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2005・東北春彩

2005年5月、春爛漫鮮やかさに溢れた東北北部を巡りました。
うららかな陽光に包まれた大地は、この上のない透明度と爽快感のなかにありました。

この地域文は、3部構成です

陽光の盛岡     角館と弘前、桜の中で    晩春、千秋の森

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ページ設置:2005年6月20日

陽光の盛岡

盛岡の春は、こんこんと流れる水の色に溢れているように感じられました。流域面積10,150平方キロメートル、総延長249キロメートルという日本有数の大河が、県庁所在都市の市街地の只中を流下することを初めて知った時、新鮮な驚きを覚えました。そして、その清冽な流れとたおやかな緑に接して、さらに感激したのでした。盛岡駅から東へほどない場所に、北上川のその流れがあります。大通商店街へと続く開運橋の白いアーチの下、雪融けの水をたっぷりと含ませた北上川が、ゆうゆうと流下していきます。開運橋は、1890(明治23)年11月に、当時の県知事が開業した盛岡駅への玄関口として架橋に尽力した橋で、盛岡市議会の資金的な協力が得られなかったため、知事が私財を投じて完成にこぎつけたという、プロジェクトX並み?のエピソードがあるのだそうです。川岸には豊かな木々が茂ってみずみずしいエッセンスを周囲の都市景観に提供し、春本番の目映いほどの日の光を浴びた芝桜やチューリップなどの花々が落ち着いた緑と水の空間に鮮やかな印象を与えています。都市と水辺と緑の彼方には、残雪をゆったりっと頂いた岩手山の秀峰が春空にくっきりと、すっきりと浮かんでいます。北上川と岩手山の美しいコントラストを眺めながら、北へ。旭橋を過ぎますと、左岸には石積みの護岸が現れて、舟運が活躍した往時を偲ばせる景観として知られているようですね。現在では川に沿って遊歩道が設けられ、また一部に雁木を模した階段状の造形も作られており、歴史や自然に触れながら、河岸を散策することができるようになっています。

辿り着いた橋の名は「夕顔瀬橋(ゆうがおせはし)」、どこか趣のある名前には、北上川に架かる橋としては最も古いとも言われるこの橋にまつわる興味深い故事が関わっているのだそうです。前九年の役(1051〜62)の際、源頼義らの軍勢に窮した安倍貞任は、付近の厨川の柵に拠って、夕顔の実に人の顔を描いたものに甲冑を着せた人形を河原に並べて敵を欺く手段に出たものの、ついに柵は焼き払われて、安倍一族は滅亡することとなりました。その戦乱の最中、北上川に投げ込まれていく無数の夕顔の実の様子より、後世橋の架かるあたりの瀬を「夕顔瀬」と呼び習わすようになった、というものです。橋の上流側に突き出しテラス状のスペースには、石灯籠が建てられて橋の来歴にふさわしい情趣を醸し出しています。石灯籠の傍らに添えられた説明表示に、その由緒が記されています。1865(慶応元)年の盛岡の大火で奇跡的に焼け残った「材木町」のひとびとが石灯籠を寄贈し、当時の夕顔瀬橋の上に建てた。それが鉄橋に架けえになったとき橋の袂に移された。そして1993(平成5)年に現在の橋に架け替えられたときに、モニュメントとして、写真のように橋の上に設置された、とのことです。文中にありますとおり、元祖の石灯籠は橋の東詰に、木々にやわらかに見守られながら、ひっそりと時を刻んでおりました。


姫神山

岩山公園より姫神山を望む
(盛岡市新庄、2005.5.3撮影)
盛岡市街地

岩山公園より盛岡市街地を望む
(盛岡市新庄、2005.5.3撮影)
高松ノ池

高松ノ池
(盛岡市高松一丁目、2005.5.3撮影)
北上川と岩手山

北上川と岩手山(開運橋より)
(盛岡市盛岡駅前通/大通三、2005.5.3撮影)
開運橋

開運橋、西詰より
(盛岡市盛岡駅前通、2005.5.3撮影)
夕顔瀬橋、中央に灯篭が見える

夕顔瀬橋
(盛岡市材木町、2005.5.3撮影)

夕顔瀬橋を渡り、「盛岡二十三町」に数えられた茅町・材木町を受け継ぐ町並み(現在の町名は「材木町」に整理統合されています)と“い〜はと〜ぶアベニュー”としていくつかの楽しい彫塑が配された街路を進み、中央通りを東へ。途中映画館通りから大通りにかけての繁華街の繁忙振りを目にしながら、地方裁判所前の石割桜へ。市街地北部の桜の名所「高松の池」では満開を迎えて美しい吹雪を水面に浸していた桜も、市街地中心部に近い石割桜は満開と葉桜のはざまの状態でした。周囲21メートルにもなる花崗岩の割れ目から芽吹いたエドヒガン桜は、350年の歳月を経てたおやかに、そして雄雄しく、やわらかな桜色を育んでいるようでした。

