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大阪ストーリーズ


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#15 富田林、寺内町を訪ねて 〜富田林と大ヶ塚を歩く〜

 2007年12月16日、南海電車に乗って到達した河内長野でのフィールドワークから始まった南河内探訪は、河内長野駅に達するもうひとつの電車である近鉄長野線を北上することによって次の展開へと向かいました。富田林西口駅で電車を降り、駅前のしっとりした商店街を貫く路地の彼方に見える白い特徴的な構造物を背にし、東の方向へ歩き出しました。駅前が少し広くなっている格好の国道170号を南へ進み、程なくして到達する富田林市役所前を東に細い道を進みますと、著名な富田林寺内町のエリアへと至ります。市役所から富田林小学校の東の道を南へ、保育園の南の道を東へ歩きますと、土地に微妙なアップダウンがあって、それは寺内町の立地場所として選ばれた天然の要害である河岸段丘に関連した地形や、周囲にめぐらされていたという土居のそれなどが反映された起伏ではないかと考えました。土居や掘割によって守られたこの寺内町へのルート上は四つの門があり、夜間は閉ざされていたのだそうです。西方寺の前を過ぎますと、いよいよ寺内町としての雰囲気を濃厚に残すエリアへと入ってまいります。

 関西の諸地域を歩いていて、現代の町並みの中に歴史を鮮烈に感じさせる多くの事物が、何の違和感も感じさせずにそこに存立していることについては、このホームページ上でもしばしばお話ししてまいりました。富田林寺内町は、そういった関西の地域性が最も輝かしく、そしてのびやかに現出されている地域のひとつです。穏やかな家並みの中を続く路地を進みますと、木塀の続く辻の一角に古めかしい道標が立てられているのが目に留まりました。傍らに設置された表示板によると、1751(宝暦元)年、東高野街道の道標として建てられたものであるとのことです。戦乱や百姓一揆の耐えない戦国時代、寺院を中心に建設された宗教自治都市は、江戸期には在郷町として大きく成長し、人や物の集まる南河内随一の都市となっていました。道標の碑文には「くわへきせる」や「ひなわ火」といった当時の旅人が携帯した火の気のある物品に対して注意を喚起する趣旨の文章が刻まれており、台地上の水の便が良くないこの地の防火意識が高かったことが知られるほか、その存在は富田林を多くの人々が行き交っていた証左であるともいえるのではないかと思われます。

富田林寺内町

富田林寺内町「あてまげのみち」
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)
富田林寺内町

富田林寺内町・旧杉山家住宅
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)
富田林寺内町

富田林寺内町・興正寺別院(表門と鼓楼)
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)
富田林寺内町

富田林寺内町・興正寺別院(表門と鐘楼)
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)

 道標の前を北へ、「富筋」と呼ばれる路地を進みます。切妻造・平入の穏やかなファサードが歴史を感じさせる上野家住宅から、向かいの仲村家住宅(大阪府指定有形文化財)、そして北西の旧杉山家住宅(国指定重要文化財)へと続く一帯は、古くからの寺内町の景観をよく伝えるエリアで、月並みに表現しますと、「タイムスリップしたような」町並みが広がっています。仲村家や杉山家は江戸期の有力な造り酒屋であったそうで、軒の高い本瓦葺き・表屋造の主屋が異彩を放つ仲村家住宅や、四層の屋根が豪奢な印象を与える旧杉山家住宅の佇まいは、往時の隆盛がにじみ出てくるような迫力さえ感じさせます。歴史的な修景保存が施された町並みには、いたるところに「あてまげのみち」と刻まれた石碑が建てられています。「あてまげ」とは、辻ごとに道を半間ずらして街路にクランクを与える構造のことで、これは町並みをまっすぐ見通すことができないことで外からの侵入者を防ぐ工夫のひとつです。

 あてまげの道を歩きながら、昔ながらの木塀や木壁の美しい町並みの中を進んできます。御坊町から城之門筋を経て、寺内町の中心に位置する興正寺別院へ。永禄年間(1558〜70)、証秀上人によって開発された宗教自治都市の中核に位置し、本堂は1638(嘉永15)年に、また書院や庫裏は1810(文化7)年に再建されたものながらも、寺域はほぼ最初の位置を保ち、昔語りの富田林寺内町をまさにシンボライズする存在です。土壁が堂々たる雰囲気を醸し出す表門は、切妻反り屋根の優美な姿がたいへん印象的で、両側に配された鐘楼と鼓楼も相まって、格調高い景観を形成しています。虫篭窓や高窓のある豪奢な装いの町屋の続く一帯を過ぎ、「堺町」と呼ばれる街路を東へ、穏やかな町並みを抜けて緩やかな坂道を下って、石川に架かる金剛大橋へと出ました。橋からはその名のとおり金剛山系の山並みが緩やかに眺めれました。

