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2014年4月、ちょうど桜が見ごろを迎えていた山梨県側の富士山麓の地域をめぐりました。 富士山信仰の巡礼地であった忍野八海や富士登山の玄関口である富士吉田市を歩きながら、富士を目指した多くの人々の思いを感じました。 |
訪問者カウンタ ページ設置:2017年6月21日 |
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忍野八海を歩く 〜神秘的な富士山の湧水群をたどる〜 2014年4月26日、地元から埼玉県秩父を経由して雁坂峠をトンネルで越えて、甲府盆地を南へ、「御坂みち」と呼ばれる国道137号を進んで富士山麓へと到達しました。山梨県は伝統的に甲府盆地を中心とした中西部を「国中」、国中から笹子峠や御坂峠を越えた東部富士五湖地方を「郡内」とそれぞれ呼び習わしてきました。郡内地方の中心都市である富士吉田市の市街地を通過し、東隣の忍野村へと車を走らせました。富士山信仰と結びついた景勝地として世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産のひとつである忍野八海へと向かいました(なお、忍野八海のほか、後述する北口本宮富士浅間神社や御師住宅(小佐野家・旧外川家)、河口湖なども構成資産です)。
忍野八海は、富士山に降り積もった雨や雪が溶岩中に染み込み約20年の歳月を経て湧出した8つの泉の総称です。江戸時代に一大ブームを巻き起こした「富士講」と呼ばれる富士山信仰の対象として、多くの巡礼者が富士登山の前に禊ぎを行ったという歴史を持ちます。忍野八海の近傍に鎮座する忍草(しぼくさ)浅間神社近くの駐車場に車を止めて、忍野八海をめぐる行程をスタートさせました。同神社の創建は807(大同2)年。桧皮葺屋根・三間社流れ造りの本殿が、富士山にも自生するというイチイの社叢に穏やかに包まれている景観は、富士山の自然と歴史とが融合した地域の姿を体現しているかのようでした。神社の南に広がる集落の中を進んで、八海めぐり第八番霊場である菖蒲池へ。多くの菖蒲が繁茂したことからその名があるというこの池は、富士山に向かって細長い形状をしていまして、富士山からの霊気を受け止めているかのようにも感じます。 道祖神の石仏が佇む小道を抜けて、突き当たった小さな流れ(阿原川)に沿って歩を進めますと、清冽な水が周囲の桜木を水面に移す湧池(わくいけ)のほとりに至りました。乳白色に滲む春空と、ソメイヨシノのやさしい色彩とを溶け込ませたような湧池は、五番霊場。湧水量も多く、忍野八海の中心に位置することから、忍野八海を代表する池と目されているようです。湧池から北へ、人工池である中池を経て程ない場所には、七番霊場の鏡池。湧水が少ないものの、条件が整えばその水面に富士山が「逆さ富士」として映り込むことからその名があるようです。この日は富士山は頂に雲を纏っていまして麓しか見えていない状態で、鏡池はその空に浮かぶ雲を映すのみでした。
再び湧池まで戻り、隣接する濁池(六番霊場)が水を流出させる阿原川に沿って、桜が美しいアーチをつくる中を歩きます。桜は春の日射しをやわらかく受け止めてこの上ない色合いを呈して、いまだ多くの雪で覆われた富士山へとあたたかさを伝えているように感じられます。阿原川の左岸にひそっりと佇むように、銚子池(四番霊場)がありました。このころから徐々に空の青い部分が面積を広げていきまして、草むらに囲まれたような銚子池にも陽の光がたくさん届くようになっていました。川沿いの桜並木もよりいっそう輝きを増して、土手を覆う草のさみどり色と相まって、のびやかな春の田園風景を演出しています。