水の都・盛岡を彩るもう1つの川、中津川のほとり、岩手公園として整備される盛岡城跡が佇みます。盛岡城の別名「不来方(こずかた)城」は、石川啄木の詩「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」に登場することでも知られていますね。城跡一帯、とりわけ南端の本丸や二の丸跡あたりに立ちますと、市街地より10数メートル程度の高台であることがより実感できます。このことは、要害として城郭を立地せしめた要因とも重なりますね。東から南へは中津川が流れ、また江戸期に城郭の石垣を洪水の被害から守るために流路が付替えられるまでは、北上川の本流がこの地域の西側を流れていたこともあり、防御的に優れた地形であったわけです。江戸期以降、城郭の内側の地域は「内丸」と呼ばれ、現在の住所表記にも受け継がれています。「丸の内」などと同じ語感ですね。現在、岩手公園から北に接する内丸地区は、岩手県庁と盛岡市役所をはじめ、1927(昭和2)年に建設され、昭和初期のモダンを感じさせる県公会堂や前述した石割桜のある地方裁判所などが集積する街区となっています。城郭に対する南の防衛線となっていた川のせせらぎは、容易に河原に下りて水に触れることができる憩いの場となっているようです。

大通商店街

大通商店街
(盛岡市大通一丁目、2005.5.3撮影)
石割桜

石割桜
(盛岡市内丸、2005.5.3撮影)
プラザおでって前

中ノ橋東詰より、中津川と岩手公園を望む
(盛岡市中ノ橋通一丁目、2005.5.3撮影)
岩手銀行中ノ橋支店

岩手銀行中ノ橋支店
(盛岡市中ノ橋通一丁目、2005.5.3撮影)
茣蓙九前

紺屋町の町並み
(盛岡市紺屋町、2005.5.3撮影)
上の橋

上の橋、西詰より
(盛岡市本町通一丁目、2005.5.3撮影)

中津川に架かる中ノ橋を渡りますと、盛岡市を代表する近代遺産の1つである、岩手銀行中ノ橋支店の赤煉瓦の鮮やかな建物が目に入ってきます。設計者は東京駅などを手がけた建築家・辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士であり、煉瓦積組造のルネッサンス様式に統一された様式は、白色花崗岩の水平線の意匠を効果的に用いた流麗な構造が印象的です。建築当初の姿のまま、かつ作られた当時の用途そのままに使用される建物としては、日本最初の重要文化財指定を受けているのだそうです。中三デパートやプラザおでってなどの施設や商業機能の集積する一帯は、かつての奥州街道のルート沿いに続く盛岡城下における伝統的な商人町を受け継ぐものです。町人町が「盛岡二十三町」と呼び習わされたことは、先に少しだけ触れました。現在の秋田県仙北郡出身の商人を住まわせたことに由来する「仙北町」(現在の仙北町と同じ)を南端として、奥州道中筋を北へ、盛岡八幡宮の門前町や、前述の材木町方面などの町々を加えながら、特色ある23の町人町が形成されていました(詳細は、サイト「盛岡二十三町」を参照ください)。中でも、現在でも賑やかなアーケード街を形成する「肴町」は、盛岡城下を代表する商業街であったそうで、「上等な品物は肴町で」という常識が明治・大正期までは当然のように語られていたのだそうです(上掲サイト内の情報より)。赤煉瓦を北へ街道筋を進みますと、紺屋町(かつての紺屋町(こんやちょう)・鍛冶町(かじちょう)・紙町(かみちょう)の3町が統合された町名)の商家街の穏やかな町並みの中へと誘われます。茣蓙九(ごさく)、釜定工房、草紫堂などの昔ながらの建物が落ち着いた雰囲気を見せています。さらに上の橋へと向かう途上にも、紺屋町番屋(1913(大正2)年に建設された盛岡消防団第5分団の番屋、こちらも現役)、旧井弥商店など、魅力的なファサードを見せる建物が連続しています。上の橋の欄干に施された擬宝珠は、国の重要美術品にも指定されている由緒を持ちます。

その後、中津川沿いを東大橋まで北上し、中央公民館に移築された古民家や名須川町付近の寺町(城下の守りとして移設されたもの)を探索しながら、盛岡駅前の投宿先まで戻りました。途中立ち寄った三ツ石神社には、その名のとおり巨大な「三ツ石」があります。伝説によりますと、かつてこの地域に悪さをする鬼がいて、住民が三ツ石の神にお願いして鬼を捕らえてもらい三ツ石に鬼を縛りつけたところ、鬼は二度と悪さをしないと約束し、その証をして三ツ石に手形を残したのだそうです。この「岩に手形」が郡名、現在の県名でもある「岩手」の語源とされ、また鬼が二度と来ないということで、盛岡の旧称「不来方」の由来ともなった、というのです。

岩手公園をはじめとするの緑と豊富な水辺に恵まれながら、北東北の中核都市として確かな拠点性をも持ち合わせるまち・盛岡の春は、最高の輝きを見せているように思われました。


角館と弘前、桜の中で へ続きます。


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