は、穏やかな木立に囲まれていまして、周囲の現代的な市街地とは隔絶し、静謐な空気の下の佇んでいました。

西大手門跡

西大手門跡
(伊賀市上野丸之内、2020.2.24撮影)
赤井家住宅

赤井家住宅
(伊賀市上野忍町、2020.2.24撮影)
蓑虫庵

蓑虫庵
(伊賀市上野西日南町、2020.2.24撮影)
寺町の風景

寺町の風景
(伊賀市上野寺町、2020.2.24撮影)
愛染院

愛染院(芭蕉翁故郷塚)
(伊賀市上野農人町、2020.2.24撮影)
松尾芭蕉翁生家

松尾芭蕉翁生家
(伊賀市上野赤坂町、2020.2.24撮影)

 広く拡幅された県道を横断し、城下町東縁の寺町へ進みました。城下町の中心の堀跡あたりをたくみに通過し、城下町の東へと抜ける伊賀鉄道線に接するように城下の東側を占める寺町は、雲一つ無い春空の下にその甍を並べてしなやかな表情を見せていました。広小路駅付近から伊賀街道筋へ辿り芭蕉翁故郷塚のある愛染院、芭蕉生家を訪ねて、車を駐めた旧庁舎近くの駐車場へ戻りました。近隣には上野高校の本館や旧崇廣堂などの史跡もあって、藩政期から近世にかけて、上野の町の中心的なエリアとして存続してきた経緯も確認することができます。津から伊賀上野へ、かつての藤堂家藩領の町を辿ったこの日の道のりは、現代都市へと遷移した地域的な中心都市の新旧が色濃く残された姿を見つめることができたとともに、大阪と名古屋という大都市圏の狭間にあってそれらの影響を受けて県域単位の十分な都市圏が醸成されず、地域ごとに個性豊かな都市が存立する三重県の地域性を改めて実感させるものであったと思います。



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