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点描千葉市とその周辺
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#5 花見川流域 〜豊かな農村・集落・住宅地景観〜 人間の生活圏域を、その基本のところで規定し、制約をあたえるものの代表は、山や川などの自然地形であるといえます。行政界に自然の事物が用いられることは、その一例ですが、地域の生活圏を定める自然地域関連の概念として、流域があります。一定の河川が水を集める範囲が、すなわちその地域に住む人間の生活の範域となることも多いですね。一部人工的な改変の結果、この地域を代表する事物の1つとなった花見川は、今、ゆったりと、千葉市北部の内陸を貫流します。その流域に沿うように、特徴ある、数々の風景が展開していきます。
京葉道路下を通過し、車2台がやっと通過できるほどの小さい橋を渡って、すぐに台地上に登る崖につきあたります。地形図の標高点を読図すると、花見川区役所付近が6メートル、畑町の台地上が23.2メートルであり、比高は単純に比較して17メートルほどになるため、歩くとかなりの坂に感じます。付近には、「花見川区役所へは、川沿いのサイクリングロードを行った方が便利です」と親切な表示がされていました。私は、台地上の子安神社へ向かうため、この坂を登って、台上へ上がっていきました。送電線と変電施設の横を東に進むと、そこにはキャベツやブロッコリーの畑が広がり、まさに、「畑の町」といった景観が広がります。北方を望むと、畑、斜面林の向こう、花見川の河谷を介して長作町方面の眺望が広がります。このあたりは、畑もあるが、屋敷林を伴った集落も発達しており、清涼寺などの寺院も見られます。集落の中で丁字路に突き当たり、南に針路を変えると、北側に古墳の森を伴った鎮守、子安神社に到達します。背後のこんもりとした森(楠などの照葉樹に、シイノキなどの若干の落葉樹が混交しているようです)の下、うす緑の屋根をのせた入母屋造のお社が、慎ましく建てられている様子は、実に好感が持てる景観です。この子安神社をはじめ、船橋市の二宮神社や先ほど紹介した子守神社などの7つの神社が「三山の七年祭り」という大祭を共同で行っているとのこと、都市化が進む中で広域的に神社が連携して神事を行っているというのは、珍しいことなのではないでしょうか。
子安神社付近の比較的住宅が密集した地域は、畑の中に屋敷林を伴った住宅が点在しながらも、時折住宅が密集して、道が狭まる箇所もまた存在するなど、ごく一般的な農村集落の趣でした。この「畑町」という町名は、字だけから判断すれば、まさに土地利用がそのまま地名になったとみなすこともできますが、一説には渡来系の氏族である「秦氏」との関連で捉える向きもあるようです。とはいえ、豊かな田園風景の広がる現在のこの場所の名前としては、ふさわしく、また目の前の風景を見るとき、とても美しい響きなのではないかとも考えられるのでした。 畑小学校の西側で、再び小規模な谷地が台地をえぐっています。コミュニティセンターの前を過ぎ、県道72号線を横断すると、さつきが丘団地までの台上は、広大な畑が一面に展開する光景になります。畑町西側のキャベツ畑に変わって、このあたりからは一面の長ねぎ畑です。一部に残雪や、霜や霜柱などが残っていますが、その中でも青々と葉を成長させるねぎはとても瑞々しく見えます。遠くの団地の姿もきれいに見通せ、手前の台地端の斜面林の緑とともに、この地域の典型的な景観を創出しています。さつきが丘団地との間には、やや規模の大きい谷地の貫入があり、谷を下って再び坂道を登ると、公団住宅群が林立する、さつきが丘団地へと入っていきます。
