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#11 新田町・随想 〜新田荘の記憶・穏やかな自然〜

2005年3月28日、太田市、尾島町、新田町、藪塚本町が合併し、新しい太田市が誕生します。合併を直前に控え、新田町の地域について、まとめて見たいと思います。

2005年3月26日、これまで断片的には写真撮影やフィールドワークをしていたものの、新田町の地域について改めて思いを巡らせようと思い立ち、町内のいろいろな箇所を回ってみることにしました。新田町は、明治の大合併時に成立した3つの町村-木崎(きざき)町、生品(いくしな)村、綿打(わたうち)村-が1956(昭和31)年に合併して成立した自治体です。地域を一まとめにする地域呼称として、3つの町村が属した郡の名前・新田を町の名前としました。昭和の大合併期には、群馬県内には他に、邑楽町、甘楽町、群馬町、吾妻町、利根村が郡名を自治体名として発足しており、郡の名前を使うことが一種の流行のようなものであったのかもしれません。合併直前、1954(昭和29)年末の人口を紐解きますと、木崎町4,763人、生品村8,095人、綿打村7,350人という構成でした。木崎町は町域が狭いため若干人口が少なくなっているものの、生品・綿打両村も一定の人口規模を持っていたことが理解できます。近隣の生活環境の似通った自治体を統合させ、より多様化・高度化する行政需要に対応できる自治体を構築しようとした昭和の大合併の、まさに典型であるように思います。

新田町の町域は、藪塚本町の項で述べた「大間々扇状地」の南端、扇状地の砂質土壌のなかを一旦伏流した水が再び湧き出るエリアを含んでいます。地図を見ますと、金井、市野井、小金井など「井」のつく地名が見られ、湧水のある地域であることを示しております。地形図ではその地質上の差異が端的に表現されておりまして、町域の北側は水はけのよい乾いた土地に見られる畑や桑畑、荒地の地図記号が卓越するのに対し、湧水帯以南では水田の地図記号が多くなっています。矢太神(やたいじん)水源は、現在でも自噴する湧き水を有するこの地域を代表する湧水です。湧水地の周辺は「ほたるの里公園」として整備され、蛍の舞う姿を見ることができる公園として大切に環境が維持されています。湧水から生まれた水は一筋の流れとなり、やがて一級河川・石田川となって、尾島町と太田市の境界をなしながら太田市南方で利根川に注ぎます。町内には他に「重殿(じゅうとの)水源」と呼ばれる水源もあります。

新田町の表示

新田東部工業団地内、「新田町」の表示
(新田町小金井、2005.3.26撮影)

矢太神水源

矢太神(やたいじん)水源近くの水路
(新田町大根、2005.3.26撮影)

江田館跡

江田館跡
(新田町上江田、2005.3.26撮影)
反町館跡

反町館跡、環濠
(新田町反町、2005.3.26撮影)

※合併後(2005.3.28以降)は、太田市新田小金井町、太田市新田大根町、太田市新田上江田町、太田市新田反町町 となります。

 2000(平成12)年、新田町、太田市、尾島町に点在する、かつての新田荘(にったのしょう)にまつわる史跡が一括して複合史跡「新田荘遺跡(国指定)」となりました。
具体的には、円福寺境内・十二所神社境内(以上太田市)、総持寺境内・長楽寺境内・東照宮境内・明王院境内(以上尾島町)、生品神社境内・反町館跡・江田館跡・重殿水源・矢太神水源(以上新田町)が「新田荘遺跡」の範囲に含まれます。いずれも中世、新田氏にゆかりの深い史跡・事物です。先に紹介した2つの水源は、新田荘における新田開発に大いに寄与しました。江田館(えだやかた)跡は、新田義貞の鎌倉攻めの際、一方の大将として活躍した江田行義(えだゆきよし)の館跡と伝えられる場所で、現在でもクランクのつけられた空堀や土塁がよく保存され、かつての館の形状や規模を推量することができます。館跡のすぐ西側は台地と低地とを分ける小規模な天然の崖になっており、往時は周囲の見通しが利き、かつ防御にも優れた立地であったのではないかとも思われます。反町館跡は、「反町薬師」として広く信仰を集める照明寺の寺域に残る城郭跡で、周囲はその塁濠が広げられた堀に囲まれています。新田一族の居館跡と推定され、北方の湧水帯から堀に水を集めて貯水し、所領の灌漑・水利に活用したものとされているようです。戦国期には土塁を高くし、堀を深くして城郭的な要素を強化したものとしてつくりかえられているとのことで、中世における城郭の発達史のさまを今に伝える史跡としても重要であるようです。生品神社は、新田義貞が鎌倉へ攻め上る際に、最初に兵を挙げた地として著名です。

新田荘の記憶を随所に残す新田町にあって、木崎の町は近世の地域の姿を写す場所であるといえます。京都から徳川家康が祀られる日光東照宮へ遣わされる勅使(例幣使;れいへいし)が通る道が「日光例幣使道」であることはよく知られていることと思います。中山道・倉賀野宿(現在の高崎市)から分岐した例幣使道は、玉村、五料(ごりょう)、芝の各宿駅を経て、木崎の宿へと至りました。木崎の次の宿場は「太田」です。木崎宿は多くの飯盛り女がいた宿場として栄えたようで、宿場で唄われた「木崎音頭」は越後から年季奉公にやってきた飯盛り女が伝えたものといわれているのだそうです。木崎の町も、わが国の多くの地域と同じように、現在ではたくさんの自動車の波に気をつけながら散策する巷となっているようです。その一方で、宿場を示す石碑が設けられたり、新しい説明標示板が設置されたりしており、地域の歴史を知らせる工夫も徐々にですが整えられているようでした。宿場としての歴史、町並み、風土をいかに現代生活とマッチさせるか、その試金石の1つとなる町場であるのかもしれません。

木崎宿

木崎宿・石碑
(新田町木崎、2005.3.26撮影)

木崎の町並み

木崎宿の町並み
(新田町木崎、2005.3.26撮影)

ジョイフル本田

新田町役場付近の巨大ショッピングセンター
(新田町市野井、2005.3.26撮影)
瑞木団地

グリーンタウンいくしな
(新田町瑞木、2005.3.26撮影)

※合併後(2005.3.28以降)は、太田市新田木崎町、太田市新田市野井町、太田市新田瑞木町 となります。

木崎の町から北上していきますと、現代の新田町の中心的な商業エリアに至ります。新田町役場を中心に、福祉総合センターや運動公園、体育館、文化ホールなどの公共施設が整然と整備されています。また、その公共施設エリアに東接して、巨大ショッピングセンターを核とした規模の大きい商業集積地域も形成されています。その集積のメリットを指向して、北側の県道沿いにもロードサイド型の商業機能が張り付くようになり、この地域の景観はこの10年から20年で一変しました。かつての木崎、綿打、生品の各町村のエリアの重なる、扇の要の位置を占めるこれらのエリアの活況は、地域的な均衡を重要な規律の1つとして歩んできた新田町の町政を色濃く反映しているものであるのかもしれません。

3町村の合併から49年、新田町はさらなる合併を迎えます。地域のバランスの取れた成長を是として邁進し、今日の活況を得た新田町での経験は、新しい市における市政運営にとって、たいへん示唆に富んだ、かけがえのない財産であるのだと思います。新田荘の記憶を残しながら、ゆたかな自然環境に恵まれ、農業、商工業もほどよく存立するこの地域がたゆまぬ輝きを見せつづける限り、新しいまちのゆたかな色彩と活気は揺るぎないものであるに違いありません。

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