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とうほくディスカバリー


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#1 郡山市街地を歩く 〜疏水が拓いた商都〜

 2013年3月10日、東日本大震災発生から2年が経過しようとしていたこの日、郡山の町を訪れました。この日の郡山は時折日が射して青空が見える時間帯もあるものの終始曇天で推移し、肌寒い気候の下にありました。仙台へ向かう途中幾度となく新幹線の車窓から眺めてきた郡山の街並みは宇都宮と比較しても遜色のない中枢性を感じさせましたが、駅舎から出て改めてその規模の大きさを再確認しました。西口の駅前には、再開発事業の一環として建設された超高層ビル「郡山ビッグアイ(2001年3月落成)」が瀟洒な姿を見せていました。上層にある展望フロアからは、安達太良山や阿武隈高地などのたおやかな山並みに抱かれるように発展した郡山の市街地を俯瞰することができました。

郡山ビッグアイ

JR郡山駅西口・ビッグアイ
(郡山市駅前二丁目、2013.3.10撮影)
郡山市街地俯瞰

ビッグアイから郡山市街地を望む
(郡山市駅前二丁目、2013.3.10撮影)
安達太良山遠望

ビッグアイから安達太良山を望む
(郡山市駅前二丁目、2013.3.10撮影)
駅前通り

駅前通りの景観
(郡山市駅前二丁目、2013.3.10撮影)

 郡山市は福島県の中央部位置し、東北地方の大幹線である東北自動車道と、県を東西に連絡する磐越自動車道とが交わる場所にあります。東北新幹線をはじめとした鉄道路線も郡山駅を起点に東西南北に延びていまして、交通の要衝としての拠点性から、福島県内では県庁所在都市の福島市を凌駕する中枢管理機能を持つと評価されています。2014(平成26)年の年間商品販売額で比較しますと、福島市が約7,900億円であったのに対し、郡山市は1兆2,500億円余り(東北地方では第2位)で、1.6倍ほどの差があります(経済産業省・商業統計表)。そんな福島県第一の商業都市としての玄関口にふさわしく、アーケードを擁する駅前通には多くの商業ビルやホテルなどが林立しています。

 駅前通りを西へ進みますと、駅付近で南北と東西の十字型のアーケードを構成する「駅前アーケード商店街」の入口を経て、大町通りへと至ります。大町通りは旧奥州街道筋にあたります。道筋には趣のある建物や道標などがあって、宿場町として成立した郡山の礎を今に伝えています。道標の立つ場所はアルファベットの「Y」の字に道路が分岐する追分で、右(北東)は奥州街道筋、左(北西)は会津方面への街道筋となります。駅前通りに戻り、国道4号との交差点(郡山駅入口交差点)へ。マンションなどのビルも多いこの交差点の西南には、郡山の総鎮守安積国造(あさかくにつこ)神社の壮麗な社殿が鎮座していました。国道側に面した参道の入口には、鳥居であったと思われる石材が参道脇に横たえられていて、東日本大震災の影響によるものと推察されました。大和朝廷の時代、比止祢命(ひとねのみこと)が初代の安積国造に任じられてこの地を治め、天湯津彦命と和久産巣日命を祀った当社を創建したとされます。その後、坂上田村麻呂が参詣して八幡大神を合祀したことから、「八幡様」の愛称で市民に親しまれています。現拝殿は1810(文化7)年の再建で、郡山では唯一の江戸期から残る建築です。

駅前アーケード

駅前アーケード商店街の景観
(郡山市駅前二丁目、2013.3.10撮影)
大町通り

大町通りの景観
(郡山市大町一丁目、2013.3.10撮影)
大町・奥州街道と会津方面との追分

奥州街道筋と会津方面の街道の追分
(郡山市大町一丁目、2013.3.10撮影)
安積国造神社

安積国造神社
(郡山市清水台一丁目、2013.3.10撮影)

 郡山駅入口交差点から西へ、駅前通りから続く格好のさくら通りを進みます。緩やかに上る台地上は住宅地域の中に大規模商業施設や公共施設などが立地する風景が連続しています。道路網も整然とした格子状を呈していることから、新しい市街地であることが推察されました。安積黎明高校の東を北に入り、桃見台(ももみだい)公園の先、小学校の北側に「せせらぎこみち」と称する遊歩道を見つけました。台地を刻むようにゆるやかに進む散歩道は、四季折々に豊かな表情を見せることと思われました。「桃見台」という地名の由来は、一説には付近にかつて存在したとされる城柵(郡山城)の物見台があり、この「ものみだい」がいつしか「ももみだい」と変化したとも言われているようです。春まだ浅いこの日は、木々はまだ寒々しい装いでしたが、山茶花の花が可憐に咲いていて、間近の喜びの季節を待ち侘びているようにも感じられました。

 せせらぎこみちを辿って「内環状線」と呼ばれる幹線道路に到達し、それを南下して郡山市のシンボルとして親しまれる開成山公園へ。郡山市は、元来は高燥な台地上で耕作に向いていなかった安積原野に、猪苗代湖から安積疏水を引いて開拓が進められたことから発展が始まりました。この大規模な開拓事業は明治政府が国費で実施したもので、全国各地の旧士族が郡山一帯に移住し、事業にあたりました。この明治政府による開拓が始まる以前、地元の有志で設立された「開成社」と福島県による開拓が進められ、これが後の国営事業へと発展しましたが、その事業地がここ開成山一帯でした(かつては「大槻原」と呼ばれた場所でした)。その事業の概要は、灌漑用の溜池を造成するもので、公園内の五十鈴沼はその名残です(他の池は埋め立てられ、現在は野球場や浄水場などの用地になっています)。桜の名所としても知られる開成山公園のソメイヨシノは、この開成社による開発の時に植栽されたものを基礎としています。開成山公園周辺には、開成山大神宮や安積疏水土地改良区、麓山公園などの安積開拓に関連した施設や史跡が点在しています。開成山公園は郡山市民にとって憩いの場であるとともに、市の成長史を跡付けることのできる記念碑のような場所でもある言えるでしょうか。先に散策した「せせらぎこみち」も、安積疏水の水路の一部が生活排水の流入によって環境が悪化していたものを、美しい散策路として再生したものであるようです。


せせらぎこみち

せせらぎこみち
(郡山市西ノ内一丁目付近、2013.3.10撮影)
開成山公園

開成山公園の景観
(郡山市開成一丁目、2013.3.10撮影)
開成山公園と安達太良山

開成山公園と安達太良山
(郡山市開成二丁目、2013.3.10撮影)
麓山公園

麓山公園
(郡山市麓山一丁目、2013.3.10撮影)

 安積疏水は郡山市周辺の地域を豊穣の大地へと劇的に改変させました。安積原野は広大な水田へと姿を変えて有数の穀倉地帯へと変貌しました。さらに疏水は生活用水や産業用の用途へも利用されて、今日の郡山氏の都市化の基盤を支えました。そして高度経済成長期以降は、前述した交通の要衝としての地の利から中枢管理機能が集積したことに加え、多くの製造業や流通関連の事業所が立地して、福島県や南東北を代表する商業都市として、郡山は大きく飛躍を遂げることとなりました。奥羽山脈や阿武隈高地のなだらかな山並みを穏やかに眺めながら、たおやかに広がる郡山の街並みを歩きながら、先人たちが払った多くの努力に思いを馳せました。

   
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