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きょうちくとうの夏
〜終戦60年、広島・長崎訪問記〜

広島平和公園・原爆死没者慰霊碑

広島平和公園・原爆死没者慰霊碑
(中区中島町、2005.8.7撮影)
長崎平和公園・平和祈念像

長崎平和公園・平和祈念像
(長崎市松山町、2005.8.9撮影)


2005年8月6日から7日にかけて広島を、また同年8月9日に長崎を、それぞれ訪れました。地域の姿をとおして、被爆60周年を迎えた広島・長崎を見つめます。
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ページ設置:2005年12月25日

この地域文は3部構成です。

(1)広島にて   (2)長崎の鐘   (3)終わりに


        (1) 広島にて −地域に残るあの日−

 2005年8月6日、広島はかあんとした夏空の下にありました。ぎらぎらとした陽射し、わしゃわしゃとまくし立てる蝉の声、滴り落ちる汗。臨時便を出しても満車状態であった広電を降り歩き出した広島の町は、朝から酷暑の中にありました。時刻は午前8時10分を回り、原爆ドーム前は読経の声、ダイインを行う人々、平和公園を目指す人の流れ、元安川沿いで祈りをささげる人々などで溢れていました。雲ひとつ無い青空、どこまでも穏やかに流れて朝の陽射しを軽やかに返す川面、成熟した緑色を太陽に透かせる木々、穏やかな夏の一日。午前8時15分。多くの人々の平和を希求する思いの中、私は平和公園にてこの時刻を迎えました。

 平和記念式典終了後、中電前電停から広電宇品線に乗り、宇品港へ向かいました。鷹野橋を過ぎ、御幸橋へと差し掛かります。御幸橋の西詰には、1945年8月6日当日に撮影された数少ない写真の1つが、その撮影された場所に掲げられています。当時中國新聞社の記者でいらっしゃった故松重美人さんが、ご自身も被災されながらも、後世の記録として残さねばならないという信念から、断腸の思いで撮影されたものです。やさしい水色を湛える京橋川を渡河し、路面電車は皆実町を経て宇品へと進み、程なくして近代的な施設へと生まれ変わった広島港宇品旅客ターミナル前へと滑り込んでいきます。土曜日の午前中ということもあり通勤ラッシュ時ほどの混雑はないものの、瀬戸内の島々や松山方面などへ向うべく、多くの人々がターミナルに集っていました。広島港先の海はなめらかにゆらめきながら、夏の光をいっぱいに受け止めて、夏空の青色そのままの輝かしいマリン・ブルーを呈していました。水平線の向うには、江田島方面の島々や安芸小富士の姿が美しい似島、そしてごつごつした山容が特徴的な宮島などが、夏空の下やや滲んだ姿ながらも、はっきりと望むことができました。私は、ここから似島へ向おうとしていました。似島は、戦地から帰還した兵士等により疫病が本土に持ち込まれないように検疫所が設けられた島でした。臨海学校や民宿があり、現代の広島における身近なレクリエーションの場となっている似島はまた、戦争にまつわるさまざまな痕跡をも残す地域でもあります。午前11時、似島行きフェリー「第十こふじ」は宇品の港を出港しました。きらきらとした海原の向こう、広島のまちなみが輝かしく眺められます。60年前のあの時、広島の町はどのように眺められたのでしょうか。

平和資料館風景

平和資料館風景
(中区中島町、2005.8.6撮影)
広島港沖から眺めた似島(左)と宮島(右)

広島港沖から眺めた似島(左)と宮島(右)
(南区宇品沖、2005.8.6撮影)
広島港沖から広島市街を眺める

広島港沖から広島市街を眺める
(南区宇品沖、2005.8.6撮影)
似島市民センター前の景観

似島市民センター前の景観
(南区似島町、2005.8.6撮影)

