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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#21 東京リレーウォーク(13) 〜千住宿を歩く 北の一大ターミナル〜 (足立区・荒川区)

 2008年10月13日(追加取材を行った2011年2月5日を含め)は、西新井地域を南へ、足立区内を進むフィールドワークを続けました。荒川を渡りますと、足立区内最大の商業中心であり、また東京都区部北部における一大ターミナルともなっている北千住へと至ります。

 北千住は、足立区の中では例外的に荒川の南、隅田川と挟まれた東西に細長い場所に位置しています。現在の荒川は、明治後期から昭和初期にかけて掘削された放水路で(現在隅田川が荒川のかつての本流)、荒川以北の足立区の主要部とは元来「陸続き」でした。足立区は1932(昭和7)年に旧南足立郡の町村が当時の東京市に編入される際に同郡の範囲によって成立したことは、これまでの「東京優景」の文章の中でお話ししてきました。郡内最大の町場として、今日まで変わらぬ中心性を、この町は維持し続けています。

北千住駅前

きたろーど1010の景観
(足立区千住二丁目、2008.10.13撮影)
北千住駅前

東武・JR・東京メトロ・TX北千住駅前
(足立区千住二丁目、2008.10.13撮影)


千住宿・旧日光街道の景観
(足立区千住四丁目、2008.10.13撮影)
横山家住宅

横山家住宅
(足立区千住四丁目、2008.10.13撮影)

 西新井大師から大師道をたどってきたルートとは少し場所は変わりまして、JR常磐線のほか、東武伊勢崎線、東京メトロ線(千代田線・日比谷線)、つくばエクスプレス線が収斂するターミナル・北千住駅より町歩きを再開します。東武伊勢崎線沿線に居住する筆者にとって、北千住は浅草以上に東京へ向かう主要なゲートウェイとして印象づけられています。そのため、北千住は概して「通過点」となりがちで、町並みをしっかりと歩く機会はまったくありませんでした。そうした状態でしたので、北千住駅西口のマルイやルミネの壁のような高層ビル群が駅前に屹立し、バスターミナル上には広いペデストリアンデッキが取り付けられる景観にはたいへん圧倒されるとともに、新鮮な気持ちになりました。駅前からは屋根の取り付けられた商店街(きたろーど1010)が燦然と連続して、巨大な商店街としての雰囲気を盛り上げていました。

 駅の南の商店街の景観を一瞥し、天保の飢饉における餓死者や遊女の供養塔が佇む金蔵寺を確認した後、駅西口を出てすぐの南北の通りを北へ、マルイやその北の北千住ミルディスII番館(マルイのある建物は同I番館)の西側を進みました。駅前の喧騒を過ぎますと、急激に建物の密度が下がって、穏やかな住宅街へと入って行きました。山門に「月松山」の扁額を掲げる長円寺の緑鮮やかな経済の前を通り、北千住の町を南北に貫通するメイン通りへと進みました。旧日光街道筋にあたる、北千住の伝統的な目抜き通りです。



千住本氷川神社旧社殿
(足立区千住三丁目、2008.10.13撮影)


宿場町通り・本陣跡付近
(足立区千住三丁目、2008.10.13撮影)
問屋場・貫目改所跡

千住宿問屋場・貫目改所跡(東京芸術センター前)
(足立区千住一丁目、2008.10.13撮影)
商店街

千住中丁商店街の景観
(足立区千住仲町、2008.10.13撮影)

 千住宿は、近世以降日光街道の宿場町として栄え、江戸を出て最初の宿場町(品川宿、内藤新宿、板橋宿とともに江戸四宿のひとつに数えられた)であるとともに、水戸街道の分岐点としても重要な交通の要衝でした。隅田川に架けられた千住大橋の北側(現在の北千住エリア)は北組と中組(掃部宿)に分けられ、川南の南組(現在の南千住エリア)とともに「千住宿」とされていたようです。北側を荒川(放水路)によって分断される形となった町の北側のエリアは、「宿場通り」の名も掲げられて、宿場町の名残をより濃厚に刻んでいる地域であるように思われました。江戸後期に建造され、伝馬屋敷(使者や物資を馬で運ぶ馬や人足を用立てた屋敷)の面影を残す商家・横山家の建物は、そうした宿場町の姿を伝えている事物のひとつです。横山家は江戸時代から続く地漉紙問屋で、間口が広く、桟瓦葺のどっしりとした家構えは、黒やこげ茶色の落ち着きのある風合いもあいまって、伝統ある商家の懐の深さを感じるようでした。向かいには江戸中期より絵馬や地口(じぐち)行灯、タコなどを描いてきた際物問屋・吉田家の町屋も佇みます。

