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2012年1月、冬の福井を訪れました。我が国屈指の群生地として知られる越前水仙に魅せられながら、 古来より畿内に隣接して歴史的な舞台として歩んだ越前の風土を感じる道筋となりました。 越前岬水仙ランドの水仙 (福井県越前町、2012.1.21撮影) |
訪問者カウンタ ページ設置:2016年5月31日 |
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越前海岸の華 〜水仙の芳香に包まれる〜 2012年1月21日、夜行バスで早朝の金沢駅に到着後列車を乗り継いで芦原温泉駅に向かい、越前海岸へ向かうバスに乗車しました。わずかに明るさを見せる灰色の空は冬の日本海側の気候を反映してどこか寒々しく、九頭竜川を渡って次第に右手に見えてきた日本海も荒々しい白波を立てていて、厳冬の温度を感じさせました。
そうした冬真っただ中にあっても、越前海岸は一時の華やぎに包まれます。日本三大群生地のひとつとされる野水仙が可憐な花を咲かせるためです。丹生山地が険しい斜面で海水を濡らす海岸は平坦地が少なく、わずかな入江に張り付くように集落が形成されています。諸説あるようですが、海流に乗ってこの地に到達した球根が、暖流の影響で冬でも比較的温暖なこの海岸に根付き、群生地を形成したと一般的には考えられているようです。現在では切り花用に栽培されたり、通年で水仙の花を観賞することのできる施設があったりと、水仙が地域を象徴する花として広く普及しています。奇岩が連続する海岸の風景は相変わらずどんよりと沈んだ真冬そのものでしたが、山側の斜面にはここかしこに水仙が花を咲かせていて、寒空に凛とした姿を見せていました。 越前岬近くに整備された越前岬水仙ランドでは、なだらかな傾斜地いっぱいに咲き乱れる水仙と、眼下の日本海とを一望できました。香水のような芳香が、かすかに感じる潮騒のベース音と海風とにのって、すぐそこまでやってきている早春の匂いのように海岸一帯を吹き抜けていきます。段々畑状の畔のように取り付けられた遊歩道を上り、雄大なスイセンの花畑と日本海、そして傍らの越前岬灯台とが織りなすパノラマを楽しみました。空は引き続きねずみ色のままで、海は青鈍に沈黙し、風はどこまでも冬の様相を呈していました。厳しい環境にありながらも、晩冬のこの時期にいち早く春のあたたかさを知らせるように咲く水仙の花は、福井県の県民性にもつながるとして県の花にも制定されています。
越前岬を後にしたバスは再び水仙があちこちに花を咲かせる海岸を北へと取って返し、越前海岸の景勝地として著名な東尋坊に立ち寄った後、芦原温泉駅へ戻り周遊の行程を終えました。午後早い時間であったため、この日宿泊を予定していた福井市内に向かった後、駅前から出るバスで山間の永平寺へ足を延ばしました。沿岸部や平野部ではまったく無かった雪が永平寺周辺では多く残り、また空気も一段と冷たく、杉木立に囲まれた境内は修行の地としての厳かな空気に包まれていました。 福井市街地散歩 〜城下町としての佇まいをみる〜 越前海岸訪問の翌日は、福井市街地を散策しました。市街地にはまったく雪は残っていませんでしたが、終始薄曇りの冬らしいの一日でした。予定される北陸新幹線の乗り入れに合わせて高架化され新築された駅舎を中心に、駅周辺では再開発が進んでいるようでした。2003年の正月に訪れた際はちょうど高架化の工事中で、駅前の昔ながらのアーケード街の存在でどこか窮屈な印象でしたが、それから9年、駅西口はだいぶ明るい雰囲気に変わっていたように思われました。駅周辺の変化を確認した後は、すぐ北に位置する福井城址へまずは向かいました。
福井城は、1601(慶長6)年に福井藩祖結城秀康(徳川家康次男)が越前68万石を拝領後築城に取りかかり、6年の歳月をかけて完成させたものです。現在は本丸跡とそれを取り囲む内堀や石垣が残されるのみとなっていますが、往時は二重三重に堀をめぐらす壮大な平城でした。城跡には福井県庁、同県警本部が立地しています。城址に隣接する中央公園は西三ノ丸御座所と呼ばれる一部の藩主の居所となった施設があり、そこと本丸にあった政庁との往来のために、内堀に屋根付きの橋が架けられました。その橋が「御廊下橋」で、福井城築城400年を機に明治初期に撮影された写真をもとに復元されています。 本丸跡の北西には、天守台跡が残ります。築城当初は四層五階の壮麗な天守が威容を誇ったものの、1669(寛文9)年に焼失して以降は再建されることはありませんでした。天守台付近には福井の地名の由来と伝えられる「福の井」があります。福井は元は「北ノ庄」の名で呼ばれる地域であったものを、1624(寛永元)年に三代藩主の松平忠昌が、「北」の字が不吉であるとして「北ノ庄」から「福居(後「福井」へ変更)」に改めています。また、1948(昭和23)年6月28日に発生した福井地震による崩壊の跡も確認できます。福井は1945年の戦災でも多大な被害を受けており、わずか3年余りの間に立て続けに壊滅的な被災を受けそこから復興した歴史を持ちます。市街地を南北に縦貫し、福井鉄道の路面電車も走る「フェニックス通り」の名称は、そんな幾度もよみがえってきた福井を不死鳥に見立てたことによるものです。
