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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#22 東京リレーウォーク(14) 〜荒川区内彷徨 “首都の近傍”の残照〜 (荒川区)

 2008年11月2日、前回の東京フィールドワークの終了地であった南千住駅前から、東京都内の散策を開始しました。コツ通りの商店街を北へ進み場末の風情を感じながら再開発で一変しつつある駅前の躍動を胸に刻み千住大橋の南詰を再び一瞥して、荒川の水運を利用して材木が運搬され、商われたとういう往時の雰囲気を町並みの中に味わいながら、国道4号を南へ戻り進みます。住宅街の中に埋もれるようにある熊野神社は、創建は1050(永承5)年と伝えられる古社です。大橋(千住大橋)を架橋するにあたり普請奉行伊奈備前守はこの神社に工事の成就を祈願、1594(文禄3)年橋の完成にあたりその残材で社殿の修理を行ったといわれています。

 現在の南千住一帯は大小さまざまな建物によって充填され、東京都心から連接した都会の只中にあります。現在の荒川区は、これまで歩いてきた江戸川区や葛飾区、足立区と同じように、1932(昭和7)年10月の当時の東京市の拡張によって編入された地域の一つであり、それまでは北豊島郡南千住町・三河島町・尾久町・日暮里町の範域でありました。新市域においてもとりわけ旧市に近接していた荒川区域は早くから都市化が進んで、農村的な性格を持っていたという往時の風景はまったく想像が及ばなくなっています。

コツ通り

コツ通りの景観
(荒川区南千住七丁目、2008.11.2撮影)
熊野神社

熊野神社
(荒川区南千住六丁目、2008.11.2撮影)
三ノ輪橋駅

都電荒川線・三ノ輪橋停留所
(荒川区南千住一丁目、2008.11.2撮影)
宮地稲荷

宮地稲荷(三河島稲荷)
(荒川区荒川三丁目、2008.11.2撮影)

 人情あふれる商店が立ち並ぶ三ノ輪橋商店街を通り抜け、バラがはびこるレトロな雰囲気を醸す三ノ輪橋停留所のアーチに迎えられました。停留所の周辺はそこだけ空が広くて、高密度に市街化された地域にあってほっとできるような空間であるように思われました。都電として唯一路線を残す荒川線で二駅、区役所前で下車し、かつての三河島のエリアを歩きました。「かつての」と記した理由は、現在このあたりの町名は「荒川(1〜8丁目)」となり、旧三河島町の地域はこの荒川や周辺の町名に整理され消滅しているためです。

 この界隈を説明する多くの文献が紹介しているように、当地は元来は江戸に接する農村地域で、明治のころまでは現在の宮地ロータリー付近を中心とした一帯に集落がまとまっていたほかは、茫漠とした田園風景が広がっていたようです。明治通り南の住商混在地域は道路の幅員が本当に狭く、都市の近代化への配慮が行き着く暇もなく農地が急速に宅地化された土地の背景がにじみ出ているような景観です。1579(天正7)年創建と伝えられる宮地稲荷(三河島稲荷とも呼ぶ)や境内に設置された「三河島菜と枝豆」と題された説明板に、かろうじて牧歌的な農業集落であった往時が偲ばれるようです。江戸を代表する漬菜であった三河島菜は、白菜の伝来により取って代わられたり、また農地が消滅したりすることによって次第に失われ、現在では農業史の中にその名をとどめるのみとなっているとのことです(なお、現在宮城県の仙台市周辺で認められる「仙台芭蕉菜」が別名「三河島菜」と呼ばれるとする文献があるようで、三河島菜が仙台に伝わったらしいという情報もあるようです)。1905(明治38)年、日本鉄道の駅として開業した三河島駅も、広大な水田地帯の中を行く列車を受け入れていたことでしょう。

日暮里繊維街

日暮里中央通り(繊維街)
(荒川区東日暮里五丁目付近、2008.11.2撮影)
日暮里駅

日暮里駅周辺の景観
(台東区谷中七丁目付近、2008.11.2撮影)
日暮里方面

諏方神社境内からJR日暮里駅方面を望む
(荒川区西日暮里三丁目、2008.11.2撮影)
西日暮里駅

諏方神社境内からJR西日暮里駅を望む
(荒川区西日暮里三丁目、2008.11.2撮影)