 島の中心集落・家下地区は、島の人口の大半が居住する稠密な住宅地域です。広島湾に望む緩やな傾斜地に落ち着いた雰囲気の家々が軒を連ねています。島の中央部の垰(「たお」と読まれます。標高は45メートルとのこと)と呼ばれる峠を東西に抜ける道は、臨海学校や似島小・中学校の立地する島の東海岸に通じているためか、「通学道」と呼ばれているようでした。江田島方面への展望が開け、波静かな海原が夏の輝きの下でこの上ない微笑を見せているかのようでした。海岸沿いの道路を南へ進むと、そこには慰霊碑が建立されています。原爆投下後、この島にあった検疫所の関連施設に陸軍暁部隊によって収容され、亡くなった多くの被爆者を慰めるためのものです。運ばれた被爆者の人数は1万人以上、この島で多くの死体が焼却され、埋められたといいます。慰霊碑周辺では、1971(昭和46)年に600人ほどと推定される遺骨が掘り出され、これが慰霊碑建立の契機となりました。2004(平成16)年5月から地元の要望により広島市が行った発掘調査により、推定で85体の遺骨及びさまざまな遺品が確認されているとのことです。小波の風そよぐような波音を聞きながら、夏の「あの日」さながらの鮮烈な日の光に照らされながら、碑の前でしばし佇み、祈りました。そして、誓いました・・・。似島には、いまだ多くの遺骨や遺品が眠っているであろうとのことです。

 似島学園前の桟橋から出発する船便で宇品に戻り、市電を一部利用しながら、赤煉瓦造りの容貌が美しい広島市郷土資料館へ。この資料館は1911(明治14)年に旧陸軍の糧秣支廠(りょうまつししょう、主に兵馬の食糧調達や補給、研究などを担当する機関)として建設されました。戦後広島市に残る数少ない明治の近代洋風建築で建築技術や意匠に優れるという理由から1985(昭和60)年に広島市の重要有形文化財に指定されており、広島市の郷土資料や普及事業を行う資料館として再整備が行われ現在に至っています。郷土資料館はまた、広島市では少なくなった、被爆時からの残存建物としての側面をも背負う建物でもあります。爆心地から3.2kmの距離にあるこの建物は北側の屋根の鉄骨が曲がる被害を受け、現在でもそれを見ることができます。軍都・広島にあって、港を抱えた宇品地域は、この旧糧秣支廠の建物を始め、戦前における軍にまつわる事物が点在し、その雰囲気を濃厚に残す地域でもあるようです。出汐二丁目に密かに佇む4棟の赤煉瓦の建物は、旧被服工廠の建物とのことです。やはり爆心地に向く窓の鉄枠が曲がっているように見て取れました。

宇品は、県令として広島に着任した千田貞暁によって宇品港(現在の広島港)が建設されたことにより、遠浅の海が埋め立てられたことによって開かれました。本格的な港湾がなく大型船が接岸できなかった広島の近代化を推し進めようとするものでした。商用利用と広島市の発展を期待してつくられた宇品港は、1894(明治27)年の日清戦争以後は次第に軍事利用に傾斜していくようになり、軍事関連の施設が整備されていくようになります。戦後、広島湾周辺の島々をはじめとした瀬戸内沿岸の主要都市や韓国・釜山などを結ぶフェリーや高速船が周航する国際港として、広島の玄関口としての役割を得た広島港と宇品の町は、燦然と輝く現代都市へと昇華しました。その過程で地域が背負った面影は、現代の町並みに溶け込みながら、静かに訴えているようです。宇品御幸一丁目にある千田廟公園は、千田県令の功績を湛えた千田廟社が祀られます。一段高い高まりに建設された千田貞暁像はどのような思いで現在の広島を眺めているのでしょうか。

