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シリーズ・クローズアップ仙台

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#51 五ツ橋通から柳町通へ 〜新旧幹線道路の先に見えるもの〜
 

 仙台市街地は伊達政宗によって開かれた城下町をその直接の由来としており、多くの街路が城下町のそれを継承するものであることは、度々触れてまいりました。その中でも、仙台城大手門から続く東西の幹線道路である大町(大橋から中央通のアーケード街へと直線的に繋がる道路に相当)と、南北の幹線道路である奥州街道筋(現在の国分町通に相当)は仙台城下町を代表する大通りで、都市計画の基点ともなった重要な街路でした。両道路の交差する場所が「芭蕉の辻」と呼ばれ、仙台城下町の中心地であったこともまた、これまで何度かお話してまいりましたね。この2つの幹線道路軸をとして碁盤目状に道路が割り出され、今日のほぼ直線的な街路構成が形づくられました。その一方で、郊外に向かうにつれて直線状であった道路が直角に何度も折れ曲がったり、微妙なカーブがつけられていたりといった変化が認められるようになります。芭蕉の辻以南の奥州街道筋は、事情を知らないと、現在のメインルートの形とはかなり異なった印象を与えます。

 かつて「細横丁」と呼ばれた晩翠通は、現在では中央分離帯の銀杏並木が美しい幹線道路です。その南の基点は南町通、高等裁判所前の交差点です。交差点から南は裁判所に東接する細い路地となり、「狐小路(きつねこうじ)」と呼ばれます。住居表示がいっせいに施行される前は付近の町名でもあり、南町通を通っていた路面電車(1976年廃止)の電停名としても親しまれました。南町通沿線は広瀬川方向に向かって中高層のマンション群が林立している一方で、裁判所はヒマラヤシーダーの並木に囲まれておりまして、伊達家の有力な家臣の屋敷地に由来するゆったりとした地域性を今に伝えています。市電の通った南町通は狐小路の交差点から南東へ進んだ後、すぐに東へ反れて仙台駅方面へと進んできます。南東方向にそのまま進む大通りは、五橋方面へ進むことから「五ツ橋通」と呼ばれています。

高裁前交差点

高裁前交差点、西方向(南町通)
(青葉区一番町二丁目、2007.9.15撮影)
狐小路、右は仙台高裁

高裁前交差点、南方向(狐小路)
(青葉区一番町二丁目、2007.9.15撮影)
五ツ橋通り

五ツ橋通
(青葉区一番町一丁目、2007.9.15撮影)
南町通

南町通(左から前方)と五ツ橋通(右)
(青葉区一番町一丁目、2007.9.15撮影)

 五ツ橋通は北目町の交差点に向かって、碁盤目状が基調の市街地を北西から南東方向に斜めに貫通しています。の南町通より南の部分は戦災復興区画整理事業により割り出された新しい道路であるためです。五橋通は北目町の交差点で南に折れて南進した後、東二番丁通の五橋交差点に向かって東に曲がって進み、愛宕上杉通(かつての清水小路)の交差点(五橋駅前交差点)で終点となります。戦災復興事業で街区を横切る新道が完成する前の五橋通は、現在の五橋通における南端の東西部分のみを指していました。五橋駅前交差点には五つの橋が架かっていたため「五橋」と呼ばれていたことから、その五橋へ向かう通りという意味で「五ツ橋通」と呼び習わされてきたわけです(#27「北目町から五橋へ」参照)。仙台城下町では、「○○通り」といえば、「○○へ向かう通り」という意味でした。戦後南町通方面に大きく延長された五ツ橋通は、基本的に五橋へ向かう通りとしての線形は維持しておりますから、「青葉通」など伝統的な通りの命名法に依拠しない通り名が主流となった現在においても、引き続きそのルールにしたがっている数少ない例といえるのかもしれません。