富士山もうっすらとではありますが、頂上の存在が目視できるようになっていまして、桜を透かして望むその容貌は、陽春へと移り変わる大地を照らす光明のようにも思われます。阿原川と新名庄川(しんなしょうがわ)とが合流する先には二番霊場の御釜池があって、澄んだ水を湛えていました。 ここまでの忍野八海の湧水群は比較的まとまった位置にありますが、一番霊場の「出口池」だけは他の7つの池とはやや離れた場所にあります。御釜池近くの市道を南東へ、山林や畑が広がる只中を歩くことおよそ15分で、忍野八海最大の出口池(一番霊場)へとたどり着くことができました。池の周囲の木々はいまだ若葉を繁らせてはいないものの、ソメイヨシノやコブシが春の訪れを表現するように咲き誇っていまして、清浄な泉に温かさを添えているようでした。出口池を確認した後は再び元来た道を戻り、「榛の木林資料館」の敷地内にある三番霊場「底抜池」を訪問し、忍野八海の「巡礼」を終えました。
忍野八海周辺は、湧池のあるあたりを中心に土産物店が集まっていまして、また忍野八海とは関係のない人口の池も存在していて、他の世界遺産認定地に比してもやや観光地化が進んでいる感は否めない印象があります。世界遺産の認定を受ける根拠となった、富士山と密接に結び付いた巡礼の舞台であったことを、忍野八海を訪れるどれほどの人が理解しているのでしょうか。そんな疑問も抱きながらも、富士山からのきよらかな水の供給を受ける八つの泉は、今日も人々の願いを溶け込ませて、きらめきを放っていました。 富士吉田の街並みを歩く 〜御師の町上吉田、伝統的な中心地下吉田をめぐる〜 忍野八海訪問後は、前述したこの地域の中心都市・富士吉田の街並みを訪ねました。霊峰富士を彼方に臨むこの平原は、古来より神として崇敬を集めてきた富士山を礼拝する場所として存立し、修験道の伸張と藩政期における富士講の発展により信仰登山の前線基地として発展、今日でも富士山登頂を目指す多くの人々がこの吉田の町に集まります。吉田の市街地は「上吉田」と「下吉田」に大別されます。南側のより富士山に近い場所に位置する上吉田は富士講を受け入れる神職(「御師(おし)」と呼びます)が集住した町場、北に位置する下吉田は伝統的にこの地域の中心地として市街地を形成してきました。忍野八海から国道138号を西へ戻り、富士山信仰の中心として鎮座する北口本宮富士浅間神社近くの駐車場に車を止めて、この2つの町を歩いてみることとしました。
北口本宮富士浅間神社の創始は、社記によると景行天皇40年(110年)、日本武尊東征の折富士を礼拝した後、里人が小祠を祀ったことにあるとされるほどに古いものであるようです。現在地への遷座は788(延暦7)年で、その後も多くの社殿の造営が重ねられて、現存する本殿(1615(元和元)年鳥居土佐守創建)、東宮本殿(1561(永禄)4年武田信玄造営)、西宮本殿(1594(文禄3)年浅野左衛門佐建立)は、国の重要文化財指定を受けています。参道脇の杉や檜の木立が深閑たる空気を漲らせる境内は、ソメイヨシノや梅の花が見ごろを迎えていまして、雪解けの季節を印象づけていました。 浅間神社の鳥居をくぐりますと参道は直進せず、大きく北西へ直角に曲がる形となります。参道はそのまま500メートルほど北西へ進んだ後に北東へ曲がり、上吉田の市街地へとつながっていきます。浅間神社から見て水平方向となる部分は「横町(よこまち)」と呼ばれます。神社の正面からまっすぐに参道がつくられていない理由は、かつては神社の鳥居前に連なっていた町が、富士山から流れ下る雪代(ゆきしろ、雪が融けて川に流れ込む水)による被災を避けるために、1572(元亀3)年に現在地へと集団移転したことによります。付近に堂宇を構える西念寺(さいねんじ)は、今の上吉田の町が成立する元となった寺院であると設置された表示板に開設されていました。上宿交差点を右折しますと、富士山への登拝や準備、宿の提供、祈祷などを行った神職である御師をはじめ、吉田口登山道の山小屋経営者が居住していた上吉田の町へと進んでいきます。