 昔懐かしい銭湯の煙突や、昨今の街道町歩きブームに乗って多くの客を集めている団子屋などの風情を楽しみながら、旧日光街道筋を南へ、かつての千住宿を受け継ぐ町並みを進んできます。休日は午後1時から6時(平日でも4時から6時)まで歩行者天国となっている通りをそぞろ歩きます。現代の落ち着いた雰囲気の商店街となっている街道筋には、街路樹のたもとに置かれた石で「かくれんぼ」をしているかのような商店の彫像が置かれていたり、時折昔ながらの町屋の様式を残す建物に巡り合えたりと、新旧が融合した風景を楽しむことができます。商店街から西へ入った千住本氷川神社は、1307(徳治2)年、牛田に氷川神社として創建された古社で、現在の場所に建つ神社は千住が町場として存立しはじめた江戸初期に分社として建立されたもので、荒川放水路の掘削のために牛田の氷川神社を合祀したものであるそうです。現社殿は1970(昭和45)年に新築されたもので、旧社殿は末社として境内に保存されています。唐破風と千鳥破風の二重の破風と、頭貫や紅梁の見事な彫刻が、小ぢんまりとした社殿ながらも実に精緻で好感を持ちました。
 
 北千住駅前通りが近づき、人通りが格段と増えてきた頃、交差点北側に「千住本陣跡とその周辺」と題した地図入りの説明板が設置されていました。千住宿唯一の本陣のあった場所は、駅前通りから一歩北に入った小道に面しています。この小道は千住二丁目と同三丁目の境界で、道は東と西でわずかに筋違になっています。駅前商店街として人通りの激しい商店街を南へ進みますと、千住宿問屋場・貫目改所跡(東京芸術センター前、旧足立区役所跡地)を経て、千住大橋から南進した大師道が乗る元区役所通り(このあたりでは最も古い水除堤跡「熊谷堤」を辿るルート)を横断して、17世紀はじめに石出掃部亮吉胤(いしでかもんのすけよしたね)が築いた水除堤跡(掃部堤と呼ばれた)を辿る墨堤通りへと至りました。千住一丁目からここまでの町場は、新たに開拓された地域で「掃部宿」と呼ばれたのだそうです。江戸の北側の一大ターミナルとして、栄えた町場の大きさやにぎわいを感じることのできる見所がまさに満載です。

千住大橋

千住大橋北詰・奥の細道矢立初めの地碑
(足立区千住橋戸町、2008.10.13撮影)
隅田川

千住大橋付近の隅田川
(足立区千住橋戸町、2008.10.13撮影)


回向院・史跡エリア
(荒川区南千住七丁目、2008.10.13撮影)
南千住駅

JR・東京メトロ・TX南千住駅前
(荒川区南千住七丁目、2008.10.13撮影)

 その後も、神田や駒込とともに江戸の三大青物市場のひとつで「やっちゃば」と呼ばれた河原町や(横山家の内蔵を移築した「千住宿歴史プチテラスがあります)、高札場跡などの歴史を感じる事物を残す穏やかな商店街を、旧日光街道に沿って進みました。隅田川に架かる千住大橋は、隅田川に架かった最初の橋として、1594(文禄3)年、普請奉行・伊奈備前守忠次により現在の位置よりやや上流につくられたのだそうです。現在の橋は1927(昭和2)年に建設当時としては最新の技術であった「総アーチ橋」として架けられたものであるといいます。付近には松尾芭蕉に関連したミニパークや石碑などが設けられています。1689(元禄2)年、芭蕉は門弟の曽良とともに深川より隅田川を船で溯上し、同年3月27日にこの千住大橋付近で船を下りて「奥の細道」の長旅へと出立しました。

 なめらかに水をたたえる隅田川を渡り、千住宿南組を基礎とする南千住へ。長かった足立区もようやくその範域の外となり、荒川区域へと入っていきます。再開発が進む駅前の喧騒に隠れるように、小塚原回向院があります。東海道筋の鈴ヶ森とともに仕置場(刑場)があった場所で、回向院は刑死者や埋葬された無縁の死者、死んだ馬などの供養のために建立されたといいます。明治以降は顕彰の場となり、橋本佐内や吉田松陰の墓なども佇みます。杉田玄白や前野良沢らがここで腑分けを見学したことをきっかけに「ターヘルアナトミア」の翻訳に着手し「解体新書」を出版したことを記念する「観臓記念碑」も設けられています。かつての処刑場と、現代都市の動脈たる鉄道高架とがここでは近接してあり、時を刻んでいます。南千住駅に至って夕闇がせまり、この日のフィールドワークを終えることとしました。広い足立区内を縦横に歩いてきて、千住はやはり、今も昔もこの地域の扇のかなめの位置にある場所であると実感する行程となりました

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