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東京優景 〜TOKYO “YUKEI”〜

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#51 東京リレーウォーク(32) 〜妙正寺川に沿った住宅地域を歩く〜 (中野区・杉並区)

 2013年1月5日、大久保から鍋屋横丁を通ってJR中野駅まで到達した私は、中野駅の北側に出て、繁華なエリアを抜け、桜並木の続く中野通りを進みました。中野区は東側に新宿区に接する位置にあるため、新宿駅を発着する環状路線が区域を東西に貫通しています。バス路線がそれらの路線の駅間を結ぶように発達しているため、都心方面へのアクセス性は良好です。江戸外縁部の農村地域であった地域は、近代以降目覚ましく市街地化していき、現在ではほぼ住宅地と商業地とで充填されている状況となっています。

中野通りの景観

中野通りの景観
(中野区新井一丁目、2013.1.5撮影)
新井五差路

新井五差路
(中野区新井一丁目、2013.1.5撮影)
新井薬師

梅照院(新井薬師)
(中野区新井五丁目、2013.1.5撮影)
哲学堂公園付近の妙正寺川

哲学堂公園付近の妙正寺川
(中野区松が丘一丁目、2013.1.5撮影)
妙正寺川

妙正寺川
(中野区松が丘二丁目、2013.1.5撮影)
妙正寺川と江古田川の合流点

妙正寺川と江古田川の合流点
(中野区松が丘二丁目、2013.1.5撮影)

 新井五差路近くには、都内でも屈指の名刹として知られる新井山梅照院があります。新井薬師の通称で知られ、西武新宿線には新井薬前駅があるなど、古くから広く信仰を集めています。寺院の由緒は、鎌倉末期に行春(ぎょうしゅん)という僧が清水の湧き出るこの地訪れ、草庵を結んだことによります。徳川秀忠第五子の和子の方(東福門院)が、眼病患い本尊の薬師如来に祈願したところ快癒したことから、「目の薬師」とも呼ばれます。中野通りをさらに北へ進み、西武池袋線の線路を越えますと、東京都名勝の哲学堂公園に至ります。神田川の支流である妙正寺(みょうしょうじ)川に沿うように立地するこの公園は、東洋大学の創始者・井上円了がこの地に建立した「四聖堂」を礎として、精神修養すための公園として整備されたものです。公園から中野通りを挟んだ西側、妙正寺川に江古田川が合流するあたりにわずかながら緑地があります。緑地の南側には北野神社があって、河畔の森が社叢となっている格好になっているようでした。

 妙正寺川は大きく蛇行しながら、江古田から沼袋にかけて地域を緩やかに流れています。妙正寺川は、武蔵野台地を下刻していて、川に向かって緩やかな下り坂になっています。明治期に作成された地勢図では、川に沿った低地と坂上の台地とがより明瞭に描かれていまして、川沿いの狭い低地は水田として利用されていたことが分かります。現在では川は三面ブロックで覆われ、周辺も住宅地へと変貌していますので、そうした農村的な土地利用があったことは全く想像できなくなっています。そんな住宅地域の中を進む坂を上っていきますと、宅地の中にはいくつかの寺院が穏やかなたたずまいを見せていまして、わずかに往時を偲ばせていました。沼袋駅周辺の下町的な商店街を一瞥しながら、再び妙正寺川に沿って上流方向へ歩を進めました。

沼袋駅北口

西武新宿線・沼袋駅北口付近
(中野区沼袋一丁目、2013.1.5撮影)
妙正寺川

妙正寺川の景観
(中野区新井三丁目、2013.1.5撮影)
調整池への取水施設

環七通り近く、調整池への取水施設
(中野区大和町二丁目、2013.1.5撮影)
早稲田通り

早稲田通りの景観
(杉並区阿佐谷北六丁目、2013.1.5撮影)
妙正寺川親水プロムナード

妙正寺川親水プロムナード
(杉並区清水三丁目、2013.1.5撮影)
妙正寺池

妙正寺池
(杉並区清水三丁目、2013.1.5撮影)

 川沿いは閑静な住宅地が続きます。中野工業高校の敷地が妙正寺川の南に張り出している部分もあって、狭隘な市街地で一定の土地を確保しようとする跡も見受けられました。環七通りを越えますと、通りに沿った川の左岸側に取水口のような構造物が目に留まりました。集中豪雨による浸水被害を抑止するために、環七通り地下に雨水を一時貯留するための調整池が作られていまして、目にした取水口はその調整池へ水を流し込むための入口です。このような取水口は、善福寺川や神田川にも設置されているようです。妙正寺川沿いの道路は、第四中学校の敷地が川にまたがっているため再び中断します。迂回するために南に入った周辺は「大和町」と呼ばれる地域です。旧来からの地名では、上沼袋村の一部であった当地ですが、字名が「大場(だいば)」であったことから、韻が似ていて、新旧住民が大きな和をもって発展させようということから「大和」の字が採られ、1932(昭和7)年に「大和町」と改称されたものであるようです。地名の面からも、急速な都市化に伴い新住民が入り大きな変容を遂げた地域の姿が理解できます。

 時刻が午後4時過ぎとなっていたこともあり、鷺ノ宮駅方面へ大きく北へ曲がる妙正寺川へは戻らず、大和町を西へ進んで到達した早稲田通り沿いをしばらく進みました。中野区から杉並区に入り、地名も阿佐谷から下井草へと変遷しました。郊外の住宅地域となっている一帯をまっすぐに進む早稲田通りをひたすらに進んで、妙正寺川の最上流部に到達した頃には既に日没近い時間となっていました。妙正寺川の水源である妙正寺池までの区間は「妙正寺川親水プロムナード」として修景がなされており、枝垂桜の並木が続いていました。妙正寺池の周辺は公園となっていて、水辺を中心として木々がふんだんに配された、のびやかな緑地となっていました。妙正寺池の名前は、池にほど近い場所にある同名の寺院に由来しています。周辺の地名「清水」も、この付近に湧き水が多いことによる命名であるようです。

 妙正寺公園に到達した時点で既に薄暮の時間となっていたためこの日の活動を終えることとし、環八通り沿いのバス停からバスに乗り荻窪駅前で移動し帰路に就きました。今回通過した中野区北部は、1932(昭和7)年に東京市に編入されるまでは「野方町」と呼ばれる町域でした(このとき一緒に編入された中野町と一緒に、「中野区」となりました)。藩政期にこの地域一帯に混在した天領や旗本領をまとめて「野方領」と呼んだことが地名の由来であるようです。東京を取り巻く外縁部は藩政期までは長らく江戸と結びついた農村地域でありましたが、近代以降都市化が進行し、関東大震災を契機に移住人口が増加し、東京の市街地へ急激に組み込まれました。都市部に対し、郊外の「野」が広がる「方」という意味合いを多分に感じさせる地名が、現代の都市の只中となった地域の履歴をものがっているように思われました。

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