富田林寺内町

富田林寺内町・杉田家住宅を通し現代的な家並を望む
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)
石川

石川(金剛大橋より下流方向)
(富田林市富田林町/川向町、2007.12.16撮影)
金剛大橋

金剛大橋北詰より金剛・葛城山方面を望む
(富田林市富田林町、2007.12.16撮影)
大ヶ塚バス停

大ヶ塚バス停から集落の入口を望む
(河南町大ヶ塚、2007.12.16撮影)

 川向のバス停で阪南ネオポリス行きの金剛バスに乗り、河南町大ヶ塚へ。ここも中世戦国期に開発された自治都市です。簡単にご紹介しますと、天文年間(1532〜33)に台地上に開かれた大ヶ塚は、その後紀伊根来寺衆や近郷の者などが移り住み成長しました。その後、織田信長の勢力が及ぶと根来寺衆は撤退してしまい、村人は自衛のため本願寺に拠り、大ヶ塚道場善念寺(現在の顕證寺)を顕證寺(八尾市)の通寺(兼帯所)として寺内町を形成し、16世紀の後半から寺内町として成長を遂げた、とのことです。富田林寺内町ほどの規模ではないものの、往時の面影が町割や景観の中に色濃くとどめています。司馬遼太郎の「街道を行く」シリー第3巻に収録された「河内のみち」の文中に「自衛の村」としてこの大ヶ塚が紹介されており、一度訪れてみたいと思っていた場所でした。

 バス停を下りますと、集落に向かってはやや急な坂を上ります。千早川と梅川とに挟まれた段丘上に位置して、やはり要害の地にあることが理解されます。穏やかな古くからの集落という佇まいの中にも、道が互い違いに連接して見通しが利かない、富田林における「あてまげ」のような構造になっている街路が認められるなど、自衛的な色彩を残しています。司馬氏は先の紹介した著作の中で、大ヶ塚の庄屋をつとめた旧家に伝わった中世の大ヶ塚の絵図と、現代の大ヶ塚の街路構成とがまったく変わっていないことを指摘しています。



大ヶ塚・互い違いになった街路
(河南町大ヶ塚、2007.12.16撮影)
大ヶ塚

大ヶ塚の町並み
(河南町大ヶ塚、2007.12.16撮影)
大ヶ塚

大ヶ塚の町並み
(河南町大ヶ塚、2007.12.16撮影)
富田林駅前

富田林駅前付近の商店街
(富田林市本町、2007.12.16撮影)

 「あてまげ」の道を進み、大念寺という寺の前の広い駐車場に出ますと、付近一帯に昔ながらの古い家並みが残されていることに驚かされました。切妻平入中二階建て、虫篭窓が穏やかな雰囲気を残す町屋建築や高窓が張り出した家屋、町屋に隣接して建てられた土蔵群などが現代の町並みの中にしっかりと姿をとどめています。大ヶ塚は、近世に入ると近隣地域の各種産物の集散地となって、南町、西町、東町、市場町、乾町の5つの町が成立する在郷町として変容し、その繁栄は明治期に入るまで続いたといいます。アスファルトにも「市場町」などと刻まれたブロックが埋め込まれていまして、大ヶ塚の歴史性を感じさせる仕掛けが施されていました。この日は午後4時前くらいの新幹線で帰路に就く予定で、なるべく多くの地域を見る予定であったため、大ヶ塚での滞在は折り返してきたバスが来るまでの短い時間でした。しかしながら、寺内町を基礎に成長したエリアが、その佇まいを濃厚に残しながら、それらが現代の大都市圏近郊地域の趨勢の中でゆるやかに輝きコミュニティに溶け込んでいるその姿には、ただ感嘆せずにはいられませんでした。

 小ぢんまりとした待合所つきのバス停にやってきたバスに飛び乗り、富田林駅前まで戻りました。周囲は駅前商店街として一定の集積性のある町並みが形成されている一方で、モータリゼーションに伴う郊外化の進展の影響もまた認めざるを得ない側面も感じさせる光景であるように思われました。

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