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そして、近江路へ・・・


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#12 初冬の湖東三山行脚 〜紅葉の名所たる古刹の陰影〜 後編

 湖東三山をめぐる方向を続けていた私は、多賀大社から南へ三山の一角である西明寺へと至り、そこからさらに南へ、残りの二山を結ぶ「湖東三山自然歩道」を辿りながら、それぞれの寺院を目指すこととしました。この遊歩道は、滋賀県立湖東自然公園に位置する湖東三山を周遊するために設けられているもので、最南の百済寺へは約10キロメートルの道筋となります。歩道とはいっても、大部分は既存の道路を自然歩道として指定し、随所に案内を設けたものであるので、自動車交通などには注意を要します。西明寺から峠を越えて愛荘町斧磨(よきとぎ)地区へと至る山道の部分は冬期のためか既に閉鎖されていたため、同地区までは国道307号沿いを歩きました。

斧磨地区の景観

斧磨地区の景観
(愛荘町斧磨、2018.12.2撮影)
湖東三山自然歩道から見た水田風景

湖東三山自然歩道から見た水田風景
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)
金剛輪寺参道

金剛輪寺参道
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)
金剛輪寺・明寿院庭園

金剛輪寺・明寿寺庭園
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)
地蔵尊が並ぶ参道風景

地蔵尊が並ぶ参道風景
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)
金剛輪寺・本堂

金剛輪寺・本堂
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)

 鈴鹿山脈は100から200万年前に隆起したとされ、それは比較的若い山体であると言えます。急激な断層運動により隆起した山地は、琵琶湖東岸に、湖を望む穏やかな山並みをもたらしました。近江盆地からその山懐に至るまでの一帯には、その造山活動によって土砂が堆積し、多くの扇状地を形成させました。たどり着いた斧磨地区は、随所に古いゆかりがありそうな住宅がある、穏やかな山あいの集落でした。この地では住民が交代で燃料となる槇を山に入って採集する制度があり、石で斧(よき)を磨いだことから斧磨という地名が生まれたと説明されていました。斧磨地区からは、一般の町道を歩きます。小さな峠を抜けたり、谷間の狭い低地にある水田の横を通過したり、長閑な風景の中を進むことおよそ15分、松尾寺集落に接して、金剛輪寺の総門前へと到達しました。

 両側に低い石垣が続く石畳の参道沿いには、目に鮮やかなカエデの紅葉が輝いています。西明寺と同様に、湖東の山裾からその中腹へ、近江盆地を見下ろすように境内地が広がっていました。金剛輪寺は天台宗の寺院で、開山は平安時代の初めに延暦寺の来山し天台密教の道場とする以前、奈良時代中葉の741(天平13)年に、聖武天皇の勅願で行基によるものと伝わります。苔むした石垣と紅葉の対照がえも言われぬ美観をつくりだす風韻に誘われ、本坊(明寿院)に接して作庭された名勝庭園を訪ねます。桃山時代から江戸時代の初期、中期にかけて整えられた庭は、穏やかに落葉の錦を纏っていまして、松や杉の木立が表現する自然を背景として、慈愛に溢れた、心穏やかな情景として昇華していました。参道に戻り、千体地蔵が参詣者を見守る中、紅葉と杉木立とがつくる深閑の空気に触れながら、本堂へと続く石段を進みます。大きなわらじが奉納された二天門(室町時代、国重文)をくぐりますと、1288(弘安11)年建立とされる国宝の本堂が厳かな結構を見せていました。やはり国重文の三重塔(南北朝時代)とともに、当時さかんに信仰された密教寺院のすがたを今に伝えていました。

金剛輪寺・三重塔

金剛輪寺・三重塔
(愛荘町松尾寺、2018.12.2撮影)
水田と鈴鹿山脈を望む

水田と鈴鹿山脈を望む
(東近江市祇園町、2018.12.2撮影)
百済寺町の町並み

百済寺町の町並み
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺・本坊庭園

百済寺・本坊庭園
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺・本坊庭園の紅葉

百済寺・本坊庭園の紅葉
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺の紅葉

百済寺の紅葉
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)

