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中国山地を見つめて

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#5 高梁をめぐる 〜藩政期を生きた町並み〜

 いわゆる「平成の大合併」によって多くの市町村が合併を経験する中で、岡山県下でも劇的な市町村数の淘汰が進みました。上下の町並みを後にして、府中市、福山市北部を経由して岡山県に入り、井原市を経て高梁市内へと進む経路はすべて市域となっていました。高梁川と成羽川が落ち合う地点の北側に展開する高梁の市街地は、山城として知られる備中松山城に象徴されるように山あいの狭隘な盆地に展開していまして、合併により飛躍的に広大化した市域と好対照を成していました。高梁川の堤防沿いを颯爽と走り抜ける国道から市街地へ入り、市役所に自動車を止めて、フィールドワークをスタートさせました。日本三大山城のひとつに数えられ、1240(仁治元)年に秋庭重信が備中有漢郷の地頭に任じられ、臥牛山に砦を築いたのが始まりとされる備中松山城は、近世以降も備中松山藩主の居城としての歴史をつないで、城下町として存立した現在の市街地の礎を形成させました。

 市街地のある高梁盆地は地形的に狭まった印象があるものの、高梁の市街地は必ずしも密集した圧迫感のようなものを感じさせませんでした。JR備中高梁駅前から北へ、市役所東を抜ける街路はゆったりとした幅員を擁していまして、穏やかな住宅地の景観もあいまって、たいへんゆったりとした風景を構成していました。緑に溢れた町並みの彼方には、備中松山城が築城された臥牛山をはじめ、丸みを帯びたアウトラインの山並みがやさしくまちを取り巻いているようすも、そういった感覚を抱かせる要因になっているようでした。道を跨ぐ渡り廊下のある病院の下をくぐりますと、「美観地区」として日本の道百選にもリストアップされれている紺屋川(こうやがわ)沿いへと至ります。美観地区の散策は跡に譲り、まずは城下町の武家屋敷の並ぶ景観を今に残す「石火矢町ふるさと村」のエリアへと足を運ぶことにしました。


美観地区

石火矢町ふるさと村「美観地区」(紺屋川沿い)
(高梁市中之町、2007.9.1撮影)
頼久寺

頼久寺
(高梁市頼久寺町、2007.9.1撮影)
石火矢町

石火矢町ふるさと村「武家屋敷通り」
(高梁市石火矢町、2007.9.1撮影)
高梁川

高梁川
(高梁市川端町、2007.9.1撮影)

 石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村は、ふるさとの景観を残し、郷土を見直そうという思いから設けられた制度である「ふるさと村」の指定を1974(昭和49)年に受けたエリアで、先述の「美観地区」と「石火矢町」のふたつの地域を含んでいます。紺屋川沿いから、石積みや白壁が住宅地に重なる路地を進み、足利尊氏が全国に建立させた安国寺のひとつであるという頼久寺の美しい白壁の景観を楽しみながら、石火矢町の武家屋敷通りへと歩んできました。JR伯備線の単線の線路に沿って閑静で緑に満ちた住宅地域は、所々にやはり城下町の武家地としての風情を感じさせる家並みや石垣などを残していまして、近世における松山城下町の空気を感じさせました。

 石火矢町は、石積みの上に築かれた土塀の落ち着いた景観が連続する、伝統を感じさせる武家屋敷通りが印象的な地域です。土壁に格式を感じさせる深見のある色合いの門構えの武家屋敷は、手入れの行き届いた庭木の景観美もあいまって、備中松山城下の武家地としての奥行きを存分に含んでいました。通りの北に聳える臥牛山の稜線とも軽やかに連接していく庭園の緑も絶妙なマッチングです。その臥牛山麓の高梁高校の天体観測用のドームを載せた校舎も、石垣と土塀に囲まれていることもあり不思議とこの景観の中に違和感無くおさまっているように感じられ、文教施設用地として供されやすい地域的な特性をも垣間見せているのもまた興味深い事象でした。高校前を流下する小高下谷川に沿って坂を下り、広小路交差点から通行量の多い国道を渡り、高梁川の流れを一瞥しました。盆地というには狭い山間の小平野の高梁市街地の対岸は、すぐに山並みが迫るものの、やはり圧迫的な狭隘性は感じられず、ゆったりとした風景のように感じられます。
 

本町

本町の景観
(高梁市本町、2007.9.1撮影)
美観地区

美観地区の景観(本町付近)
(高梁市本町、2007.9.1撮影)
鍵曲跡

美観地区、鍵曲跡
(高梁市大工町、2007.9.1撮影)
郷土資料館

高梁市郷土資料館
(高梁市向町、2007.9.1撮影)

 再び国道を東へ横断し、本町の通りを南へ進みました。石火矢町ふるさと村の区域に目が行きがちな高梁の町並みにあって、旧市街地の商店街と思しきこの通り沿線は、隠れたスポットであるように思いました。なまこ壁や格子壁の町屋が穏やかに残されていまして、伝統的な商業中心地としての歴史性を感じさせるに余りある、たいへん美しい町並みでした。近世以降高梁川を介した物流が整備されるにつれて町割されたことに始まるこの本町には、その経済活動が活発になるにつれて多くの有力商人が集まるに用になり、松山城下町における商業の中核地へと成長していったことが、町屋の傍らに設置された看板に記されていました。ふるさと村を構成するもうひとつの要素である、紺屋川沿いの美観地区は、キリスト教会や藩校有終館などが桜並木や柳並木の並ぶ穏やかな川沿いに点在し、趣の有る町並みもあいまって、豊かな都市景観として昇華しているように感じられました。

 備中松山城と城下町とを分かつ外堀としての機能も有していた紺屋川は、川の北と南で道路が連続せず、城防備のための鍵曲路となっていることが路面に埋め込まれたタイルに刻まれた絵図に描かれていました。現在では橋の幅を広くとることによってクランクは解消されているようでした。城下町としてのさまざまな景観と事物とを穏やかに残す高梁の市街地を確認した後、市役所へと戻りました。途中に「高梁市郷土資料館」として公開されている洋風建築に目が留まりました。1904(明治37)年に建築された旧高梁尋常高等学校本館の建物であることのことで、藩政期に一定の都市的基盤を得た高梁の市街地の趨勢が、近代以降も継続したことを実感させました。現在の高梁市街地は決して中心性が相対的に高いほうではないのかもしれません。しかしながら、地域に穏やかに残された歴史に裏打ちされた確かな文化的な色彩はなお、この町を豊かに包み込んでいるように感じられました。
                                     

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