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白百合の誘(いざな)い
〜2006 伊勢・熊野訪問記〜
2006年8月末、伊勢・熊野を訪れました。夏の大地や海は太陽の神々しさそのままの輝きをみなぎらせているように感じられました。行く先々に咲く白百合に誘われながらの行程だったように思います。 |
中辺路を行く |
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8月21日、新宮市の宿泊先を出発した私は、熊野川右岸の高まりにある丹鶴(たんかく)城跡へと向かって、新宮市街地を俯瞰しました。城跡周辺がおびただしい植生に覆われているために、直下を流れている熊野川の流れや遥かに広がる茫洋とした熊野灘のようすなどは十分に見通せなかったものの、ペアシティをはじめとした商業施設の発達した主邑としての新宮市街地の姿を手に取るように確認することができました。再訪した熊野速玉大社は、輝きに溢れた杜の緑の下で、朱色の社殿がたいへんあざやかな印象でした。紀伊半島南部の中心都市としての基盤を整えた新宮の町中にあって、暗緑色の緑深き森に包まれた神社の姿は、ここが霊験新たかな修験の場として、また浄土、常世の安寧を祈った信仰の対象としての聖地であることを濃厚に伝えています。 新宮市街地を抜けて国道168号を進み、トンネルを抜けますとそこには切り立つような山々の中を穏やかに、悠然と流れる熊野川の堂々たる流れがありました。両側の山々はそそり立つような断崖によって川と向き合います。その崖の裾を洗うように、ゆったりとたゆたうような光の帯となった熊野川は、山深い紀伊山地の山中をただ静かに進みます。そして流域にほとんど集落を発達させず、その厳かな雰囲気そのままに海を目指していきます。国道を車で川と並走するだけでも、幽玄の空気の質感というか、古来より多くの人々が人生の救いを求めて目指した気勢とか、そんな心意気の、ほんの一端にでも触れることができるような気持ちになります。この大河のようにどこまでもおおらかで、そしてどこまでも清らかで、接するものをやさしく包み込む器を備えた事物を、この島々の中を探索しても、そう見つけることはできないのではないでしょうか。遠くに近くに、山肌にかがやく白百合の花のすがすがしさに胸も高まります。
中辺路は熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を指してこう呼びます)へと導かれるルートのうち、京から紀伊半島西岸を南下してきた紀伊路を介し、田辺市街地付近から内陸に入って熊野本宮大社を目指す道を指します。熊野古道館と呼ばれる熊野の歴史や観光案内を行う施設でレンタカーを預けて、中辺路の一部区間を実際に歩きます。熊野古道館では、道路を挟んで向かいにある「滝尻王子」から、峠を越えた「近露王子」近くの熊野古道なかへち美術館の駐車場まで自家用車を移送するサービスを取り扱っていまして、それを利用しての行程です。ところで、ここにいう「王子」とは、熊野古道の道中に点在する祠のような小社のことです。参詣道に数多く祀られたことから一般に「熊野九十九王子」と呼ばれます(実際に九十九か所あるのではなく、それくらい多いという比喩表現です)。熊野三山の巡行はそれら王子を一つひとつ参拝しながら歩んでいきます。熊野への道はまさに巡礼の道であったわけです。滝尻王子は鎌倉末期以降、熊野の御子神五所を祀る「五躰王子」のひとつとされ、藤原定家や後鳥羽上皇も参拝して歌会や里神楽などの奉納を行った記録が残されるなど、古くより信仰を集めてきた王子社です。 滝尻王子からの山道は心臓破りの急坂となります。1109(天仁2)年に滝尻王子を拝した藤原宗忠の日記には「初めて御山の内に入る」と記されるなど、滝尻王子からが熊野の霊域と考えられてきたことも頷けるほどの、たいへんな急勾配です。藤原秀衡が夫人同伴で熊野参りに奉じた際に夫人が急に産気づき出産したという伝説を残す「乳岩」や「胎内くぐりの岩」をめぐりながら、木の根が足場に無数にはびこっていたり、岩が剥き出しだったり、とにかくすさまじい山道にしがみつくように歩き、不寝(ねず)王子跡と呼ばれる場所に到達しました。秘境といえども自家用車で簡単にアクセスし、いかに高貴な身分の者でも自らの足で途方もない距離を歩いたという往時の巡行とは比べようもないほど他愛のない道のりしか歩まない身としては、古来からの雰囲気や面影を求めるにはあまりにも恐れ多い気持ちにもなります。杉木立や鮮やかな常緑広葉樹の混交する山中はどこまでが熊野参りが盛んに行われた中世から近世にかけてのそれの雰囲気を残しているのでしょうか。不寝王子は中世の記録には現れず、初出は江戸時代元禄期に著された「紀南郷導記」で、それには「ネジまたはネズ王子と呼ばれる小社の跡がある」とされていたのだそうです。