 金剛輪寺からは、名神高速の湖東三山スマートインター付近を通過しながら、宇曽川のつくる広大な扇状地の只中を歩いて行きます。湖東三山の最後のひとつである百済寺へは、およそ5キロメートルほどの所要であるようでした。宇曽川より南は東近江市の範域となります。元来水はけがよいために水田耕作には向かない扇状地ですが、目の前には鈴鹿山脈のなだらかな山容に向かって、整然と区画された茫漠たる水田が広がっていました。大規模な土地改良と灌漑施設の整備によるものと推察されます。クレフィール湖東の前を通り、徐々に山裾に近づきながら水田や河川の脇を通り、北坂町の集落近くで名神高速をくぐり、徐々に上り勾配がつきはじめる道路をただひたすらに進みました。百済寺町に入りますと、小さな流れに沿って進む道の両側に、兜屋根のものを含む、伝統的な家屋が現代の建物に混じって多く残されているのが目に入りました。これまで辿った関西地域では、しばしばそこに立地する(または立地していた)寺院の名前をそのまま名乗る地名を多く認めてきました。集落の古い景観も相まって、そういった土地が集落としても長い歴史を持つであろうことを実感させました。

 百済寺(ひゃくさいじ)は、そうした集落を越えたさらに先、琵琶湖を遠望する傾斜地に堂宇を展開させていました。初冬の近江盆地はぼおっとした靄に包まれるような景色の中に沈み、傾きつつある夕日のオレンジを微かに滲ませながら、その先にゆらめくような一筋の光条のような琵琶湖の湖面と静かに隣り合っていました。到着したのは既に午後4時に迫る時間となっていました。湖東三山でも高地に立地するため、紅葉の進行も早く、また黄昏時ということもあって、訪れる人も湖東三山の他の2つの寺院と比べて少なめだった印象です。百済寺の創建は、606(推古天皇14)年聖徳太子によると伝わります。平安期には延暦寺の勢力下に入って天台宗の寺院となり、山腹に1,000近い僧坊を持つほどの規模を誇りました。しかしながら、中世期における大火や戦乱、信長の焼き討ちで寺院の施設は灰燼に帰し、その再興は江戸時代初め、1650(慶安3)年のことでした。色づく山林に抱かれた本坊庭園を鑑賞し、高台の本堂へと歩を進めます。紅葉に包まれた広大な境内地には、往時における僧坊跡の平坦面が多く残ります。「近江を制するものは天下を制す」とも呼ばれた地政学的な立地に翻弄された史実に思いを致しました。本堂の脇には、焼き討ちに遭いながらも樹勢を回復した「千年菩提樹」がやさしいまなざしを向けていました。

百済寺の参道

百済寺の参道
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺本堂

百済寺本堂
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
千年菩提樹

千年菩提樹
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺から近江盆地を見渡す

百済寺から近江盆地を見渡す
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺遠景

百済寺遠景
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)
百済寺・表参道の風景

百済寺・表参道の風景
(東近江市百済寺町、2018.12.2撮影)

 近江盆地を一望の下に知る、ドラスティックなパノラマを見晴らした後は、本坊前の駐車場へと戻って、夕闇が周囲を覆っていく中、午後5時54分近のバスを待ちました。日が落ちると空気は一段とその凛烈さを増して、当地の厳しい冬の気候を実感させました。厳冬期には数メートルの積雪に閉ざされることもあると、地域の方々からお伺いしました。長い間待ったバスはやっと到着して、近江鉄道の八日市駅に到着、JR近江八幡駅を介して京都駅へと戻りました。多賀大社の参詣後、湖東の鈴鹿山麓を踏破しながらめぐった湖東三山の諸寺院は、それぞれに豊かな自然に抱かれながら、古来から中世へと承継されてきた信心の光明を表現していました。そうした信仰の風景が描き出す深遠は、たおやかな山並みから遙かに見渡す、琵琶湖と近江盆地の壮大さそのままの普遍性を持っているようにも思われまして、それにこの地の歴史と風光とが重なって、訪れる人々に憧憬と哀愁の念とを抱かせるのでしょう。

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