さつきが丘団地は、大都市近郊においては、ごく一般的な、ありふれた住宅団地なのですが(花見川郵便局が立地しており、団地内や周辺の幹線道路沿いに商店やレストランなどが比較的集積していて、住環境はなかなかよさそうなところでしたが)、この団地の最大の特徴は、国指定史跡である犢橋貝塚を公園化した、貝塚公園の存在ではないでしょうか。公園となった現在では、草地の中にぽつんと「犢橋貝塚」という石碑が立つのみで、史跡の原型は見るかげもありませんが、北東方向に緩やかに傾斜した草原は、花見川の支谷(この団地の手前で通過したやや規模の大きい谷地)に舌状に突き出した台地上に位置し、縄文海進時に穏やかな入り江に臨む高台というロケーションであったであろうことを考え合わせると、そこが団地住民の憩いの場所となっていることは、むしろ好感が持てるところではないかな、とも考えたのでした。 団地の東側をまっすぐに北上する道路を北に進み、犢橋保健センターの前を通過して、県道69号線を西に折れます。このルートに到達するまでの間は、畑町からさつきが丘までは地図で見ると、ずっと京葉道路のすぐ北を通過してきたことになるのですが、まったく高速道路の近傍という感じは受けませんでした。このあたり、周辺環境にたいする並々ならぬ配慮が窺えます。また、県道との交差点までの間に道路が盛り度されている大規模な支谷は、現在でこそ花見川の支谷のようになってしまっていますが、印旛沼通水事業が行われる前は、この支谷のほうが、正真正銘の花見川の川筋であったのですね。この支谷沿いの、犢橋町の集落景観も、武石町付近でみた景観と同じく、台地端の斜面林を背負って旧家が並ぶ様子は、非常に温かい光景のように思われます。
天戸大橋で再び花見川を渡り、東金街道沿いに建てられた花島観音入口の道標に至ります。道標には、「西 ふなはし道」、「東とうがね道(こちらのほうは、確証がありません)」とあり、ここを進むと花島正観世音に行ける旨の表示があります。津田沼で見た成田街道の石碑といい、下総地域には、街道筋を示す石碑が多く残っていますね(日本全国でも一般的なことなのかもしれませんが)。この石碑のたもとを北へ折れて、花島観音の方へ進んでいきます。道すがらには、馬頭観音の小さな石碑もあり、花島観音への道案内をしてくれます。周囲は相変わらずの農村的な色彩が強かったのですが、程なくして多くの工場が集積する地域、それも整然と区画された工業団地というのではなく、あくまで農村地域にスプロール的に工場が立地したといった感じの巷、へと変わっていきました。工場に隣接して、老人ホームや高層マンションがあるなど、見た目に不自然な土地利用です。都市計画図を見なければ何とも判断できませんが、このあたりも準工業地域で、工場であろうが住宅であろうが何でもありという場所であるのかもしれません。 やがて、花島町域に入り、道が再び花見川に向かって下りに差し掛かり始めると、工場も落ちついて、周囲は緑の多い、落ち着いた集落景観が復活してきます。生垣にこった門構えの旧家などもあり、竹やぶや丘陵の森に抱かれた景観は、大都市圏近郊にあっては、とても貴重であると思われます。 花島観音は、花見川が洗う小高い台地上に、慎ましく立地していました。正しくは、花島山天福寺といい、その観音堂に、33年に1度開帳される秘仏花島観音は安置されているとのことです。銀杏の古木の下、飾らない質素な結構をみせる観音堂は、花見川沿いに整備された総合史跡公園から見上げると、付近の木々とともに一段と美しさが増します。桜の木も多く、近隣ではちょっとした花見スポットであるとのことでした。
花島橋をわたり、千葉鉄工業団地方面へと、またあの台地へ上がる急崖を登っていきます。新規に掘削されたとはいえ、この区間にはかつての花見川の支谷の流域と、古くは印旛沼方向へ落ちていた新川の支谷流域が、わずかな微高地を介し接していた地勢であったのでしょうか。三角町方面に登るこの急な崖の存在が、それを示しているように、感じられましたね。 花見川沿いは、台地と低地とがバランスよく連続する豊かな農村地域が、穏やかな都市化を受けて変化しながらも、多くの史跡を残す、全体としてとても好感が持てる、大都市近郊の一地域であるように思われました。今後とも、秩序ある施設配置を行いながら、地域に残る景観や史跡などの多様な財産を維持し、うるおいある生活環境を残すことができるような、息の長い取り組みが望まれるような気がします。 |
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