 再び御幸橋へ戻り、かつて県令の名がつけられた千田通りを北へ歩みました。午後4時を過ぎても夏の日の残照は依然として強く、地方中枢都市としてさらなる輝きを見せる広島の町に照りつけています。60年前のあの日は夏の日は届かず、町は烈火に包まれていたことを思いますと、たいへん悲痛な気持ちになります。市街地には原爆被害について、当時の被害状況を写した写真とともに文章が記された説明版が設置されています。木造の社屋が大破した旧広島電鉄本社の写真は現在でもその凄惨な印象が失われていません。現在は広大な公園となっている広島大学の敷地には、旧広島文理大学の赤煉瓦の建物(被爆建物の1つのようです)が残されていますし、広島赤十字・原爆病院前には原爆の爆風でゆがんだ鉄製の窓枠が残る旧病院の壁の一部が保存されていました。傍らには動員学徒慰霊碑があり泉を前に、多くの花束や千羽鶴が手向けられていました。

旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡

旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡
(南区似島町、2005.8.6撮影)


広島市郷土資料館(旧陸軍糧秣支廠)
(南区宇品御幸二丁目、2005.8.6撮影)
旧被服工廠(右側)

旧被服工廠の建物
(南区出汐二丁目、2005.8.6撮影)
御幸橋欄干

御幸橋欄干
(中区千田町三丁目、2005.8.6撮影)


 鷹野橋の交差点から北へ進みますと、高層建築物が通り沿いに連なるようになり、都市としての密度が増します。夕刻が迫るなか、平和公園へ向って、慰霊碑を巡りながら歩みました。広島市役所前から萬代橋を経て、加古町へ。厚生年金会館やアステールプラザの立地するエリアとなっている加古町には、被爆当時広島県庁舎と市長公舎が立地していました。両者は原爆により全壊しました。跡地にはモニュメントや慰霊碑が整えられています。太田川はたおやかな水面に、夏の夕日を輝かせています。両岸はみずみずしい緑地となっており、実に穏やかな水辺の風景が展開されます。おびただしい都市の建造物のつくるスカイラインのもと、静かに流れる河のほとりを、輝かしい緑の下、進んでいきます。原爆犠牲新聞労働者の碑(不戦の碑)、在伯・広島長崎県人会平和祈願碑、広島県立広島工業学校動員学徒原爆遭難の碑といった慰霊碑が太田川の流れに向って祈りを捧げているかのように感じられます。西平和大橋のたもとより、平和大通りを東へ。平和記念公園前には、原爆資料館の10本の柱と同じ間隔で配置されているという、10基の「平和の門」が、フランスの建築家らにより制作されました。半透明のガラスで覆われたシンプルなデザインの柱の表面には、世界18種類の文字と49の言語で「平和」の文字が刻まれています。門の東、平和大橋の西詰付近の緑地帯には、旧天神町南組慰霊碑、広島市立高女原爆慰霊碑が佇んでいました。

 平和大通りは、建物疎開によって作られていた空き地を基礎としています。建物疎開とは、戦災による類焼を防ぐために、幹線道路沿いの建物を強制的に撤去して緩衝地帯をつくる作業のことです。あの日の朝も、市立高女の学生たちが碑のある周辺一帯で建物疎開の作業に当たっており、命を落としていきました。平和都市広島のシンボルロードである平和大通りの礎には、多くの尊い犠牲があったということを忘れてはなりません。そして、平和公園。この地域には、広島城下町を受け継いだ活気のある町場が形成されていました。「旧天神町南組」もその1つです。とりわけ、元安橋から本川橋に至る道路は、本通から続く旧西国街道を受け継ぐ広島市街地における古くからの動脈であり、周辺は「中島本町」と呼ばれる一大繁華街でありました。一発の原子爆弾は、これらのゆたかな町並みを、そこに暮らした人々や人々の営みもろとも、瞬時に焼き尽くしました・・・。