上吉田で現役で御師を務める家は少なくなっているとのことですが、かつて御師として活動した家々の多くがその当時の門構えを現代に残していまして、富士山へとまっすぐに伸びる道路の佇まいとともに、往時の街並みを彷彿とさせていました。入口には一対の石柱と石灯籠があって、細長いアプローチの奥に母屋を構える細長い敷地や建物の配置は、上吉田の家並の特徴です。敷地内には水流が引き入れられて、参拝者が禊ぎを行ったといいます。小佐野(おさの)家住宅(重要文化財)や御師菊谷坊(きくやぼう)、御師中雁丸(なかがんまる)などといった、旧御師の建物を一瞥しながら、藩政期における隆盛を感じました。御師旧外川(とがわ)家住宅(県指定文化財)は、市博物館の付属施設として建物を公開しており、御師住宅の実際を目で確かめることができます。 御師の家並を感じながら北へ歩き、富士急行の富士山駅近くにある金鳥居へ。上吉田の入口に立つ壮麗なこの鳥居は、1788(天明8)年に最初に建てられた、上吉田の街並みのシンボル的存在です。天気が良ければ鳥居越しに富士山を眺望することができます。浅間神社からこの金鳥居までの道中はゆるやかな下りとなっていまして、ここが富士の裾野であることも実感できます。ここからさらに南へ歩を進めますと、中曽根交差点を経て、富士吉田市の中心市街地として機能してきた下吉田の町へと入っていきます。金鳥居交差点付近から北は、庇を歩道にまで伸ばした商店が点在していまして、ゆるやかに街並みは連接しています。富士登山の玄関口としての富士山駅前と、上吉田方面と、下吉田の市街地が連坦した結果であるように思われます。
下吉田の街並みは、国道139号沿いを中心に比較的まとまった商店街(本町商店街)となっていまして、人口規模(約5万人)に比して密度のある中心市街地が形成されている印象です。また、国道から脇に入りますと、小規模な商店街や商店が軒を連ねる場所や、歓楽街的な景観をとどめる場所もあり、繁華な時代を過ごした地方都市の典型たる街並みが展開されているのが印象に残りました。歴史を紐解きますと、富士吉田市は織物産業で栄えてきた地盤があり、重厚な市街地はその隆盛に伴い発展したものであるようです。海外産地との競争などによる繊維産業の衰退や、ロードサイド型店舗の台頭により、下吉田の市街地も影響を受けているようで、その活性化に向けての取り組みがなされている現状も垣間見られます。 市街地をゆるやかに流れる宮川を渡った先には、月江寺が佇みます。境内先には透明な湧水を湛える池があって、豊かな林に囲まれた水面は芽吹きの季節を迎えて、春の穏やかな色彩に包まれていました。宮川に沿って歩き、小室浅間神社を参拝しながら、下吉田の玄関口となる下吉田駅へ。モダンな結構がシンプルながらも気品を備えるその駅舎は、背後の山並みに寄り添うように存在し、街並みを見守っているように感じられました。
下吉田駅から列車で富士山駅へ移動し、上吉田の街並みを再びあるいて浅間神社近くの駐車場に戻りました。上吉田の町の東を流下する間堀川は雪代が流れ下る川筋で、西を流れる神田堀川(こちらも雪代堀)とともに上吉田の東西を画しています。その川筋に沿って表通りから一筋東を並行する道路を進んで、桜やスイセンなどが春の到来を告げる地域を観察しました。富士浅間神社は、富士登山ルートのひとつ、吉田登山口の起点でもあります。社殿裏手には霊峰へ続く道路が伸びていまして、古来多くの人々がここからふじさんへの第一歩を記したことに思いを馳せて、吉田市街地の訪問を終えました。 富士吉田からの帰路、桜が満開となっていた河口湖畔に立ち寄りました。春の夕暮れに沈みつつある湖面の向こうには、まだ一面に雪を纏った白妙の富士山がようやくその姿を見せてくれていました。 |