中央公園を横断してフェニックス通りに出た後通りを北進し、桜並木のある「さくら通り」を東へ、名勝養浩館(ようこうかん)庭園へと歩を進めました。交差点の北西隅に建ち重厚なファサードを見せる地方裁判所の建物は、戦災で焼失後再建するも福井地震で倒壊、福井復興のシンボルとして、堅牢に再度建設されたものであるとのことです。養浩館庭園の西に隣接する郷土歴史博物館の北側には、福井城外堀と土塁、外堀に設けられていた「舎人門」が、発掘調査や丁寧な時代考証などをもとに復元されています。これより外側には武家屋敷が建てられていたことも判明しているようです。藩政期の福井城とその城下町の規模が窺い知れます。養浩館庭園は江戸期には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸庭園でした。こちらも戦災で建物が消失していましたが、市による学術的な調査と復原工事が進められて、1993(平成5)年に完成、一般に公開されています。市街化された旧城下にあって、藩政期の姿を今に伝える貴重な景観として、また市民の憩いの場として、親しまれる存在であるようでした。 福井城址の東側を通りながら駅前に戻り、足羽川左岸エリアへと足を延ばしました。福井城址と福井駅との間の位置には、かつて百間堀と呼ばれる大きな外堀が存在していました。今は福井駅の東側を直線的に流れる吉野川の旧流路を利用した外堀で、福井城を南側から防御する形になっていました。福井駅西口の繁華街を含め、東は現在の吉野川の流路、南は足羽川、西は片町通り、北は松本通り辺りまでの範囲が福井城内及び武家地の範域でした。町人の住むエリアはそれを西から北へ取り巻く部分で、足羽山の麓から九十九橋を渡り、京町、呉服町から松本通りへと続いていた旧北陸街道に沿って形成されていました。現在福井市街地で最も繁華な中心街である福井駅西口の一帯は、藩政期は百間堀が大きく広がる武家地であり、町人の集まる商業の中心地とはかなり離れた場所です。1896(明治29)年に現在地に福井駅が開業してからは、町の中心がこのエリアに移り変わってきました。外堀はすべて埋め立てられて、旧福井城内のほとんどは市街地へと変貌しています。
桜並木が続く足羽川の風景を楽しみながら桜橋を渡り、足羽山の麓へと至りました。市街地に隣接する自然としてたおやかな稜線を見せる足羽山は、山上には公園が整備されていて、市民の最寄りの行楽の場の一つとなっています。旧北陸街道である公園通りを渡りますと、足羽神社などへの参道として地元の豪商が資材を投じて整備したという愛宕坂の石段が目に入ります。歴史を感じさせる散策路として近年は脚光を浴びているようで、情緒に満ちた穏やかな石段が続いていきます。付近には横坂や、愛宕坂が開かれる前の参道であった百坂などもあって穏やかな雰囲気をいっそう引き立てています。坂上の足羽神社付近には、福井市街地を一望できる場所があります。目の前に展開する雄大な市街地の遠景には白山方面の山々も見えていまして、山紫水明ののびやかな風景が現出していました。愛宕坂と百坂との交点付近には明治期に時鐘楼があって、町々に時を告げていたのだそうです。 百坂を下って、市電通りとなっている幸橋で足羽川を渡って三度福井駅方面へと歩みを進めました。城の橋通りを東へ向かいますと、柴田神社が鎮座する「北の庄城址・柴田公園」へと行き着きます。福井駅の至近で周囲は完全に市街化されている中にあって、ここがまるで神聖な場所であるかのように維持されてきたのは、上述の結城秀康による築城以前、柴田勝家が織田信長より越前の地を与えられ、この北ノ庄の地に城を築いており、ここがその本丸のあった場所であるとの伝承に基づくものです。発掘調査の結果、この北ノ庄城の遺構が発見され、その存在が確かめられているのだそうです。勝家は九十九橋の架橋や町場の整備を行い、それはその後の福井城やその城下建設の基盤となりました。そうした場所が現在でも福井市街地における中心市街地の一角となっていることは、偶然のことではないのかもしれません。
福井の町がある福井平野一帯は、九頭竜川や足羽川、日野川が形成した肥沃な豊穣の大地です。しかしながら、暴れ川として恐れられた九頭竜川はしばしば氾濫し、治水対策はこの地域の命運を左右するほどの一大事業でありました。また、豪雪や近年の戦災や震災などを経ても、多くの努力や克己の精神により復興し、今日の輝かしい町や農地を維持してきた福井の風土は、冬の寒さにあってもなお可憐な花を咲かせ、芳醇な香りを漂わせる水仙の花の気高さそのものであるのかもしれません。福井駅からの帰路は、滋賀県の米原まで特急で向かい、東海道新幹線を利用しました。交通の難所として知られる木ノ芽峠に向かうにつれて雪景色となる車窓から見ながら、ふと水仙の別名を「雪中花」ということに思い当りました。 |