 三河島駅前を通過する尾竹橋通りを南へ進み、日暮里中央通りを右折して日暮里駅方面へ。日暮里は繊維の町であり、繊維問屋が多く集積するエリアです。生地をはじめ、端切れやボタンなどの手芸用品を取り扱う問屋が立ち並び、小売りも行っているため人気のある地域であるようです。日暮里駅前はまさに再開発が進行中で、高層マンションを含む「サンマークシティ」の建物が威容を示していました。JR線のほか、京成線、日暮里・舎人ライナーが並走する日暮里は、その結節性が格段に向上している活気に溢れていました。古銭歩道橋を西へ渡り、荒川区では唯一の高台である諏訪台へ。昔ながらの街並みが人気の谷中から続く寺町の雰囲気を残すこの一帯は、古くは「新堀」と表記されてきた江戸の時代から、「日ぐらしの里」と呼ばれて親しまれてきた景勝の地です。

 緩やかに上る御殿坂を、月見寺と呼ばれる本行寺を右に見て進み、雪見寺と呼ばれる淨光寺や花見寺の別称を持つ青雲寺の佇む諏訪台通りを行きます。以前富士山を今でも望むことのできる坂としてご紹介した富士見坂(#2谷中・日暮里編参照)のあるエリアです。諏方神社の境内から眺める日暮里の風景は、眼下に通過する列車の喧騒の向こうに広々とつづく都会の景色が見えることもあって、東京でも好きな景色の一つです。かつては、穏やかな寺町が展開する高台(諏方神社のある諏訪台や北へ続く道灌山)から、眼下に茫漠と広がる水田や農村の点在する一帯を介して遠くは日光や筑波、下総国府台(現在の市川市)まで望むことができたという絶景は筆舌に尽くしがたいものであったのでしょう。訪問した時は、大都会の建物の海に、駅前の再開発ビルがランドマークとしてまさに完成されつつある段階でした。

赤土小学校前

日暮里・舎人ライナー、赤土小学校前駅
(荒川区東尾久二丁目、2008.11.2撮影)
尾久銀座

尾久銀座商店街の景観
(荒川区東尾久五丁目付近、2008.11.2撮影)
煉瓦塀

あらかわ遊園付近・煉瓦塀の残る景観
(荒川区西尾久六丁目、2008.11.2撮影)
都電荒川線

都電荒川線の風景(宮ノ前電停付近)
(荒川区西尾久三丁目、2008.11.2撮影)

 諏方神社の境内から西日暮里駅へと下る地蔵坂を歩き、ガード下をくぐって、日暮里・舎人ライナーが宙空を颯爽と進む屋久橋通りを進みます。東尾久本町通交差点からは、万国旗がひらめく尾久本町通り商店街、そこから尾久橋通りを西へ続く川の手もとまち商店街と、下町的な雰囲気が印象的な商店街が連接していました。西に入り程無い場所には、南に尾久銀座商店街、北にはっぴいもーる熊野前商店街と、ネーミングにも温かみを感じる商店街が連続します。尾久(おぐ)は、荒川区の西側、明治期まで農村的な景観が卓越していた、このあたりにあっても最後に都市化の波が及んだ地域であったようです。現在も尾久の町を走り抜ける都電荒川線の前身である王子電気軌道が開通した1913(大正2)年にはまだ「尾久村」でした。翌1914年にラジウム温泉が掘り出されて料理屋が軒を連ねるようになり、三業が許可されたのが大正10年か11年とのことであり、大都市近郊にあって工業化が進んできた尾久の町は遊興の地としても急発展を見せて、1923(大正12)年に町制を施行しました。この尾久からやや離れているにもかかわらずその名のあるJR尾久駅(こちらは「おく」駅)の存在も、歓楽の地としての尾久が目立つ存在であったことを今に示す事象であるといえます。同年は関東大震災の発生年でもあり、被災地からの移転する人口や産業の受け皿としての役割も担うようになったようです。地域の劇的な変化をこの目で見てきた村の鎮守・尾久八幡神社は、「宮ノ前」や「熊野前」など、停留所名にどこか古き時代の香りを感じさせる都電の行き過ぎる大通りを前に、穏やかに鎮座していました。

 1922(大正11)年に開業したあらかわ遊園の周囲の住宅地には煉瓦塀が残ります。これは開設当時は現在よりも広い敷地だった遊園を囲んでいた塀の名残であるようです。これはあらかわ遊園を創業に尽力したのがこの一帯の地場産業として活況を呈していた煉瓦工場の経営者であったことによると、区教委が設置した説明板に開設されていました。足立区北部の穏やかな住宅地域と異なり、早くから都市機能の移転が進んだ荒川区では、農業集落が水田や畑のあわいに点在していた原風景は、大都市圏内の下町的な風合いの街並みの中にその残照をかすかに感じさせました。

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