 既存の町割を斜めに横切る五ツ橋通によって、かつてのメインストリート・奥州街道が寸断される状況が生じました。上述した奥州街道の「郊外に向かうにつれて直線状であった道路が直角に何度も折れ曲がる」部分と、五ツ橋通の斜めのラインとが交錯したためです。奥州街道は芭蕉の辻から現在の国分町通を南進し、五ツ橋通を横断して東北大学の金属材料研究所に突き当たり、東へ進むルートを取ります。芭蕉の辻から東北大学までの間は「南町」と呼ばれる町人町でした。仙台城下町創設時から政宗に従い専売特権を受けた「御譜代町」の1つで、交通の要所にあったことから次第に仙台における通信街・金融街へと成長した町です。「南町通」も、この南町に至る街路であることからの命名です。藩政期には道幅の小さい侍町だった南町通は、市電のルートとされるにあたり、今日の道幅を確保しました。南町から東へ折れた奥州街道は、やはり御譜代町として特権を得ていた柳町へと至ります。柳町の通りは東に進んで再び五ツ橋通と交差します。しかしながら、北から五ツ橋通に侵入してくる一番町通の交差点が間にあるため、柳町のルートの一部が歩道によって寸断されます(地図)。大日堂前を通過しますと、奥州街道筋は再び南へと折れて進んでいき、北目町へと至ります。これより東が、藩政期には柳町へ至る道路ということで柳町通と呼ばれました。現在では柳町の部分、東北大学の北側の部分も含めて柳町通と呼ぶようになっているようです。

柳町

寸断される柳町通(手前から奥へ向かうルート上に歩道が割り込む)
(青葉区一番町一丁目、2007.9.15撮影)
柳町

柳町の景観
(青葉区一番町一丁目、2007.9.15撮影)
東二番丁通

東二番丁通、南方向
(青葉区中央四丁目、2007.9.15撮影)


仙台トラストシティ予定地(旧東北学院大付属中・高校)
(青葉区一番町一丁目、2007.9.15撮影)

 中高層のマンションや雑居ビルなどが集積する町並みを抜け、東二番丁へ。東北学院大学付属中学・高校が宮城野区小鶴へ移転(2005年4月)し、広大な空き地となった一角には、地上37階・地下2階の超高層ビルにオフィスやホテル、住宅、商業施設が複合された再開発(仙台トラストシティ)が2010年4月の竣工予定で計画されているとのことです。近年多くの超高層ビルが相次いで建設されている仙台市街地における趨勢は、現在においても衰えを見せず継続しているようでした。再開発予定地から東二番丁通を挟んだ向かいには、仙台市街地の高層ビルの先駆け的な役割を果たした住友生命仙台中央ビル(愛称「SS30(エスエスサーティ」、1989年2月竣工)も屹立しています。このビルも宮城学院女子大学・高校の跡地(1980年、青葉区桜ヶ丘へ移転)に建設されたものです。この一番町から五橋にかけてのエリアでは、超高層建築物の建築ラッシュが進んでいきそうな様相で、河北新報社の東、JR仙台病院の旧敷地にはシティータワー仙台五橋(地上28階・地下1階、2008年4月竣工)及びパークハウス仙台五橋タワー(地上23階・地下1階、2007年12月竣工)が完成しています。

 五橋駅前交差点から東へ、連坊小路を進んで、愛宕上杉通(東五番丁)からは一筋東の東七番丁の路地を北へ入ります(東六番丁はこのあたりではちょうど仙台駅構内となっており街区はありません)新幹線の高架下をくぐり、在来線の踏切を渡り、新寺通へと至ります。ここでも超高層マンションが建設中でした(ミッドプレイス仙台タワー、2009年9月竣工予定)。高度経済成長を通して、一貫して郊外地域への住宅団地の拡大によって進行してきた仙台都市圏の住宅地域の変遷過程は、2000年代に入り市街地中心部における超高層建築物の建設ラッシュが牽引する、都心回帰傾向に大きく転換してきている様相を呈しているようです。戦後の市街化によって主要道路から埋没したかつてのメインストリートのルートを追いながら歩いた道程は、現在の仙台市街地の大きな潮流をもまた発見させたようでした。


超高層マンション

建設中の高層マンション(左は河北新報社)
(青葉区五橋一丁目、2007.9.15撮影)
再開発

再開発中の風景(仙台ミッドプレイス)
(若林区新寺一丁目、2007.9.15撮影)


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