不寝王子での小休止の後、次の参拝地である高原熊野神社を目指します。滝尻王子から不寝王子跡までの激しい上り坂から比べれば緩やかといえるかもしれないものの依然として起伏の大きい山道の連続です。途中本道をそれて田辺市中辺路町の中心集落を見下ろす見晴台に立ちました。遠くまでたおやかにつながる山々の稜線は青空とくっきりとした対照をなして、輝かしい空色と緑色との風景が広がっていました。その山々のあわいに発達した集落は山肌の狭い平地に張り付くような印象ではなく、穏やかに緑に寄り添うような雰囲気を見せていたのはあるいはこのきらめくような日差しの下であったためなのでしょうか。その後もアップダウンのきつい山道を、時折アスファルトの林道に出ながらひたすらに歩いていきますと、やがて古道は人里の中へと導かれていきます。 その高原集落ののびやかな景観は、疲れきった気分を落ち着かせてくれました。熊野参詣道中辺路における最古の神社建築である高原熊野神社は室町時代創建の春日造の社殿が鮮やかな容貌を見せています。神社の社叢を構成する楠は老木が多く、中には樹齢1000年を越えるものもあり、歴史を感じさせます。高原熊野神社は熊野九十九王子には数えられないものの、中世以降熊野参詣道の中継地として厚い信仰を受けてきた神社です。猛々しい陽光に包まれた山中の家並みを進み、駐車場のある休憩施設「高原露の里」にて小休止としました。ここまでの厳しい道のりで体は汗だくでくたくたになってしまい、休まないわけにはまいりませんでした。施設内には「昭和10年頃の高原」と題された風景写真が飾られていまして、棚田の連続する景観がたいへん印象的です。高原集落はまた、朝露の風景が美しいところで「露の里」と美称されるのだそうです。炎天下からの眺めも霧に煙る景色に劣らない、すばらしいものでした。日光を受けて輝く棚田の穂波、たおやかに続く集落の家々や水車小屋、あざやかにゆるやかなカーブを描く山並み、どれをとっても本当にいきいきとしていまして、癒される光景でした。稲の緑をバックに咲くオミナエシの黄色も残暑の季節を連想させてたいへんさわやかでした。高原集落を過ぎますと、道はいよいよ山中へと入っていきます。大坂本王子の先にある「道の駅熊野古道中辺路(牛馬童子ふれあいパーキング)」まではバスの通過する国道等へ迂回することが一切できません。およそ2時間40分あまり、まさに山の中の道を進むこととなります。高原の集落を抜ける段階から既に始まった坂道ですら息を切らしてしまう状況下にありながらも、石垣に咲いた百合の花にエールをもらいながら、足を動かしていきました。
かつて熊野本宮大社の大鳥居があったことにちなんだ命名という大門王子を過ぎ、富田川に沿ったわずかな段丘面に開かれた穏やかな集落を見通せる場所を通り、依然として上りあり下りありのすさまじい山道が続いていきます。急な坂道に出くわすたびに覚悟を決めてひたすらに上り、平坦な部分ではなるべく早足で歩いて時間を稼ぎ、下りでは足に極端な負担をかけないように慎重に歩きました。十丈(重點;じゅうてん)王子は、ふるくは重點王子と呼ばれていたものが江戸期以降は十丈王子とされるようになったもので、ここには数件の茶店を営む民家が存在し、王子神社が祀られていました。現在、ここにあった神社は田辺市下川下(旧大塔村下川下)にある下川春日神社に合祀されて社殿はまったくありません。あたりは杉木立の続くなか、それらが切り開かれたような空間が広がるのみです。これは明治末期に国家政策として推進された「一町村一神社」によるもので、熊野古道に残されてきた多くの神社が失われたといいます。杉の林が連なるという、わが国の山村地域ではしばしば見られる光景の中に埋没した王子社の跡地を見るにあたり、国家的な価値観が時に真に見据えるべきものを見えなくさせるほどの誤謬を発生させうることをまじまじと見せつけられたような気持ちになりました。 十丈王子を後にして、小判地蔵や悪四郎屋敷跡、三体月鑑賞地などを過ぎて、熊野参詣道の只中を半ばふらふらになりながら進みました。