 元安橋西詰にある平和公園レストハウスは、1929(昭和4)年に大正屋呉服店として建設された、繁華街としての中島本町を今に伝えるほぼ唯一の建物です。被爆当時は「燃料会館」となっており、戦後は燃料会館として引き続き使用された後広島市の東部復興事務所として、都市の復興の拠点として機能し、その後現在のレストハウスとなっているものです。1つの町が、ある日突然、何も残さず一瞬のうちに消え去ってしまった。想像も及ばない出来事ですが、それは事実として広島において起こってしまいました。この上ない戦慄と、とめどない悲しみの気持ちを抑えることができません。とあるサイトに、「平和公園を歩く際には、ここで亡くなった多くの人々の遺体の上を踏みしめているのだ、という気持ちを持ってなさってください」といった趣旨の言葉があり、はっとしたことがあります。レストハウスはそんな人々への鎮魂と、かつての中島本町の喧騒とを伝えつづける灯火であるように感じられました。

爆風でゆがんだ鉄製の窓枠が残る壁

日赤病院前・爆風でゆがんだ鉄製の窓枠が残る壁
(中区千田町一丁目、2005.8.6撮影)
旧県庁跡付近、太田川

旧県庁跡付近、太田川
(中区加古町、2005.8.6撮影)
平和の門

平和大通り・平和の門
(中区中島町、2005.8.6撮影)
平和公園レストハウス

平和公園レストハウス(旧燃料会館、被爆建物)
(中区中島町、2005.8.6撮影)

 日も落ちて、原爆ドーム前の元安川では灯篭流しが始まりました。1つ、また1つ、平和を願い、原爆による犠牲者を慰めるやわらかな光が、穏やかなままの川面をたゆたっていきます。私も灯篭を流しました。目の前を行過ぎる灯篭には、たくさんのメッセージが添えられています。安らかにお眠りくださいといった、死者を慰める鎮魂の言葉、そして平和を求める数々のメッセージです。それらの思いを確かめながら感じたことは、私たちは「平和」という観念を軽く考えてはいまいか?という自戒の念でありました。今日、物質的には豊かな時代となり、見た目には「平和」な暮らしを享受しているように見えます。しかしながら、世界にはなお無数の核兵器や数々の兵器が存在し続けています。内戦やテロ、貧困などに蹂躙される多くの地域もあります。それらの恐ろしい兵器や苦しみをなくすことができない状態で、なぜ平和を手にしたということができるのでしょうか。灯篭には、真の平和に向って決意を新たにする多くの言葉がしたためられていました。

 瀕死の重傷を負い、顔の判別もつかぬほどに焼け爛れた人々は川に水を求め、やがてその多くが息を引き取りました。世界の歴史をつぶさに見つめなおしても、一夜にしてこれほどまでの死体を流した川はほかにあったでしょうか・・・。人々の鎮魂と祈り、平和へ向けての思いを溶け込ませた灯篭のほのかな明かりは、そうした史実を人々の脳裏に焼き付け、平和を実現させるアピールを全世界に伝え、輝き続ける希望の光であるように感じられました。市内に残る数々の被爆建物や被爆の状況を伝えるモニュメント、そして学校や地域、職域などさまざまな単位で営まれた慰霊の式典と慰霊碑の存在を目の当たりにして、こうした思いを新たにいたしました。

アンデルセン

アンデルセン(旧帝国銀行広島支店;被爆建物)
(中区本通、2005.8.7撮影)
旧日本銀行広島支店

旧日本銀行広島支店(被爆建物)
(中区袋町、2005.8.7撮影)
平和公園内、旧西国街道

平和公園内、旧西国街道
(中区中島町、2005.8.7撮影)
元安川・灯篭流し

元安川・灯篭流し
(中区中島町、2005.8.6撮影)


 翌7日も、広島市内の慰霊碑や現代の町並みを巡りました。広島駅周辺、白島、本通と歩いて、袋町小学校では被爆直後に家族の消息などが記された壁を目の当たりにいたしました。夏の日は依然としてその勢いを衰えさせず、ぎらぎらとした光線を放っていました。最後に原爆死没者慰霊碑にお祈りし、新幹線で九州へと移動しました。

(2)長崎の鐘 −心に架かる、祈りの虹− へ続きます。



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