道は峠を越えた後は急激な下りが多くなりまして、足場もぬかるんでいたり、木の根が剥き出しになっていたり、岩が露出したようなところであったりと一定せず、足への負担がいっそうきつく、重く感じられます。大坂本王子跡にたどり着きますと、車道沿いにある道の駅熊野古道中辺路までは沢づたいの道を進んで程無い距離となります。疲労は最高潮に達しており、ここから再び箸折峠の上りに取り組み、牛馬王子像の前を進みながら近露の里まで向かう古道を行く体力はもう残っていませんでした。道の駅でしばらく休息をとった後、最後の力を振り絞りながら国道を歩いて、何とか美術館の駐車場に停めてあるレンタカーまで行き着くことができました。近露王子跡は杉の木々に穏やかに囲まれた石段のみが残されていました。熊野参りが盛んな頃は宿場町として大いに賑わったとされる近露の里は、規模こそ縮小しているものの、現在でも宿泊地として、また近在の買い物客を集める小邑として、一定の中心性を持っているようでした。車のキーは近くの民宿に預けられています。
午前9時40分に滝尻を出発し、近露に到達したのは午後3時30分。約6時間にわたる熊野古道・中辺路の散策は苦しい道のりで、熊野参りがどのようなものであったか、そのほんの一端にでも触れることができたようにも感じられます。体力が完全に戻らないまま車を走らせ、熊野本宮大社の長い石段を何とか上がって参拝を済ませました。熊野本宮大社が現在地に移ったのは明治期に起こった洪水以後のことで、それまでは熊野川とその支流とがつくる中州のような場所に巨大な社殿が存在していました。その規模は現在の社殿の8倍ものスケールであったというかつての本宮は、苦難に満ちた九十九王子巡行の果てに堂々と鎮座していたのでしょうか。 熊野を目指す道は人々の幾星霜の祈りの積み重ねによって磨かれ、光り輝いてきました。苦難に満ちた道程を進み、たどり着いた熊野の情景はそれぞれの思いと重なって、おのおのかけがえのない風景となって昇華したのでしょう。ゆるやかに紡がれる大地と海と山と空との記憶は、さわやかな色彩の風となって、人々の心を揺り動かしてきたのでしょう。この夏の映像には熊野や伊勢のさまざまな景観や史蹟などの表情とともに、このうえないやわらかさとたけだけしさとを内包しさっそうと咲き誇る白百合の花が確かにあったような気がいたします。
夏の残照 〜未来へ〜 熊野本宮大社から北へ 熊野川は穏やかに蛇行を繰り返しながら紀伊山地の山奥へと続いていく 時は流れてたゆたう川の流れのように移り変わっていくけれど 空は一瞬の輝きをとどめることなく絶えず流れ行くけれど 大きなあの夏の風景に照らされたひかりのやさしさは 胸に、心に、強く刻み込まれる詩(うた)となる 北へ、十津川の山里を越えて、さらに北へ 夏の日は高い山の山際に見え隠れして次第にその光量を落としていく この道程も終わりに近づこうとしている この川にめぐりゆく水や砂やいきものたちのように 大地に息づきこだまする奇跡を携えて 未来へ向かって歩いていきたい |
Regional Explorer Credit | |
2006年8月18日 | JR大宮駅前発鳥羽行き高速バスに乗車する。 |
8月19日 | JR伊勢市駅前に午前8時到着。外宮、月夜見宮、内宮、猿田彦神社、月読宮、古市、近鉄宇治山田駅、河崎、二軒茶屋と伊勢市街地をフィールドワークを行う。そのまま伊勢市内にて宿泊。 |
8月20日 | 近鉄宇治山田駅前でレンタカーを借り、斎宮(明和町)、二見浦、鳥羽展望台、横山展望台、賢島とドライブし、その後紀伊半島東岸を南下、那智大滝、熊野那智大社を参拝し、新宮市街地を概観。新宮市内にて宿泊。 |
8月21日 | 丹鶴城公園散策、熊野速玉大社参拝後、国道168号を北へ進み、田辺市中辺路町にて滝尻王子〜近露王子の間の中辺路を踏破。熊野本宮大社参拝後、十津川経由で和歌山県橋本駅前へ向かいレンタカー返却。南海電車、JR大阪環状線、同東海道本線を経てJR京都駅到着。京都市内にて宿泊。 |
8月22日 | 京都市内(伏見)、宇治市内フィールドワーク実施。京都駅前出発の夜行高速バスにて帰路に就く。 ※8月22日の部分については、「シリーズ京都を歩く」第6集「東山から伏見・宇治へ」に掲載しています。 |
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